第五十七話 幽鬼姫のはじまり
「恐ろしいものを拒絶して、美しいものだけを見ていては、何も変わらないわ。私は、幽鬼の心に寄り添いたい」
幽鬼は、人の闇が生み出してしまったものだ。
だからこそ、人間は幽鬼を恐れる。幽鬼を通して、自分の心の醜さを知るのが怖いのだ。
しかし、それでは何も変わらない。自分の醜さも、弱さも、受け入れる強さを持たなければならない。
幽鬼は人間の闇が生んだ。
しかし、人間の心は闇だけではない。
人は人を思いやる優しさを持ち、時に自分よりも他人のために動くことができる。
人間の本質は闇ではなく光だ、と彼女は信じていた。
つややかな漆黒の髪、光を宿した黒の瞳を持つ彼女はーー初代幽鬼姫となる彼女は、真っ白な穢れのない布を纏い、祈るように胸の前で手を組んでいる。
「恐ろしい幽鬼に命を喰われてもいいのか?」
初代幽鬼姫にそう問いかけたのは、美しい青年姿の蒼華大神だ。
蒼華大神は蒼の着物に身を包み、優しい眼差しで彼女の答えを待っている。
「幽鬼も人の心を持っているはずです。人を憎み、恨むことは、苦しく辛いことです。私は、もう恨まなくてもいいのだと、憎まなくてもいいのだと、幽鬼も光の中を生きることができるのだ、と教えたいのです。そのことを伝えるためならば、幽鬼にこの命を捧げてもかまいません」
彼女は、迷いのない瞳で言った。その姿はあまりに美しく、その心はどこまでも清らかだった。
「ならば、その命を幽鬼のために使うがいい」
蒼華大神は、初代幽鬼姫の身体に触れた。
その瞬間、彼女の身体は光り輝き、何ものにも穢すことのできない存在へと変わった。
それは、幽鬼姫の誕生の瞬間だった。
そして、幽鬼姫として幽鬼を光へと導く彼女に、人々は羨望の眼差しを向けていった。
彼女は、悲しい存在である幽鬼が生まれないよう、人々の心にも寄り添っていったのだ。
しかし、そんな彼女の前に一人の青年が立ちはだかる。
「お前は、人間よりも幽鬼のことが好きなのか?」
「私はどちらも好きです」
「愛しているのは……?」
最初の問いは真っ直ぐ答えたのに、次の問いには初代幽鬼姫は口ごもった。
それも、赤い顔をして。
「もしかして、あの神を愛しているのか?」
答えない彼女に、青年はきつい口調で言った。
その言葉を聞いて、彼女ははっと顔を上げる。
それは、恋する乙女の表情だった。
初代幽鬼姫は、人ではない蒼華大神を愛していたのだ。
その衝撃に、青年は怒りに顔を歪めた後、嘲るような笑みを浮かべた。
「ははは、笑えるな。お前が幽鬼を救っているのは、蒼華大神に媚びを売るためか。大した女だな。かわいそうな幽鬼を利用して、お前は自分を女神様にでもするつもりだったのか。人であるお前を蒼華大神が本気で愛するはずがないだろう!」
「どうして、どうしてそんなことを言うのですか?」
彼女はその大きな黒い瞳いっぱいに涙を浮かべて言った。
(蒼華大神様の愛が、私には分かる。私たち二人の愛は今、私の中にあるもの……)
「ずっと騙していたのか!」
「お前が幽鬼を使って村を襲わせていたんだな!」
「神の心を得ようなどと、おそろしい女だ」
何百、という人間が、武器を持って初代幽鬼姫を追い詰めていた。
簡単に彼女を捕まえることができないでいたのは、彼女の側には幽鬼がいたからである。
しかし、彼女の背後は断崖絶壁だった。
このまま追い詰められれば、崖下に落ちてしまう。
「違います! 私は、人の闇を照らす光になりたかったのです! 少しでも、明るい世界で、笑って暮らせるように……!」
人々の喧騒の中で、彼女の声は届かない。
狂気に満ちた人々の心を掴んでいたのは、初代幽鬼姫を先程問い詰めていた青年だった。
幽鬼姫は人間のためではなく、幽鬼のための存在であると吹き込んだのだろう。
自分たちはずっと騙されていたのだ、と。
彼女が見せた奇跡は、すべては皆を騙すために仕組んだものだったのだ、と。
何故、純粋な善意を信じるよりも、人は悪意の方を簡単に信じてしまうのだろう。
それはきっと、無償の愛など幻想にすぎないと諦めているから。
彼らは人の愛も、優しさも、見返りがなければ与えられないと思っているのだ。
だから、闇の存在である幽鬼さえも救おうという彼女の行為が理解できなかった。
幽鬼を救っても、何の得にもならないというのに、何故幽鬼姫は救おうとするのだろう。
人々が抱いたその疑問に、青年はみなが納得しやすい理由を勝手につけた。
そうして、幽鬼姫が救おうとしていた人々は興奮した幽鬼によって襲われ、不安定な足場で人々に追い詰められている幽鬼姫は人を襲う幽鬼を止めることができない。
「私は、人間の心は闇だけではないと信じています」
彼女はそう言って、崖から飛び降りた。
その瞬間、騒いでいた幽鬼たちは静まり、狂気に満ちていた人々の目は正気に戻った。
「何故だ……!」
ただ一人、青年だけが絶望の色を浮かべていた。




