第三十九話 絶望の闇の中から
華鈴は、闇に飲み込まれた日比那の意識の中にいた。
そこで、幼い日比那が見たであろう地獄絵図を華鈴も見た。
正直、華鈴だったら耐えられる気がしない。
どうしたってあの地獄の中で笑うことなど、できるとは思えなかった。
しかし日比那は、家族を、故郷を失ってもなお笑顔を絶やさなかった。
そうしなければ、生きていけなかったのかもしれない。
心に抱えた深い傷を見ないようにし、自分さえ誤魔化してしまえば、笑って生きることができるから。
『笑ってなきゃいけないんだよ』
日比那のその言葉は、華鈴を責めているようでもあり、自分に言い聞かせているようでもあった。
日比那にとって、あの笑顔は自分を守るための仮面だった。
しかし、それは自分自身を追い詰めるものでもあった。
自分の感情や本心さえ誤魔化し続けてきた日比那は、自らの心の奥に育ちつつある闇に気づくことができなかった。
だから、日比那はこう言ったのだろう。
『救わなくてもいいから、オレを罰してよ』
こうなってしまったのは自分のせいだから、と。
しかし、日比那が何をしたというのだろう。
ずっと封じ込めていた辛い過去の記憶を抉られ、心はもう傷だらけだ。
彼が望んで闇を引き寄せたとは思えない。
一番の被害者は、日比那だ。
「オレの右手に着けている腕輪を、破壊してくれる? 幽鬼姫の力があれば、きっと簡単なことだと思うよ」
どうすれば二人でこの闇の中から抜け出すことができるのかを必死で考えていた華鈴の耳に、軽い口調の日比那の声が届く。
顔を上げると、薄ら笑いを浮かべた日比那が立っている。
腕輪に飲み込まれ、意識だけの実体になっているからか、日比那は装飾品を一切身に着けていなかった。
日比那の衣は、派手な赤ではなく、闇に溶け込んでしまいそうな漆黒。
そのまま闇の中へと消えてしまいそうなその姿に、華鈴は焦りを覚える。
腕輪の破壊、それができれば日比那を助けられるのだろうか。
しかし――――。
「……その腕輪ですが、ここに来る時に私が触れても、何も起きませんでした」
闇の中に華鈴の意識も取り込まれた、ということ以外は特に何も起きなかったのだ。
「たぶん、それはオレを救おうとして腕輪を外そうとしたからじゃない?」
「え?」
「あの腕輪には、オレの意識が半分以上呑まれているから、ね」
もう説明しなくても分かるよね? といった風に日比那が薄く笑った。
腕輪に日比那の意識が取り込まれてしまっているということは……そう考えて、華鈴は日比那に厳しい眼差しを向ける。
「日比那さんは、自分の意識ごと腕輪を破壊しろと言うのですか? あなたを助けたいと思っている私に……!」
「そうだよ。あの腕輪を破壊しない限り、餌となるオレを利用してこの闇は広がるばかりだ。それが良くないことだっていうのは分かるよね? めでたいはずの蒼龍祭が惨劇に変わることになるよ」
にっこりと、日比那は笑う。
難しい問題の答えは、目の前に転がっているのだと見せつけるように。
(日比那さん、自分を傷つけるためなら、こんなにも優しく笑うことができるんだ……)
自分のことはどうでもいいと思っている。
死にたいと望んだのに、死ぬことを許されなかったから。
あの地獄を見たときに、彼の心は壊れてしまったのだ。
確かに、日比那の腕輪を壊せば、陵墓内に漂う怨念たちは容易に浄化することができるだろう。
しかし、華鈴はそんな結末を望んではいない。
華鈴は、日比那をこの闇から助けたいのだ。そのために、ここまで来た。
まだ、可能性はゼロではない。
日比那の意識を腕輪から取り戻すことができれば、二人でここから出ることができるではないか。
「元凶であるオレが協力しようと言っているんだから、君は喜ぶべきだと思うよ」
華鈴が一生懸命どうすればいいのかを考えているのに、日比那はあっさりと笑ってこんなことを言う。
日比那の笑顔に、蓮が腹を立てる気持ちがよく分かった。
日比那を大切に思っている人物がいることに、彼は気づいていないのだ。
だから、自分が消えても何の問題もないと思っている。
