第五十五話 すべての元凶
「鬼狩師って、本当に幽鬼姫が好きなんだね」
どこからともなく、淡々と美しい声が響いた。
「髃楼……」
日比那が苦々しくその名を口にした。
その名を聞き、蓮は大鎌を構えた。
その刃の先には、真っ白な布を纏った美しい青年が立っている。
まだ二十代そこそこに見える青年は、大鎌にも微動だにせず、感情のない笑みを顔に浮かべていた。
「お前が髃楼、か……」
蓮の怒りのこもった問いに、髃楼はふっと笑った。
深窓の姫君のようにきめこまやかな色白の肌、切れ長の瞳には感情はなく、薄い唇は笑みを描いている。
目の前のこの男のせいで、母も、日比那も、華鈴も苦しんでいる。
この場で必ず捕えてやる。
蓮はその返事も待たずに鎌を右手で振り上げ、左手で捕縛術の印を結ぶ。
「無駄だよ。この身体は借物だから。傷つけてしまうと、君たちが後で苦しむことになるかもしれないよ」
「ふん、それでも、お前の魂をここにとどめておくことはできるだろう?」
蓮はにやりと笑みを浮かべ、術を髃楼に放つ。
光の縄が、突如髃楼の身体を拘束する。
髃楼は抵抗することもなく、あっさりと捕縛された。
手ごたえのなさに蓮は内心で警戒を強める。
自分の意識を他人の身体に移す高度な術が仕えるのだ、油断はできない。
「せっかくそこに倒れている〈幽鬼姫〉のことについて教えてあげようと思ったのに、知りたくないの?」
「お前に教えてもらうことなど何もない! 日比那!」
蓮の合図で、日比那が髃楼の身体に強力な結界を張る。
日比那の結界からは、魂魄だけでも抜けることはできない。
身体の自由もきかず、その身体から魂で抜け出ることもできないだろう。
蓮と日比那の術を重ね合わせて、強度な檻をつくる。
しかし、それでもまだ髃楼の顔には焦りが見られない。
氷のように冷めた表情で、馬鹿にしたようにこちらを見つめている……幽鬼のような闇色の瞳で。
「これで自由を奪ったつもりなのか。君たちが最強の鬼狩師二人だなんて聞いて呆れるよ」
そう言うと、髃楼は口を大きく開け、闇色の息を吐きだした。
そこから次々と幽鬼が出現し、結界を穢し始めた。
次から次へと結界内に生まれる幽鬼たちの力を、神力を注ぎ込み、抑える。
日比那もさらに強力な結界を張るが、二重に術を使用するのはかなりの集中力と神力を要する。
ずっとはもたない。
蓮自身、捕縛の術と結界術を同時に行使している。
次第に抑えるのにきつくなる。
自然歪んでしまう表情に、髃楼はにっこりと綺麗な笑みを浮かべる。
幽鬼の闇を生み出しながら、とても楽しそうに。
このままでは、結界が幽鬼の邪気に負け、壊れてしまう。
蓮はもしもの場合に備えて横たわる華鈴と脅える雄清、そして与乃を守るための結界を張る。
蓮は、日比那ほど結界術に長けている訳ではない。
髃楼の幽鬼をすべて滅することはできても、そのすべてを結界で封じ込めることはできない。
ここは日比那に任せるべきだ、と判断したのだ。
しかし、日比那が結界を強化する前に、結界にヒビが入った。
ぶわっと強い瘴気が立ち込めて、息ができなくなる。
幽鬼の叫び声が耳をつんざき、視界は闇に覆われた。
そんな中で、ただ髃楼の声だけが響き渡った。
「僕がここに来た理由はね、君たち鬼狩師がどれだけ〈幽鬼姫〉を大切に想っているのかを確かめたかったからなんだ。最強の鬼狩師が〈幽鬼姫〉に縋るなんて、実におもしろいものを見せてもらったよ。あ、そうそう〈幽鬼姫〉はただ怪我で苦しんでいる訳ではない。僕の呪具の破片が体内に入っているからね、そのうち幽鬼姫を内側から闇に堕としてくれるよ。そのまま呪具に呑まれて幽鬼になったら、君たち自身の手で大切な〈幽鬼姫〉を狩ってあげるんだよ。ふ、ふははは……っ!」
多くの幽鬼に阻まれ、去って行く髃楼の気配を追うことができない。
蓮は怒りのままに鎌を振るった。
