第二十六話 笑顔の仮面
暖かな日差し、賑やかな人の声に、華鈴は目覚めた。
少しさびれた天井、見覚えのない壁、いつもと違う布団の感触に、華鈴はここが蓮の屋敷ではないことを思い出す。
「え、と……蓮様?」
「随分ゆっくり寝ていたな」
華鈴の言葉に応えるのは、呆れたような蓮の声。
自分が座布団ではなく布団の上で目覚めており、蓮が昨日と変わらず壁にもたれて座っているのを見て華鈴はすべてを察した。
蓮は寝ずの番をしていたのだ、と。
考えてみれば、いつ何が起こるか分からない状況下でゆっくりできるはずがない。
「申し訳ありません! 私だけゆっくり寝てしまって……っ!」
布団からすぐさま出た華鈴は、蓮に土下座で謝った。
華鈴は何も考えずに熟睡してしまったのだ。
鬼狩師の仕事に役立つために蘇陵に来たのに、危機感がなさすぎる。
これでは幽鬼姫として蓮の役に立つどころか足手まといになる。
「あ、あの、今からでも蓮様も寝てください」
「気にするな。仮眠はとっている」
そう言われてしまえば、華鈴は何も言い返せなくなる。
「そんなことより、もうすぐ蒼龍祭が始まるぞ」
*
赤い灯篭が飾られた蘇陵の大通りは、人で溢れていた。
雪がよく降る渼陽地区だが、この日は雲一つない晴天だった。
これも天をつかさどる蒼華大神の加護のおかげだ、と集まった人々の顔も晴れ渡っている。
「あ、踊り子の方が見えましたよ!」
大通りの中心、ごった返す人の中、祝い馬に乗って手を振っているのは青の衣装に身を包んだ美しい女性たち。
刺繍が鮮やかな衣装の腰には、金色の鈴が提げられている。
しゃらん、しゃらん、と馬がゆっくり進む度に鳴る鈴の音は、蒼龍祭が始まったことを告げていた。
人の波に飲み込まれながらも、ようやくその姿を目にできた華鈴は、近くにいるであろう蓮に向かって興奮気味に声を上げた。
「やっぱり蒼龍祭の踊り子は毎年美人揃いだね~。蓮の好みはどの子?」
にやにや笑いながらそんなことを言うのは、“自称”蓮の親友、日比那だった。
はじめて蒼龍祭を見る華鈴のために、蓮は踊り子たちが通る大通りに連れて来てくれた。
踊り子たちはこの大通りを抜けて、龍の舞を踊る広場に向かうのだ。
しかし、二人で出かけたはずなのに、何故か日比那もついて来ていた。
「お前、まだ蘇陵にいたのか」
「酷いなぁ。一緒に祭りを楽しもうよ」
「断る。さっさと彩都に帰れ」
にこにこと笑顔を浮かべた日比那に、蓮がにこりともせず低い声で言った。
感情を抑えたその声に、華鈴はびくついたが、日比那の笑顔は全く崩れない。
顔は笑っていても、まるで仮面でも付けているかのようにその笑顔には感情がない。
(どうして日比那さんはいつも笑っているのかしら?)
日比那の浮かべる笑顔に感情はなくても、日比那の心には確かに感情はある。
昨日、日比那が一瞬だけ見せた、冷たい瞳と笑みを消した顔。
あれが日比那の本心だったのではないかと華鈴は思う。
しかし、どれだけ蓮に拒絶されようと動じず、何もなかったかのように笑えるその強さは羨ましい。華鈴には、怒っている蓮の前でこんな風に笑える自信がない。
「まぁまぁ、そう怒るなよ。幽鬼姫ちゃんと二人きりでのお祭りデート邪魔して悪かったって」
「……黙れ」
そう言うが早いか、蓮は日比那の腕を掴み、あっという間に地面に転がした。
日比那の身に着けている派手な赤が砂埃を纏う。
しかし、日比那はずっと笑っている。怖いぐらいに笑顔が消えない。
やはり、何かがおかしい。
華鈴は日比那の笑顔に覚えたその違和感の正体を探ろうと、彼を見つめる。
日比那は、もう立つのが面倒だと言うようにどっかりと地面に腰を落ち着けていた。
どこもかしこもお祭り騒ぎで、皆の視線は踊り子に夢中、そんな中地面に座っている日比那のことを気にする人などいなかった。
日比那を鬼のような顔で睨んでいる蓮のことも。
「痛いなぁ……蓮はオレに手加減する気はないの?」
「ない」
「即答かよ! まぁいいや。しかしこんな怖い奴と一緒にいて幽鬼姫ちゃんは楽しいのかなぁ?」
突然、日比那が華鈴をじっと見た。
日比那は、華鈴が名乗っても「幽鬼姫」と呼ぶ。
