第七十四話 鬼狩師の決着
「華鈴ちゃん、中に入ったみたいだね」
という日比那の声が、ちょうど一人片づけた蓮の耳に届いた。
「あぁ。俺たちもすぐ後を追うぞ」
皇帝のおわす彩都を担当する鬼狩師たちはさすがに強者ばかりだが、何度か共に仕事をしたことがある者ばかりでその手の内は知れている。
見切るのは容易い。
残っているのは、あと数人。
しかし、この残っている者たちを蓮は知らない。
蓮と日比那を相手にしてまだ立っていられるのだから、かなり腕の立つ鬼狩師であることは間違いない。
蓮が万全な状況下であるなら、簡単に倒せるだろうが、今はかなり身体に負担がかかっている。
華鈴や日比那に気づかれると面倒だし、敵に弱みを見せたくなかったので強がっていつも通りの動きを通してきたものの、そろそろ限界が近づいていた。
同じく限界なのだろう、日比那の顔にも冷や汗が滲んでいる。
「日比那さん、もう終わりですか。せっかくあなたとまた手合せできると思っていたのに残念です。あぁ、もしかしてあの傷が開きましたか」
日比那よりもたちの悪い薄ら笑いを浮かべた男が、日比那と対峙している。
裏切り者の中で一番の発言力を持つであろう男の一言で、この場の戦闘が一時休戦状態になった。
あの傷、とはおそらく日比那の腹部の傷だろう。
日比那にあれほどの傷を負わせたのは誰なのか気になってはいたが、この細身の男だというのか。自分を傷つけた男を見て、日比那は傷が痛んだのか顔をしかめた。
「遼炎……」
遼炎。やはり、蓮は知らない。
長く彩都には立ち寄らなかったから無理もないが、この得体の知れない男について知らないことが致命的に思われた。
しかし、日比那は遼炎を知っているようだ。
同じ彩都なのだから当然だが、日比那の表情はただの同僚に向けるものではない気がした。
必要以上に他人を自分の中へ踏み込ませず、適度な距離を保つ日比那にしては、複雑そうなものが見えた。
この遼炎という男は日比那にとってどういう存在なのだというのか。
「あなたはわたくしたちの、いえ、わたくしの憧れだったのですよ」
そう言って伏せられた目にどんな感情が浮かんでいるのか、少し離れた位置にいる蓮には見えない。
「なら、どうしてオレを裏切ったの?」
日比那が珍しく顔から笑みを消し、遼炎を見つめた。
その目は真剣そのもので、日比那の得意な嘘の言葉ではなかった。
「先に裏切ったのは、あなたの方でしょう」
遼炎は馬鹿にするようにふっと笑った。しかしその瞳は笑っていなかった。
冷たく、深い悲しみに似た怒りが、遼炎を動かしていた。
「だから、こんな真似をするのか。お前らはガキ以下だな」
一方的に日比那を責めている視線が許せなくて、蓮は勢いのまま遼炎の胸倉を掴んだ。
「蓮様には関係のないことです」
「はっ、ここまで巻き込んでおいてか!」
彩都を守る鬼狩師でありながら、この地を危険にさらした責任は重い。
歪んだその精神を力づくでも矯正してやる、と蓮はおもいきり遼炎の整った顔を殴った。
遼炎は避けることをせず、ただそのまま薄い笑みを浮かべていた。
実は弱かったのか、といぶかった蓮だが、自分の拳に手ごたえがないことに気づき、目の前の遼炎を見る。その顔には傷一つついていない。
まさか、髃楼と同じように傷つけることができない人間なのか、という考えが頭をよぎるが、すぐに違いに気づく。
「ちっ、幻術……か」
「ふふ、どうぞ、わたくしの顔を殴りたければいくらでも殴ってください」
その言いぐさに苛ついたが、幻覚相手に本気になる馬鹿にはなりたくない。
すぐに投げるようにして掴んでいた胸倉を離す。
しかし、触れることができるなどよくできた幻術だ。
彩都という平和な街で、幻術に秀でた鬼狩師が配置されていたとは。この男は彩都で何をしていたのだろうか。
人を惑わせる幻術を使うなど、表の仕事とは思えない。
おそらくは裏の仕事を受け持っていたのだろうが、そうなれば日比那との接点が思い浮かばない。
「蓮、やめてくれ。確かに、オレは遼炎を裏切ったことになるのかもしれない…………」
日比那が静かに言った。日比那と遼炎の間には、蓮が知らない何かがあったのだろう。
しかし――――。
「だからといってこいつらが裏切ってもいい話にはならない。何があったのか知らねぇが、今ここで重要なのはこいつらが俺らの敵だという事実だ。裏切った事情なんざ後からいくらでも話せばいい。お前にこいつらを倒す覚悟がないなら、俺一人でいい」