足止めのためだけに大量に生み出された幽鬼たちは、あまりにあっけなく消えていく。
徐々に瘴気は薄まり、闇に支配されていた視界は、同じように幽鬼と対峙する日比那の姿を捉えられるまでに開けてきた。
日比那は術をかけた暗器を幽鬼に放ちながらこの空間に結界を張り、幽鬼が外に逃げ出さないようにしている。
かなり体力を消耗している日比那を庇うように、蓮はすべての幽鬼を滅した。
ようやく室内が静かになった時、蓮がはじめに口を開いた。
「おい、どう思う?」
「華鈴ちゃんのこと?」
「あいつの呪具はどれだけの力を持っている……?」
実際に髃楼の術をその身に受けたことがある日比那に、蓮は問う。
華鈴は、幽鬼姫として力をコントロールできるようになってきた。
日比那の時も、浄化してみせた。髃楼の呪具に負けるとは思いたくない。
蓮が華鈴の無事を確かめるために振り返ると、華鈴の身体が痙攣していた。
青白い顔はさらに血の気を失っている。
「華鈴っ!」
結界で守っていたはずなのに、どうして状況が変わってしまったのか。
蓮は血相を変えて華鈴の身体を抱きしめる。
震えるその身体を少しでも落ちつけたくて。
そして、少しでも楽になるようにと自分の神力を注ぐ。
それでも、華鈴の顔色は良くならないし、冷や汗も引かない。
「まさか、幽鬼の出現で華鈴の体内に侵入した呪具が反応したのか……」
「くそっ……オレがもっと強力な結界を張っていれば……!」
「あの状況で、いくつもの結界を同時に作り出すことだけでも大変だった。お前のせいではない。俺があいつの意識を奪っていればこんなことには」
自分の不甲斐なさに、反吐が出る。
〈幽鬼姫〉を守りたいと言いながら、蓮は華鈴を守れなかった。
腕の中で苦しんでいる華鈴を救う力もない。
〈幽鬼姫〉の力があれば、華鈴を呪具から救うことができただろうか。
蓮には、何かを破壊し、消滅させる力しかない。
力でしか、大切なものを守れない。
(華鈴、俺はお前が側にいてくれればそれでいい。〈幽鬼姫〉としてでなくていいから、俺は華鈴に生きて、側にいてほしい)
腕に抱いた身体は頼りなく、握った手はか細く、華鈴の本当に華奢で、何か小さな衝撃でもあればすぐに壊れてしまいそうなぐらい繊細だった。
蓮は、冷たい華鈴の身体に神力と体温を分け与えながら、心の中で強く祈る。
どうか、戻って来てくれと。
華鈴に向けられる真っ直ぐな信頼に、どれだけ蓮が救われていたか。
きっと、華鈴は知らない。
華鈴の存在が蓮にとってただの〈幽鬼姫〉ではなかったことを。
蓮は、ずっと母への思いと幽鬼と人間への憎しみを抱えながら生きていた。
その点で、日比那と蓮はかなり似ている。
蓮の心が闇に呑まれなかったのは、〈幽鬼姫〉の存在があったからだ。
〈幽鬼姫〉だった母を守ることはできなかったが、母のやろうとしていたことは自分が受け継ごうと思った。
そして、母と同じ使命を持つ〈幽鬼姫〉が現れたら、その人の支えになり、今度こそ必ず守り抜こうと決めていた。
だから、〈幽鬼姫〉にふさわしい鬼狩師であろうと努力したのだ。
そして出会ったのが、びくびくとしていて何の力も無さそうな華鈴だった。
だが、それはすぐに違うのだと気付かされる。
〈幽鬼姫〉として大切な、誰かを想う気持ちは誰よりも強かった。
(いっそのこと、お前が何もできないただの小娘だったらよかった……)
そうすれば、役立たずに用はない、と冷たく突っぱねることができたのに。
華鈴は自分のことに関しては弱腰なのに、他人のことになると積極的になる。
蓮のことだって、日比那のことだって、放っておけばよかったのに、華鈴は逃げなかった。
見捨てなかった。
胡群の村で、初めて華鈴が〈幽鬼姫〉としての力を自覚した時、蓮は父である山神を滅するしかないと考えていたし、母 凛鳴の怨念を再び狩る覚悟も決めていた。
しかし、華鈴は蓮を止め、父も、母も、その力で救ってくれた。