日比那の目に映るのは、幽鬼姫としての華鈴だけなのだ。
それがとても寂しく、同時に悔しくもあった。
しかし、今はそんなことよりも突然話題を振られたことに驚いて、華鈴の思考は停止する。何と答えればいいのか、口元をにやつかせている日比那と仏頂面の蓮に見つめられ、華鈴はますますパニックに陥る。
蓮との日々は、本当に楽しい。
迷惑ばかりかけている華鈴が言うのもなんだが、蓮は意外と不器用だ。
何でも器用にこなしそうなのに、掃除が苦手だったり、着る物に無頓着でボロボロの着物をそのまま着ていたり、怒っていないのに怒っているように見られてしまう仏頂面を実は気にしていたりする。
そんな蓮を知る度に、今まで知らなかった感情が華鈴の中に生まれてくる。
暖かくて、優しくて、時々苦しくなる、不思議な気持ち。
一体、この気持ちは何だろう。
思わず、華鈴は蓮の顔を見る。
太陽に照らされた赤銀色の髪が風になびいている。
美しくも冷たい横顔、宝玉のように澄んだ碧の瞳。
図らずも蓮と目が合ってしまい、華鈴は咄嗟に顔を背ける。
すると、日比名がにっこりと笑って言った。
「やっぱり蓮のこと怖いんだ~」
「いえ……そんなことはありません!」
「いつも眉間に皺寄せて怒ってるような奴なのに?」
「蓮様の怒った顔にはもう慣れました。これが通常運転なんです。だから日比那さん、蓮様の眉間の皺をとれと言っても無理な話です……」
華鈴は至極真面目に答えたのに、日比那はおもいきり腹を抱えて笑った。
馬鹿にされているのかとも思ったが、あの嫌な笑い方ではなかった。
明るく、楽しい本当の笑顔、そんな気がした。
日比那に対して苦手意識ばかり強くなっていたが、本当は悪い人ではないのかもしれない。
そうでなければ、蓮が友人として認めるはずがない。
「華鈴、お前そんな風に思っていたのか……!」
日比那のせいでただでさえ不機嫌だった蓮が、増々その顔を鬼に近づけていく。
纏うオーラは本物の鬼のようだ。華鈴はその圧力に逆らえない。
「ほら~、その顔が怖いんだって」
睨みを利かせる蓮の前で、自然な笑顔を浮かべている日比那を見て、華鈴も少しだけ心に余裕ができた。
しかし、その発言がさらに蓮の怒りを増長しそうだったので、華鈴は慌てて弁解する。
「いえ、あの、違うんです! 怒った蓮様のお顔も魅力的だと、私は思っていますから……」
周りはざわついているのに、一瞬しんと空気が静まり返ったような気がした。
何かおかしなことを言ってしまっただろうか。
あの鉄壁の笑顔の日比名さえ、なんだか呆気にとられている気がする。
「ぶはっ……! 幽鬼姫ちゃんって苛められるのが好きなんだ」
「へっ? いや、そういう訳では……!」
蓮の怒った顔が魅力的、つまりは怒った顔が好き。
華鈴は蓮に怒られることが好きなのだと誤解されてしまったようだ。
怒られるのが好きな訳ではないが、怒っている蓮も美しいと感じてしまう。
やはり自分は怒られるのが好きなのだろうか。
「もういいだろう。華鈴をからかうのはやめろ」
自分のことなのによく分からないのがもどかしくて、華鈴がうぅんと唸って考えていると、蓮が日比那と華鈴の間に割り込んできた。
「何? 幽鬼姫ちゃんを苛めていいのは俺だけって言いたいの?」
「違う」
「幽鬼姫を守るのは鬼狩師であって、別に蓮じゃなくてもいいんだよ。それなのに、自分の所有物みたいに振る舞うのはやめてほしいなぁ」
さきほどまでの笑顔ではなく、嫌な作り物の笑顔で日比那は蓮に喧嘩を売った。
華鈴は鬼狩師だから蓮と一緒にいるのではない。
一緒にいたいと思った蓮が鬼狩師だっただけだ。
華鈴は蓮の側にいたい。
そう言い返そうとして、やめる。
華鈴の方はそうだったとしても、蓮にとっての華鈴はただの「幽鬼姫」でしかないかもしれない。
今の華鈴には幽鬼姫としての価値以外まだない。それを蓮の口から知るのが怖かった。
(でも、仕方ないわ。私は幽鬼姫としても未熟な上に蓮様の助けがなければ生きていけないもの……)
これから、幽鬼姫としても華鈴としても強くなる。
そのために、どんなに辛くても蓮の言葉を受け止めなければいけない。
華鈴は、覚悟を決めて蓮の答えを待つ。




