第三十五話 深紅山へ
「あの、蓮様……本当にこのまま行くのですか」
「あぁ。時間が惜しいからな」
「そ、そうですよね」
おそらく、事は一刻を争う。
華鈴とて時間は惜しい。
しかし、この状況で街中を行けば人の目を引くこと間違いなしだ。
まだ何も起きていないのに、何事かと人々の心を乱しかねない。
しかし、そんなことを考えている間に、蓮は風を切っていく。
必死で蓮にしがみつきながら、華鈴は内心悲鳴を上げていた。
(よりにもよって何故祝い馬なのでしょうかぁ……!)
蒼龍祭の象徴ともいえる紅と蒼のしめ縄を身に着けた、祝い馬。
今、華鈴と蓮は蘇陵に来た日に暴れていたあの祝い馬の上にいる。
それも、物凄い勢いで大通りを駆け抜けている。
人の足で行くよりも馬の足の方が速いことは間違いない。
それに、踊り子を運ぶ祝い馬は数ある馬の中でも優れた馬が選ばれると聞く。
しかし、だからといって馬屋番を軽く脅して半ば無理矢理祝い馬を借り、深紅山への最短コースだからと人の多い大通りを行くなんて。
華鈴は突然の馬に驚く人々に心の中で謝りながら、振り落とされないようにと蓮の身体にしがみつく。
大通りを抜け、人々が少なくなってくると、今まで蓮が抑えていたのが分かるほどに馬のスピードは上がっていく。
もう目も開けていられなくなり、華鈴は早く深紅山に着きますように、と祈りながらその時を待っていた。
「着いたぞ」
蓮のその声を聞き、ほっと目を開けると、華鈴は目の前の光景に言葉を失った。
こんなにも見事に赤く染まった山を華鈴は初めて見る。
遠くから深紅山を見るだけでは分からなかったが、この山は地面でさえも赤い。
赤土、牡丹や椿の紅い花、山に漂う霧でさえも赤く見える。
深紅山、という名の通り、この山は深い紅に満ちている。
「……ここが、蒼華大神様の降り立った場所」
ヒヒン、という祝い馬の鳴き声ではっと我に返った華鈴は、自分がまだ祝い馬の上で蓮の腕の中だということを思い出した。
ぼうっとしている場合ではない。
「さて、日比那を探すか」
軽々と祝い馬の背から降り、蓮は華鈴の身体をひょいっと持ち上げ、ゆっくりと地に下ろす。
少しじめっとした赤土の感触を足に感じると同時に、この場所の力を感じた。
すべてを破壊しかねない圧倒的な強い力と、すべてをあたたかく包み込むような優しい力――そんな相反するような二つの力がぶつかり合わずに深紅山を守っている。
そして、同時に深い哀しみと後悔の感情が華鈴の心に流れてくる。
「どうした、華鈴?」
蓮に問われ、初めて華鈴は自分が泣いていることに気が付く。
華鈴の中に流れ込んできた何者かの感情が、華鈴の心を動かしたのだ。
「な、なんでも……ないはずなのに、涙が、勝手に」
どうしたのか、自分でもよく分からない。しかし、この場所が華鈴にとって無関係ではないことは間違いない。
華鈴、というよりも幽鬼姫にとって、と言った方がいいかもしれない。
日比那がここに来たことと、日比那を探して華鈴がここに来たことは、ただの偶然ではない気がする。何か大きな力に導かれてきたような、必然を感じる。
「ここには神力が溢れている。鬼狩師の俺には何の影響もないが、幽鬼姫には何か感じるものがあるのかもしれないな」
祝い馬を近くの赤い木につなぎながら、蓮が言った。
神力を持つ鬼狩師に影響がないのに、どうして幽鬼姫にはこの場所の影響があるのだろうか。
華鈴の目からはまだ涙が流れている。
止めたいのに、止まらない。
自分の感情ではない何かに突き動かされて、勝手に涙が溢れてくる。
(これは、誰の悲しみなの?)
しかし、そんなことを華鈴が分かるはずがない。
幽鬼姫だけが感じられるものなのだろうか。
訳の分からない涙に戸惑う華鈴の涙を、蓮が着物の裾でそっと拭う。
涙でぼやける視界に映る蓮は、なんだか困ったような顔をしていた。
涙を拭う蓮の手つきがあまりに優しく、だんだんと華鈴は訳の分からない涙よりも蓮に心を動かされていた。
(私、今あんなに怖いと思っていた蓮様に甘えてる)
蓮に名を呼ばれると胸がどきどきするのも、蓮の側にいると安心できるのも、優しくてあたたかな気持ちになれるのも、同じ感情からきているものであることに、華鈴自身少しずつ気づきはじめていた。
「……あっ!」
思わず、華鈴は声をあげていた。
「どうした?」
「この涙の意味が少し分かった気がします」
一瞬だけだが、この涙を誘う者の感情と華鈴の感情が重なったのだ。
「でも、蓮様には内緒です」
「なに?」
「すみません。でも、言えません。あと、あの、私のために……ありがとうございました!」
あんなに急いでここに来たのに、華鈴のせいで時間を使ってしまった。
止まることを知らなかった涙はいつの間にか止まっている。
華鈴は不審そうな顔をする蓮に笑顔を向け、その手を取る。
「日比那さんを迎えに行きましょう」
華鈴が有無を言わさぬ満面の笑みでそう言うと、蓮はぎこちなく頷いた。