そのことで、ずっと張りつめていた蓮の心も救われた。
強くあろうと頑張り過ぎた心はボロボロで、両親も、友も、失ってばかりだった蓮の目の前で、華鈴は大切なものを守ってくれた。
大切なものをもう一度失わなかったのは、華鈴のおかげだった。
日比那の心に抱える闇を知り、大切な友のために動くことができたのも、華鈴がいてくれたからだ。
日比那を救ったのは、〈幽鬼姫〉の浄化の力だ。
しかしそれは、華鈴だったからこそ、寄り添うことができたのだ。
華鈴は、〈幽鬼姫〉としてだけではなく、蓮の中で大きな存在になっていた。
だから、今回の髃楼に関しては、華鈴には来てほしくなかった。
蒼華大神が関わっている時点で、危険な仕事だと分かっていたのだ。
しかし、〈幽鬼姫〉の責任を自覚した華鈴は大人しく屋敷で待っていてはくれなかった。
そして、蓮の中にも〈幽鬼姫〉として力を発揮する華鈴を見たい、という思いがあった。
蓮と日比那がいれば、華鈴が危ない目に遭うことは避けられる、守り切れる、だから大丈夫だ。
そう確信していたのだ。だが現実は、自分の力不足のせいで、華鈴は苦しんでいる。
悔しさに、蓮は歯噛みした。
連れてこなければよかった。
いや、それ以前に華鈴が〈幽鬼姫〉でなかったならばーー華鈴が〈幽鬼姫〉でなければ蓮と出会うこともないのだが、今はそう願わずにはいられなかった。
華鈴を失うことになるぐらいならば、〈幽鬼姫〉などいなくてもいい。
ずっと、〈幽鬼姫〉を求めていた蓮が、〈幽鬼姫〉の存在を否定したくなったのは初めてだった。
しかし、ずっとこのまま華鈴が苦しんでいる姿を見ていても何も始まらない。
「日比那、お前の結界術で呪具の力を抑えることはできないのか?」
「無理だ。体内のどこに呪具があるかも分からないし、結界を張ってもし何かの手違いで傷つけてしまったら、それこそ大変なことになる……」
難しい顔をして、日比那が言った。
呪具がどこにあるのか、正確な場所も分からないのに体内に結界を張るというのも無茶な話だった。
それに、結界を張ったぐらいで無力化できるのならとうにできているはずだ。
蓮は自分が冷静さを失っていることを感じ、目を閉じて一つ深呼吸をした。
そして、蓮はあることを思いついた。
「なぁ、日比那。どんな術でも、術者が死ねば効力は弱まり、いずれは消滅する……そうだよな?」
自分でも驚くほどに低く、重みを帯びた声が出た。
蓮の言葉に、日比那の目が見開かれる。
何をするつもりなのか、すぐに分かってしまったらしい。
「このまま、華鈴を苦しめておく訳にはいかない。髃楼を、俺は許せない」
華鈴のことは、日比那に任せておいて大丈夫だろう。
もう二度と華鈴に変な真似ができないよう、蓮は髃楼を殺す。
母の仇、父の仇、日比那の仇、そして華鈴の仇である髃楼を、蓮の手で消してやる。
すべての元凶が消えれば、少しは幽鬼も大人しくなるだろう。
「ちょ、華鈴ちゃんはどうするつもり?」
華鈴の身体を日比那に預け、立ち上がった蓮に日比那が慌てて問いかける。
「蓮一人じゃ髃楼の相手は無理だ……!」
「日比那、絶対に華鈴を幽鬼にするなよ」
「それはもちろん、そうしたいけど……!」
「俺は先に彩都に行く。華鈴は〈幽鬼姫〉だ。呪具の力には負けないだろう。だが、誰かの支えが必要な時もある。俺は守るよりも、武器をふるう方が得意なんだ。今の華鈴には、お前がついていてやった方がいい」
言いよどむ日比那にそう言って、蓮はさっさと屋敷を出た。
蓮を呼び止める日比那の声が背に聞こえる。しかし日比那は、呪具に苦しむ華鈴、発狂して倒れた与乃、髃楼に利用されていた雄清を残して蓮を追いかけてくるほど馬鹿ではない。
安心して背中と大切なものを任せられる友人がいて、蓮は幸せ者だ。
(待っていろ、髃楼。お前が〈幽鬼姫〉に会う前に、俺がお前を消してやる)
強い意志を持って、蓮は彩都を目指した。