第三十八話 捨てられなかった希望
「母さん、何してるんだよ。オレが分らないの?」
ははは、自分は一体何言っているのだろう。
目の前にいるのは化け物ではないか。
でも、その身につけた着物も、その手が握り潰している花にも、見覚えがあるのだ。
『……ユ、るさナい……殺ス……コろ、す』
怨みの言葉を吐き続ける目の前の存在は、もう自分の知る人物ではなくなっていた。
自分が知る母の体はすでに息絶え、無残にも他の化け物に踏みつぶされていた。
化け物の正体は、幽鬼。
人の怨念や負の感情、闇の塊を具現化したものだ。
まさか、自分の家族が、友人が、知り合いが、そんな闇の存在になってしまう日が来るなんて、誰が想像できただろうか。
目の前に広がるのは、跡形もないほどに荒らされた村と死体の山。
もう、どれが屋敷の破片で、どれが死体なのか、区別をすることも難しいほどに、何もかもが滅茶苦茶だ。
「なんで、なんでオレだけ無事なんだよ! オレのことも殺して、幽鬼にでもなんでもすればいいだろ!」
声が枯れるほどに叫ぶも、幽鬼はこちらに見向きもしない。
こんな地獄を見るくらいなら、死んだほうがましだ。
いっそ殺してくれ。
その願いすら、聞き届ける者はいない。
「幽鬼という闇の存在に光を見せることができるのは、幽鬼姫だけなのよ」
幽鬼姫という存在を教えてくれたのは母だった。
母は、人里離れた田舎の村に住んでいながら、皇城に知り合いがいるとかで、庶民には忘れ去られてしまった伝説をよく話してくれた。
その中でも、一番印象に残ったのが、闇に光を見せる幽鬼姫という存在だった。
「〈幽鬼姫〉なんて、いないんだ。やっぱり、ただの伝説だったんだよ。母さんは幽鬼姫を信じていたんだろうけど、そんな希望はじめからなかったんだよ。闇の中に、光なんて差さないんだ」
だって、もしそんな光の存在があるならば、目の前がこんなにも闇に呑まれているはずがない。
助けを求める声が届かないはずがない。
何度も、何度もこの光景を繰り返し見て、日比那はある結論にたどり着いた。
この世界は、闇一色なのだと。
光があるように見せかけることなど、いくらだってできる。
日比那自身、笑顔で何もかもを隠すことができたのだから。
「日比那さんっ! ダメです、心まで闇に染めてしまわないで――」
突然、何度も見た光景にはなかった人物が視界に飛び込んできた。
先ほどまで、確かに過去の悪夢を見ていたはずなのに。
涙を黒い瞳に溜めて、必死で自分の名を呼ぶその存在に、なぜか可笑しさがこみ上げてきた。
蓮に頼るばかりで、何もできない小さな少女が、一体何をしにこんなところまできたのだろうか。
伝説に聞く、強く美しい幽鬼姫とは全く違う、泣き虫で馬鹿みたいに思ったことが顔に出る幼い幽鬼姫。
誰かが守ってあげなければすぐに死んでしまいそうな、か弱い娘。
「日比那さん! 私は確かに弱くて、自分一人では何もできない非力な人間かもしれません。それでも、誰かを守りたい、救いたい、そう思うんです! 私は、日比那さんをこの闇から救い出したい」
真っ直ぐに心に響くその言葉にむず痒いものを感じ、それを誤魔化すよう日比那は笑顔の仮面を張り付けた。
「へぇ、オレを救いたいって? 随分上から物を言うようになったじゃない。でもさ、オレは別にこのままでもいいんだよ?」
「そんな嘘、もう通用しませんよ。私は幽鬼姫として、あなたを救いに来た。過去の闇に囚われるあなたを、救いにきたんです。鬼狩師にとって幽鬼姫の命令は絶対でしょう? 嘘の笑顔で誤魔化さずに大人しく私に救われなさい!」
あの気弱な少女にしては珍しく、強い口調でこちらを睨んでいる。
というより、勢いに任せなければ、強気な発言などできなかったのだろう。その足は、意識の中だというのに震えていた。
「ふ、ふはははっ! 君って、こんな面白い子だったの?」
思わず、日比那は吹き出して笑ってしまった。
今、この闇に飲まれた自分の意識の中には、蓮はいない。
華鈴ひとりで、日比那に向き合っている。それも、強気な態度で。
かなり無理はあるが、意外と度胸があるものだ。
蓮の背に隠れて泣いていればこんな怖い思いなどしなくてもいいものを、少女はここまで来てしまった。
(俺は、救いなんて求めていないのにな……)
「笑わないでください。それに、私は日比那さんの助けを呼ぶ声を確かに聞いたんです。だから、私は助けを求めている人を見捨てたりはしません」
その言葉を聞いて、日比那の表情は笑顔から真顔へと変わった。
信じられない。
一体いつ、助けなど求めた?
誰の助けも必要ない。
どうせ闇ばかりの世界なのだ。
他人など、どうでもいい。
そんな自分が、他人に助けを求めることなどあり得ない。
日比那の頭の中は、一瞬にしてパニックに陥った。
「日比那さん、あなたは闇の中にいてはいけません。本当は、この世界への、幽鬼姫への希望を捨ててはいないはずです。いつも笑っていたのは、この世界は闇だけではなく光があることを信じていたからではないんですか?」
本当に、この少女は馬鹿だ。
日比那が希望のために笑っていたのだと、そんな綺麗事を平気な顔をして、それを当たり前のことのようにして言ってしまう。
しかし、日比那の中にも確かにあった。馬鹿みたいな綺麗事を信じている時が。
幽鬼姫は、笑顔で幽鬼を光へと導くという。
自分にも、そんな力があればいいのに。いや、そんな力がなくても、明るい笑顔は人を笑顔にすることができる。
日比那が笑えば、母も、父も、友人も、みんな幸せそうに笑ってくれた。
いつも笑っていれば、きっとみんな幸せになる。
みんなが幽鬼になってしまったあの時だって、きっと光を見せることができると本気で信じていた。
馬鹿みたいに泣きながら笑って、綺麗事を実現しようとしていたのだ。
本当に、目の前にいる幽鬼姫には助けを求める声が聞こえたのだろうか。
自分では気づかないうちに、心が悲鳴を上げていたのかもしれない。
無理して笑うことばかりで、ずっと独りだったから。
「確かに、オレは希望を捨てていないのかもしれない。でも、君みたいに真っ直ぐに信じることなんて、もうできない。オレは、あまりにも闇を呼び込みすぎたようだしね」
こうなってしまった原因が、あの腕輪であることは間違いないだろう。
しかし、腕輪は心に眠る闇を呼び起こし、増幅させただけ。
自分の心に長年巣食っていた闇が、すべての元凶だ。
あの腕輪だけのせいではない。
「この責任は、オレが取らなきゃいけない。ねぇ幽鬼姫ちゃん、救わなくていいから、俺を罰してよ」




