第七十一話 黒く染まった心
もう、どうなってもいい。
華鈴は、生まれてからずっと表に出すことのなかった負の感情を解放し、幽鬼に血を与える。
怒り、憎しみ、恨み、哀しみ……華鈴の中で膨れ上がる感情に呼応するように、幽鬼の力は増していく。
すべてが闇に包まれる。
しかし、すべてをぶつけても目の前の男は苦しむどころか傷ついてすらいない。
こんな闇の中でも楽しそうに笑っている。
その表情を見て、華鈴の苛立ちは増す。
(何故、死なないの?)
何十、何百もの幽鬼の前で余裕の笑みを浮かべている、華鈴の心を闇に染めたこの男が、憎くて憎くてたまらない。
もっと、もっと、醜くて、苦しい闇の中に堕としてやる。
歴代の幽鬼姫が味わった苦しみ以上のものを、この男に。
「ふはは、我が娘ながら美しい。美しい闇だ。もっと怒れ、もっと恨め……そうすれば、ようやく終わる」
幽鬼の呻き声に紛れて、髃楼の透き通るような美しい声がする。
どうして、この男は怨念に支配されているはずなのにこんなにも美しい容姿をしているのだろうか。
その姿は、人を惑わせる。
自分が間違っているのではないか。
何が正しくて、何が間違っているのか。
人の心の闇とはいったい何をさすのか。
髃楼が美しければ美しいほどに、華鈴は自分がわからなくなる。
髃楼は、初代幽鬼姫から幽鬼姫を殺し続け、実の妹の凛鳴、華鈴の母、香亜村の人々も、華鈴の知らないところで多くの命を奪っている。
許せない。許せるはずがない。
それなのになぜ、初代幽鬼姫は髃楼を救ってほしいと願うのか。
彼女の力を継いでいる華鈴だから、救えると思っていた。
髃楼が皇帝であり自分の父親だと知り、絶対に止めなければならない、と思った。
しかし今、華鈴は恐ろしく黒い感情に呑まれていた。
幽鬼に影響を与えると同時に、幽鬼の感情をも自分の中に宿した華鈴の内には、憎悪と恨み、悲しみ、闇しかなかった。
守りたかった人々の顔よりも、目の前にいる、憎しみを向ける相手をどうやって苦しめるか、ということしか頭になかった。
幽鬼の光であるべき華鈴が、完全に闇に呑まれて髃楼と対峙していた。
「今度こそ、あなたを殺す! 歴代の幽鬼姫が成し遂げられなかったことを、私が……っ!」
髃楼を救いたい、という思いを抱えながら力を解放していた時の華鈴とは違う。
髃楼を殺すことに、今の華鈴は何の迷いもなかった。
心中は、髃楼への感情で真っ黒に染まってしまっていた。
闇を思わせる着物を幽鬼に引き裂かれながらも、髃楼の身体には傷一つない。
どうすれば、この男を消すことができるのか。
漆黒の瞳でじっと髃楼を睨む。
広場には、華鈴の感情によって集まってきた幽鬼たちで溢れかえっていた。邪気の濃さが尋常ではない。普通の人間がこの場にいたのなら、心を病んで死んでしまうだろう。
他人を巻き込む前に、髃楼の魂を消さなければならない。
(蒼華大神様、私の選択は正しいことですよね……?)
幽鬼が傷つけることができないのなら、髃楼がしたように華鈴の手で殺せばいい。
華鈴が髃楼に近づくために、幽鬼たちが跪いて道を開ける。
「〈幽鬼姫〉として、娘として、私があなたを終わらせるわ」
髃楼の瞳に恐怖はなく、あるのは喜びだけだった。
その感情が理解できなくて、華鈴はますます苛立ちを覚える。
ここからは、お互い、幽鬼を使って傷つけ合うことはできない。
一対一の殺し合いだ。
華鈴を育ててくれた両親は自分たちの命を捧げてでも、華鈴を守ってくれた。
それなのに、守られた華鈴は、自分の手で実の父親を殺そうとしている。
華鈴も髃楼も、同じような漆黒の瞳で見つめ合い、笑っていた。
この光景だけ見れば、誰もお互いに殺意を抱いているとは思わないだろう。
しかし、二人の笑みには黒い感情が、その瞳には互いの憎しみが映っていた。
華鈴は髃楼に手を伸ばす。
髃楼も華鈴に手を伸ばす。
しかし、髃楼の手は幽鬼に掴まれて華鈴には届かなかった。そして、華鈴の両手はしっかりと髃楼の首に巻き付いた。
「……死んで!」
華鈴が叫び、手に力を込めた時――――。