「そんなこと、もう知りません! ここから一緒に出て、日比那さんは蓮様に怒られてください! そして、一緒にいろんな話をしましょう? 私、日比那さんに立派な幽鬼姫だって言ってもらえるように頑張りますから……!」
思わず叫んだ華鈴に、日比那は少し、いや、かなり驚いているようだった。
得意の笑顔も凍り付いてしまい、ただ茫然とこちらを見つめている。
今のうちに、と華鈴は言葉をまくし立てる。
「日比那さん、こんな真っ暗な闇の中にずっと居たいんですか? そんな訳ないですよね? きっと、日比那さんの気持ちがこの闇に囚われているから、ここから出られないだけです。もう、いい加減素直になってくださいよ!」
誰かに怒られることはあっても、怒ることなんて、一生ないと思っていた。
闇の中に意固地に居座ろうとする日比那の態度に、初めて華鈴は怒りを覚えた。
本当は、こんな闇の中からすぐにでも連れ出して欲しいと思っているのに。
誰かに助けを求めていたのに。
ずっと独りで、誰にも助けを求めることができなかった華鈴から見れば、家族であり友人である蓮がいた日比那が羨ましく思えていたのに。
助けを求めれば、その声を聞き届けてくれる人が近くにいたのに、日比那は笑顔という壁で心を閉ざしていた。
何故、素直に助けを求めることができないのか。
幼い頃、〈幽鬼姫〉に助けを求めても助けられず、何も信じられなくなってしまった日比那の気持ちも分かる。
しかし、少なくとも、凛鳴に引き取られてから日比那は独りではなかったのだ。
弱音を吐き、思いをぶちまける場所ができたのに、日比那はずっと独りで抱え込んでいた。
そして、これからも日比那は独りで闇の中を生きようとしている。
それだけは、許せなかった。
日比那は独りではないのだ。
家族のように大切に思ってくれている蓮がいる。
それに、華鈴だって日比那のことをもっと知りたいし、認めてもらいたいと思っている。
勝手に自分を闇の世界に生きる者だと決めつけないで欲しい。
日比那は、ちゃんと光の世界を生きる存在なのだ。
「……誰が、好き好んでこんなところに留まりたいと思うかよ。オレだって、こんな闇とはおさらばして明るい道を歩いていきたいさ! でも、そんなことできるはずがないんだよ……!」
華鈴の言葉を受けて半ば放心状態だった日比那が、突然声を荒げて叫んだ。
初めて、日比那の本心を聞いた気がする。
その言葉は切実で、今までに聞いた日比那のどんな言葉よりも強い力を持って華鈴に届いた。
「諦めないでください。私と、光のある世界へ戻りましょう?」
この闇は、日比那自身が生み出したもの。日比那は自分自身の闇に囚われて動けなくなっていたのだ。
華鈴は、柔らかな笑みを浮かべながら日比那に歩み寄った。
「な、何を……」
そして、戸惑う日比那の手を取り、現実世界で腕輪を付けていた右手首に触れた。
きっと、あの腕輪と繋がっているはず。
(日比那さんの心はもう、光を知っている。そのことに気付いていないだけで)
強く、強く願う。闇が光に変わるように、と。
いつの間にか、日比那の手首に触れている華鈴の手が淡い光を纏う。
「これは……幽鬼姫の、浄化の光? ……ふはは、やっと……オレはあなたを信じることができる」
吐息のように漏れた日比那の声は、集中している華鈴の耳には届いていなかった。
〈幽鬼姫〉は、その手で触れたものを浄化することができる。
しかし浄化の力は、〈幽鬼姫〉が心から大切に思い、失いたくないと強く願うものでなければ使うことはできない。
華鈴がこの力を使ったことで、日比那の心の中にしこりのように残っていた〈幽鬼姫〉への不信感が解けていく。
嘘のように、心が軽い。
日比那を今まで頑なに縛り付けていたものが、少しずつ緩んでいった。
浄化の光は、日比那の手首から全身を包み込み、闇一色だった空間に柔らかな光が差す。
もう、日比那の心は闇の世界ではない。
「日比那さん、一緒に帰りましょう?」
華鈴が微笑むと、少し罰が悪そうに日比那は笑った。
「そうだね、華鈴ちゃん」




