第五十九話 都の異変
夜の彩都は思っていたよりも静かで、落ち着いていた。
街を照らす松明や提灯はあちこちにあるが、蘇陵のような華やかさ、賑やかさは感じられない。
完璧に整備され、きっちりと揃えられた建物は、少し冷たい印象を受ける。
通りに人の姿はなく、街はひっそりとしていた。
まるで、何かから身を隠しているように。
「蓮様……」
華鈴が目覚めた時、すでに蓮の姿はなかった。
驚きと安堵の表情を浮かべる日比那と、涙を流す与乃がいるだけだった。
日比那に何があったのか問うまでもなく、周囲には髃楼の呪具の気配があり、華鈴の体内にもその残骸が感じられた。
ずっと華鈴に謝り続ける与乃に大丈夫だと伝え、心配してくれている日比那にも笑ってみせた。
本当に、呪具に犯されていたのかと疑いたくなるくらい、身体は軽かった。
与乃に刺された傷も塞がっていた。きっと、蒼華大神の力だ。
日比那は、鬼狩師の持つ神力では完璧な治癒はできない、と自嘲気味に笑っていた。
目が覚めて真っ先に探したのは蓮の姿だが、どこにも恋しい人の姿はなかった。
彼は髃楼を殺すつもりで彩都へ向かったという。
そして、蓮を追いかける形で華鈴たちも彩都へ急いだのだ。
「彩都の結界に歪みが生じている」
いつものふざけた口ぶりではなく、深刻な顔で日比那が言った。
その言葉に、華鈴もうなずく。
「はい。少しですが、邪気を感じます」
皇族が住む都なだけあって、彩都の警備はかなり厳しい……はずだった。
普段ならば彩都の入り口となる門には屈強な兵士や術者に対応するために鬼狩師が常駐している。
しかし、華鈴たちが門にたどり着いたとき、彩都の第一の守りの要であるそこに人はいなかった。
その時点で、今の彩都の状況がおかしいことは明確だった。
そして、何よりも彩都を幽鬼など闇の力から護るための結界にほころびが生まれている。
「もしかして、日比那さんが彩都を出てしまったから……?」
数千万の人口を誇る広大な彩都すべてを守る巨大な結界は、すべて日比那の手によるものだ。
結界術に優れている日比那だからこそ、彩都に配属された。
冥零国の中心を担う彩都が平和であることは、この国を守ることにもつながるから。
しかし、その日比那がいなかったのだ。だから、結界が機能しなくなったのではないか。
華鈴が青ざめていると、日比那は微笑みながら首を横に振った。
「オレの結界は、術者がいなくてもちゃんと機能するように設計してある。それにね、華鈴ちゃん。この彩都の結界は、術を幾重にも張り巡らせてて邪気なんて入り込む隙がない、オレの結界の中でも最高傑作だったんだよ」
つまり、日比那がいなくてもこの結界には何の問題もなかった。
だからこそ、日比那は幽鬼を求めて蘇陵まで来てしまった。
しかし、それはついこの間までの話だ。
現実に今、彩都の結界は邪気を通してしまっている。
「オレの結界に細工ができる奴はそう多くない。絶対見つけて落とし前つけてやらなきゃね」
そう言って笑った日比那の笑顔は、今まで見た中で一番黒かった。
その瞳の先にいる人物に同情してしまいそうなほど、日比那は冷たい目をしていた。
「この街は、大丈夫なのか……? もしかして、もう幽鬼に攻め込まれていたりしないよな」
華鈴の隣で、与乃が口を開いた。
蓮を追って彩都に行くと決めた時、与乃もついてくると言い出した。
髃楼に術をかけられていた上、与乃の故郷はもう滅んでいた。
これ以上、与乃に辛い思いをしてほしくなくて、華鈴は彼女を安全な場所に置いていくつもりだった。
しかし、操られていたとはいえ華鈴を傷つけてしまったことに責任を感じていた与乃は、華鈴を守るために側にいたいと訴えた。
与乃も、華鈴と同じように孤独だった。
何もかもを失っても、残されたものを守るために必死で生きてきた。
その守るものさえ幻だったけれど。
それでも、与乃の目は絶望に沈んでいなかった。
華鈴を見て、暗く沈みかけたその瞳は再び希望に輝いたように見えた。
そして同時に、もう独りにしないで――という与乃の思いが痛いくらいに伝わってきた。
華鈴に断れるはずがなかった。
華鈴も、蓮が側にいてくれるだけで、どれだけのぬくもりを得ただろう。
孤独だった心に与えられたそのぬくもりを知っているから、与乃にも側にいてほしいと思った。蓮のようにはできないかもしれない。
それでも、華鈴は与乃の側で、共に泣き、笑うことができる。彼女の孤独を埋めていくことはできる。
だから、日比那が反対するのを振り切ってまで、与乃を連れてきた。
華鈴の強い覚悟に、日比那ももう何も言わなくなった。
それは、日比那にも与乃の気持ちが分かるからだろう。
境遇でいえば、日比那と与乃は似ているから。
故郷を幽鬼によって奪われたという、悲しい共通点。
「簡単に幽鬼に攻め込まれるほどやわな結界はつくってないから大丈夫だよ~」
「お前のその笑顔は、あまり信用できない」
「あはは~与乃ちゃんってば手厳しいなぁ」
日比那がから笑をしながら頭をかくと、その腕につけた色とりどりの派手な術具がじゃらじゃらと音を立てた。
「へらへら笑うな! そして気安くあたしのことを呼ぶな!」
「え~、一緒に馬鹿男を縛り付けた仲でしょ? オレのこともひーくんって呼んでくれていいんだよ」
「誰が呼ぶかっ!」
華鈴が眠っている間に少し距離が縮まったのか、日比那と与乃の会話が弾んでいる。
緊張感を持たなければならない状況ではあるが、ずっと気を張っているのは苦しい。
二人がいてくれて本当によかった。
「いつの間にかお二人が仲良くなっていて、なんだか羨ましいです」
「仲良くなってない!」
「ひどい! 与乃ちゃん」
そんな二人のやり取りに、くすりと華鈴は笑ってしまう。
早く、蓮にも見せてあげたい。
楽しそうに笑う日比那を見れば、きっと喜ぶはずだから。
「それにしても、蓮はどこにいるんだろうねぇ。もしかして、もう髃楼に会ってたりして」
「その可能性もありますね。でも、彩都は広いですから。それに、髃楼の居場所が分かるのは、今は私だけです」
華鈴がきっぱり言った。
「え、髃楼がどこにいるかなんて分かるの?」
「えぇ、分かります。もうすぐ着くはずですよ」
傷はもう塞がっているし、呪具の邪気も浄化できた。
しかし、独特な髃楼の呪具の気配は感じ取れる。
華鈴はその気配に引き寄せられるように、足を進めていた。
そうしてたどり着いた場所は――。




