第六十五話 憎悪に呑まれて
「幽鬼姫の力は、こんなものなの?」
嘲笑うような髃楼の声がした。
幽鬼たちの悲鳴が、より一層強くなった。
幽鬼たちの鋭い爪に引き裂かれたはずの皮膚には、傷ひとつなかった。
華鈴は驚愕に目を見開く。
あれだけの幽鬼が殺意を持って髃楼を襲ったのに、闇そのものである髃楼には傷ひとつつけることもできないのか。
「僕を殺すんだろう? あぁ、少し迷いがあったのかな? そうだよね、僕は君の父親だから」
ふふっと髃楼は口元を歪めてみせる。
華鈴の心の迷いが、幽鬼たちにも伝わっていたというのだろうか。
髃楼を殺すしかない、そう確信しているのに。
この世で最も闇に近い存在である髃楼は、この世でたった一人の華鈴の父親でもある。
血筋を重んじる冥零国では、血のつながりが何よりも重要視される。
それが皇族ともなれば、尊い血に誰もが敬意を払い、頭を垂れる。
その血が流れることは、あってはならない。
神に守られし皇族が存在してこそ、冥零国は強大な国でいられるのだ。
華鈴は、そんな皇帝の娘であり、皇帝を殺そうとする幽鬼姫である。
「そうだ。せっかくだし、娘に僕の話を聞かせてあげよう」
黙り込む華鈴に、髃楼が優しく話し始める。
「僕は、今まで幽鬼姫を殺してきた。それでも、幽鬼姫は必ずまた生まれてくる。うんざりするよね。幽鬼姫の力は蒼華大神から与えられたものだ。そして、蒼華大神の子孫である皇族にもその力は少なからず受け継がれる。だから、僕は皇族として生まれ変わることにした。蒼華大神の憎悪の力によって、僕の存在はあらゆる人間の憎悪に入り込むことができたからね。皇帝の子として生まれ変わるのは簡単だったよ。妹の凛鳴が幽鬼姫だと知った時の興奮は今でも忘れられないな。幽鬼姫の力を利用して、この世界をすべて闇に変えるのもいいかと思った。でも、凛鳴は人々を救いたいと城を出ていってしまってね、本当につまらない妹だった」
髃楼は自分を襲っていた幽鬼を愛おしそうに見つめながら話をする。
髃楼の話からすると、彼は自由に転生できる、ということだろうか。
蒼華大神の力は、一人の人間の生命を転生させるだけの力があったのだ。
しかし、その転生を繰り返す度に、髃楼の中には憎悪の闇ばかりが強くなっていったのではないだろうか。
幸福や喜び、愛する、という感情は、もう髃楼の中には存在していない。あるのは、闇だけだ。
「凛鳴様は、あなたの闇に気付かなかったの?」
「さあね。でも、幽鬼姫が幽鬼になるなんておもしろいものを見れて、楽しかったな。その楽しみも君のおかげで奪われたけど……」
やはり、華鈴には分からない。
髃楼が理解できない。
どうしてここまで闇に染まってしまったのか。
何が彼をそうさせたのか。
髃楼は、幽鬼姫を殺すことが目的ではない。
幽鬼姫が絶望し、苦しむ姿を見たいだけなのだ。
そして、幽鬼の光だった幽鬼姫を闇に堕とす。
「幽鬼姫は、あなたを楽しませる道具じゃないわ」
「そう? でも、君は僕を楽しませるために生まれてきたんだよ?」
「違う」
「違わないよ。僕が皇帝になったのは幽鬼姫を生ませるためだ。自分から生まれてきた幽鬼姫をこの手で殺す。ゾクゾクするだろう? 今までの幽鬼姫よりも、深い絶望を詠うように……ね?」
その言葉に、答えることはできなかった。
華鈴が生まれた理由は、髃楼を楽しませるためだなんて悲し過ぎる。
誰かに心から望まれて、愛が溢れる世界に生まれたかった。
「ずっと、君のことは見守っていたんだよ。でも、失望ばかりさせられた。せっかく君に酷い仕打ちをするように村人の何人かを操っていたのに、怒りに任せて幽鬼を呼び出すこともなかったし、憎悪の感情を表に出すこともなくて、本当につまらなかった。だから、山神を幽鬼で穢して、凛鳴を使って君を殺そうと思ったんだ。意外にも生き残ったから、父親として娘の相手をしてあげようと思って、幽鬼を蘇陵に連れていったんだ。僕に会えて、嬉しかっただろう?」
髃楼は、にっこりと微笑む。今まで、ずっと華鈴は髃楼の影響下で生きてきたのだ。
