第七十二話 取り戻した光
「華鈴、やめろ!」
ずっと聞きたかった声が、側に居てほしかった人の声が、華鈴の耳に届いた。
周囲が闇に包まれ、幽鬼の呻き声が響き渡る中でも、しっかりと華鈴の耳には蓮の声が聞こえた。
同じく蓮の声を聞いたであろう、髃楼の瞳に、わずかな動揺が見えた。
殺したはずの人間が目の前に現れれば、髃楼でも少しは驚くらしい。
目の前の男を殺そうとしていた華鈴の手はもうその勢いを失い、震えていた。
「……蓮、さま?」
蓮は一体どこにいるのだろう。
華鈴は髃楼のことなど忘れて、蓮の姿を探す。
しかしどこを見ても真っ暗な闇ばかりで、幽鬼以外何も見えない。
もう、自分は完全に闇に堕ちてしまったのかもしれない。
そのことに気づくと、蓮に会わせる顔がなかった。
こんな醜い幽鬼姫の姿、蓮だけには見られたくない。
蓮が生きていた、その事実が分かっただけでもよかった。
そうして再び髃楼に向き直ろうとした時、冷たい闇の中、華鈴の身体はふいに暖かなものに包まれた。
何故だか、その瞬間おもいきり泣きたくなった。
助けて、とそのぬくもりにすがりたくなった。
しかし――――。
「何をしている! お前は馬鹿かっ!」
華鈴を温かく包み込んでくれていたその人は、これでもかというほど大きな声で華鈴を怒鳴りつけた。
その雷が落ちたような衝撃に、華鈴の涙は引っ込んだ。
顔を上げれば、鋭い碧の瞳がこちらを見つめていた。
本気で怒っている、ということは蓮の表情から理解できた。
怒っていながらも、その優しい腕は華鈴を闇から引き戻すためにしっかりと抱きしめてくれる。
「俺はお前に言ったはずだ。幽鬼姫は闇に堕ちた者の“光”であると。そのお前が闇に堕ちてどうする? それで誰か救えるのか!」
蓮のその言葉で、華鈴は自分のやろうとしていたことがただの独りよがりだったのだと気づく。
髃楼と同じ闇に堕ちることで、華鈴が犠牲になることで、すべてをなかったことにしたかったのかもしれない。
華鈴の存在こそが、髃楼の罪であり、華鈴の罪であると考えていたから。
存在してはいけないなら、髃楼を道連れに死んでしまおうと心のどこかで思っていた。
それで、すべてが丸く収まると考えていた。
しかし、華鈴が髃楼を殺したところで、幽鬼たちの“光”が失われるだけだ。
幽鬼姫として救えるはずだった幽鬼たちの魂までも、永遠に闇の中にさまよわせることになる。
幽鬼姫の存在を光だと信じてくれている蓮を、華鈴のことを幽鬼姫として認めてくれた日比那を裏切ることになる。
そして、初めてできた友人与乃のことも、華鈴を守ってくれた両親のことも、華鈴に冥零国の運命を託してくれた蒼華大神様のことも。
今まで華鈴を信じてくれていたすべてのものを、自分は捨てようとしていたのだ。
そのことに、初めて気が付いた。
もう、華鈴は独りではない。
だからその命も、華鈴の好き勝手にしていいものではない。
いくら一人で背負おうと思っても、知らずみんなを巻き込んでしまうことになる。
華鈴がみんなを守りたいと思うように、みんなも華鈴を守ろうとしてくれるから。
それなのに、一人で戦っている気になって、髃楼と共に闇に堕ちようとしていた。
だから、蓮はこんなにも怒っているのだ。
本当に自分は大馬鹿者だ。
知らず、華鈴の目からは涙がこぼれていた。
情けないやら嬉しいやらで、どんどん涙はこぼれてくる。
それでも、今は泣いている場合ではない。
「申し訳ありません、蓮様。私は幽鬼姫として、闇ではなく光で髃楼を導いてみせます」
華鈴は涙を拭いて、真っ直ぐに蓮を見据え、強い決意を口にした。
心を闇に支配された髃楼を、同じ闇に染まった心で止めることなどはじめからできるはずがなかったのだ。
「分かればいい。幽鬼姫を守るのが鬼狩師の務めだ。華鈴、もう一人で危ないことはするな。心臓がもたない」
華鈴の頬を手で優しく包みながら、優しく甘い言葉を耳元で囁いた。