華鈴が一人で髃楼に立ち向かっているというのに、今ここで訳のわからない事情に足止めを食らうのは御免だった。
蓮は自分の身体が思う通りに動かないことにも、一方的に主張を通す遼炎にも、その言葉を真に受けている日比那にも、何もかもに腹が立っていた。
その苛立ちにより、一時的に身体の痛みを忘れた蓮は、その言葉通りに残っていた鬼狩師たちを一人で相手どり、次々に意識を奪っていった。
そこには今までの戦闘の疲労も、傷による動きの鈍さもなかった。
「……やっぱり蓮はすごいな」
かすかな日比那の呟きが聞こえたかと思うと、日比那は袖から特製の暗器を取り出し、陽惶殿の朱色の太い柱にシュッと投げた。
「ぐっ……」
日比那が投げた暗器は、柱の影にひそめていた遼炎の肩に刺さっていた。
その迷いのない動きから、日比那は初めから遼炎の幻覚を見破り、本体の場所まで突き止めていたということが分かる。
それを蓮に教えずに黙っていたことにまたこめかみがひくついたが、これ以上傷口を開かせる訳にはいかない。
遼炎が柱にもたれかかりながら膝をつく頃には、蓮は残っていた男たち全員を地面に転がしていた。
「それ、強力な痺れ薬が塗ってあるからしばらくは動けないよ」
さっきまでの弱々しい様子はすべて演技だったのか、と問い詰めたくなるほどに爽やかな笑顔を浮かべて日比那は遼炎に言った。
「……あなたは、やはりそうして人を見下して笑っている時が一番輝いていますね」
全身に痺れ薬が回り始め、話すのも苦しいだろうに、遼炎は日比那に対する嫌味を詰まることなく言い放った。
「そうだね。俺は遼炎みたいに真っ直ぐな人間ではないから」
この男のどこが真っ直ぐなのか、日比那に問い詰めたかった蓮だが、二人には自分の知らない何かがあるのだと思えば何も言えなかった。
「あなたが、それを言いますか……」
「まぁね。遼炎を拾った責任は俺にもある訳だし、君に黙って勝手に彩都を離れたのは悪かったと思ってるよ。でも、俺にも負の感情はある。人間だから、ね。遼炎もそうだっただろう?」
問われた遼炎は、そのことに今初めて気が付いたかのように目を見開き、しばらく何も言えずにいた。
痺れ薬の効果なのか、遼炎の中に何か思うところがあったのか、涙は出ていないのに、彼の口からは嗚咽のようなものがこぼれていた。
そして、ところどころに謝罪の言葉が混じる。
それは、聞き取れないほどのかすかなものであったけれど。日比那はそんな遼炎の頭をそっと撫で、「また後でね」と笑った。
蓮は倒れた男どもを檻代わりの結界に閉じ込めながら、二人のやり取りを見ていた。
詳しい話はまた日比那を問い詰めるとして、ひとまず遼炎は心を改めたのだろうか。
人間の心など簡単に変わりはしないが、自分の過ちを認めることで変わるものもある。
日比那も、華鈴がいなければ昔のまま誰にも心を開かないまま自分自身の闇に堕ちていただろう。
誰かの力を借りて、人は変わることができる。遼炎が日比那の言葉に耳を傾けることができるならば、きっと大丈夫だろう。
「さっさと来い、馬鹿が」
「ごめんごめん」
全く悪いと思っていないような笑顔を浮かべて歩いてくる日比那を見て、蓮のこめかみが再びぴくりと動いた。
「そういえばさ、蓮も怪我してるよね? あんまり無理してると華鈴ちゃんが心配するよ~」
人が必死で隠していた怪我のことまでお見通しらしい。
蓮は日比那に対して隠し事ができないのに、日比那には隠し事が多すぎる。
遼炎のことも、蓮は何も知らなかった。
そのことにまた腹が立つ。
しかしそれは今に始まったことではないので、もう仕方がない。
少しずつ、日比那が自分から明かすのを待つしかないだろう。
これからも蓮は変わらず、日比那の味方でいるだろうから。
「ありがとう、蓮」
もうすでに日比那ではなく華鈴のことを考えていた蓮の耳には、小さな声で発せられた日比那の声は届いていなかった。
もちろん、蓮に聞こえていないと分った上で発せられた言葉だからそれも仕方ない。
蓮は日比那を救ったのは華鈴のおかげだと思っているが、いつも陰ながら日比那を心配し、支えていた蓮の存在も確かに日比那の心を救っていた。そのことを改めて言うのも照れくさく、何も知らない蓮の反応を見るのも面白いので、日比那は蓮に何も言わない。
この理由を蓮が知れば間違いなくボコボコにされるだろうから、日比那は絶対に本人には言わないと決めていた。