胡群の村で華鈴が受け入れられなかったのも、育ててくれた両親が死んで独りぼっちになったのも、山神様が神堕したのも、凛鳴様が愛する山神様に酷いことをさせたのも、すべては華鈴を絶望させ、苦しめるため。
蓮がもう一度凛鳴を狩ることは防げたが、その原因は華鈴にあった。
蘇陵に日比那が誘導され、呪具によって幽鬼の闇に囚われ、神聖な深紅山を穢してしまったのも、華鈴が幽鬼姫だったから。
自分で死を選んでいれば、みんな傷つかずに済んだだろうか。
華鈴がいなければ、みんな苦しまなかったのだろうか。
「どうして、幽鬼姫を苦しめるためにそこまでするの?」
わざわざ皇族に転生し、皇帝となり、幽鬼姫を苦しめたいがために子どもを望んだ。
皇帝の妃は、華鈴の実の母親は、髃楼をどう思っていたのだろう。
「蘭華の裏切りがすべての始まりだよ。でも、そんなこともうどうでもいい。憎いんだよ、幽鬼姫が。君のその瞳、気に入らないな。純粋そうな、穢れのない瞳をして、幽鬼を救うふりをして……自分が優位に立ちたいだけだろう。幽鬼姫は、僕からすれば闇そのものだ」
そう言って、髃楼は華鈴の細い首を掴んだ。そして、その手に力を込める。
「やっぱり……蒼華大神の血が僕にも流れているから、幽鬼姫に触れることができる!」
髃楼が皇族になり、幽鬼姫の父親になりたかったのは、幽鬼姫の力に今まで拒絶されていたからなのだと今更ながらに気付いた。
蒼華大神の憎悪によって永遠の命を得た髃楼だが、闇の存在だからこそ幽鬼姫の癒しの力に触れることができなかったのだ。
今まで人間を操って幽鬼姫を殺させていたのは、髃楼自身が手を下すことができなかったから。
もし幽鬼姫に触れてしまえば、闇である髃楼の存在は不確かになる。
しかし、自分も蒼華大神の血筋に入り、自分の血を受け継ぐ子どもが幽鬼姫となれば、その身体に触れることはできるかもしれない。
そして、実際に髃楼は華鈴の首を絞めることができている。華鈴の周囲には、不安そうな幽鬼が集まっているが、さきほど髃楼に触れた時に呪具でも使われたのか、動けなくなっていた。
(このまま、殺される訳にはいかない……!)
強い力で首を絞められ、華鈴はうまく息ができない。
いつもなら華鈴を守ってくれる幽鬼たちも頼れない。
意識が遠のきそうになりながら、華鈴は細い手足で必死に抵抗する。
「君の母親には感謝しないとね。この僕のために幽鬼姫を生んでくれたんだから。でも、もうこの世にはいない」
「……ころ、し、たの……?」
華鈴を生んだ実の母。
幽鬼姫を生むためだけに髃楼に利用された人。
華鈴を生んだことで殺されたのだとしたら、あまりに可哀想だ。
華鈴の目に涙が浮かび、その雫が頬を伝って髃楼の手に落ちた時、手の力が少しだけ緩んだ。
その隙に髃楼の身体を突き離し、華鈴は後方へ下がる。
髃楼を見ると、彼は楽しそうに目を細めていた。
「殺したよ。あの女は僕を止めようとしたからね」
「そんな……っ!」
「うん、いい感じだ。僕が憎いだろう? でも、元はといえば君のせいでもあるんだよ。娘を返してほしいって、喚くもんだから、うっとおしくなっちゃってね」
その言葉を聞いた瞬間、華鈴の中に今まで抑え込んでいた感情がプチン、と切れた。
実の母親に、華鈴は求められていた。
その母親の手から華鈴を奪ったのは、父親である髃楼だ。
それも、幽鬼姫を利用し、苦しめるために。
そのせいで、母親は娘を奪われ、命までも奪われてしまった。
ああああああぁぁ………っ!
華鈴の叫びに、幽鬼たちが反応する。
もう、華鈴の中に肉親としての情などなかった。
ただ、目の前の男を許すことはできないという思いと、殺意と憎しみだけが華鈴の中に溢れていた。
《私の力を受け取りなさい!》
華鈴はしゃがみ込み、足元に転がっていた蓮の大鎌の刃をその白く美しい肌に押し付けた。
ぷくり、と赤い血が膨れ始め、しだいにじわじわと流れ始める。
華鈴の白い腕から滴る赤い血が地面に落ちることはない。
その血を求めて幽鬼たちが群がってくるからだ。
幽鬼姫の血を浴び、幽鬼は凶暴化した。
そして、びりりと空気が変わるのを感じた。
あまりにも強い闇の力に、この朱紅城を守っていた強力な結界が壊れたのだ。