そのうえ、涙で腫れたまぶたに口づけを落とすものだから、こんな状況なのに華鈴は思わず腰を抜かしそうになった。
白い頬は牡丹のように真っ赤に色づき、華鈴はもう蓮のこと以外考えられなくなる。
一瞬で髃楼への怒りや恨みの感情を吹き飛ばされてしまった。
「蓮だけずるいなぁ、オレも混ぜてよ」
いつもよりもかすれた声を上げ、日比那が腹部を抑えながら歩いてくる。
よく見ると、日比那の派手な着物はボロボロで、真っ赤な血が滲んでいた。
「日比那さん! その傷は……!?」
「あぁ、ちょっとね。まぁ蓮が手当してくれたから今は大丈夫だよ」
華鈴を安心させるように笑った日比那の額には、じんわりと汗が浮かんでいる。
酷い傷だったのだろう。
蓮は何故大人しくしていなかったのかと日比那を睨んでいる。
「だって、幽鬼姫を守るのは鬼狩師の役目、なんでしょ? 俺だって可愛い幽鬼姫を守りたいし」
そのあまりにも痛々しい様子に言葉を失っていた華鈴に、日比那は軽く笑って言った。
「その傷で無理をしてお前が死んだりでもしたら、こいつが悲しむだろうが!」
「大丈夫、オレはそんなにやわじゃないし」
ちっ、という蓮の舌打ちが近くで聞こえる。
何を言っても日比那は大人しくしてくれないと悟ったのだろう。
しかし、そうは言っても怪我人である。華鈴は早く安静にしてほしかった。
「日比那さん、身体を大事にしてください!」
「嫌だよ。華鈴ちゃん、これはオレの戦いでもあるんだよ。裏切り者の鬼狩師が話しているのを聞いたんだ。オレの村を滅ぼしたのも、髃楼の計画の一つだったってね」
日比那の村を滅ぼしたのも、髃楼だったというのか。
髃楼は一体どれだけの命を奪えば気がすむのだろう。
しかし、その言葉を発した日比那の瞳に、今までにはない冷たいものが混じっていた気がして、華鈴は背筋が凍るのを感じた。
髃楼に利用されて怨みに支配されていたあの時と同じもの、それ以上のものを感じた。
ますます、日比那をここにとどめてはいけないと思うのに、先ほどまで同じように怒りや恨みを暴走させていた自分に彼を止める資格があるのだろうか。
華鈴は言葉に詰まる。
しかし、今の日比那を髃楼と戦わせる訳にはいかない。
「日比那さんの気持ちは分かりました。でも、髃楼のことは私に任せてください」
髃楼に恨みを持つ日比那に、見てほしかった。
幽鬼姫として、華鈴がどう決着をつけるのか。
「わかった、幽鬼姫には逆らわないよ」
にこっと笑った日比那の顔には、先ほどまでの黒い感情は浮かんでいなかった。
それを聞いて、蓮がため息を吐く。
結局、日比那はこの場に残ることになり、髃楼の決着は華鈴がつけるという形になってしまった。
ただ守られるのは、もう嫌だった。
華鈴は、もう弱いだけの人間ではない。
一緒に戦ってくれる仲間が、支えてくれる仲間がいてくれる。
それだけで、どんな困難にだって立ち向かえる。
前だけを見て、歩いて行ける。
華鈴は、蓮と日比那を交互に見てにっこりと笑った。何の穢れも知らないような、無垢な笑顔で。
《幽鬼たち、もういいの。ありがとう》
華鈴はそのままの笑顔を群がる幽鬼たちに向けて言った。
華鈴のこの一言で、朱紅城の広場に集まった幽鬼たちのほとんどが光となって消えた。今は強い憎しみを持つ幽鬼や呪具に支配された幽鬼が数体残っているだけだ。
それだけでも、見える景色は随分違う。
完全な闇に包まれていた広場は立派な陽惶殿が視認できるまでに霧が晴れ、空気も少しずつ澄んできている。
倒れている兵士たちは、傷ついてボロボロになっているが誰ひとり死んでいない。
華鈴はそのことを確認してほっと息を吐く。
自分が幽鬼を呼んだせいで誰かが傷ついていたら……と思うと不安で仕方なかったのだ。
周囲に何も問題がないことを確認して、華鈴は髃楼に向き直る。
髃楼を取り囲んでいた幽鬼はもういない。
白く整った顔は青ざめ、黒い瞳は恨みがましく華鈴を睨みつけている。




