第二十四話 感じた恐怖
「……それで、お前がどうしてここにいる? 彩都はどうした?」
装飾品ジャラジャラで、派手な赤い長衣を纏った色男について宿の二階の部屋へ入ると、蓮は冷ややかに声を発した。これ以上、宿の亭主や客の前で騒ぎを起こすのはよくないという判断から一応ついては来たものの、物凄く不本意だ……と顔に書いてある。
華鈴も蓮と一緒に彼の部屋にいるのだが、なんだか落ち着かない。
宿の部屋は寝室と居間が二間続きになっていた。部屋の四隅には小さな灯篭が置かれ、その柔らかく暖かな光に癒される。壁には橙色の美しい花が描かれていて、少し殺風景な部屋に華やかさを与えていた。
あまり広いとは言えない部屋に三人もの人間が入ると、少々手狭に感じられた。六畳ほどの居間を見回すと、何枚かの座布団が部屋の隅に重ねて置いてある。
二人は座布団を敷かずに向かい合って座っていたので、華鈴もそうしようとしたが蓮がすぐに座布団を用意してくれた。
冷たいようでいて、実はとても気遣い屋さんな蓮に、華鈴の心はぽっとあたたかくなる。
しかし、この状況が状況なので簡単にお礼を言ってから華鈴は蓮の隣に座った。
部屋の中に荷物はほとんど置かれておらず、乱れたところは一つもない。部屋の隅に無造作に置かれた小さな風呂敷包だけが、宿泊客がいることを物語っていた。
蓮の自称親友である男も、着いたばかりなのかもしれない。
入口の反対側に設けられた窓からは、蘇陵の華やかな街並みが見下ろせる。徐々に日も暮れはじめ、外には夕闇の空が広がっていた。街の路地を彩る赤い灯篭は幻想的で、昼間とは違った美しさがあった。
しかし、そんな景色を楽しむ余裕は今の華鈴にはない。
二対一で向かい合っている状況で、楽しそうなのは目の前の色男だけだ。
ピリピリした蓮とは対象的に、明るい笑みを浮かべている。華鈴は、横に座る蓮の怒りがいつ爆発するかと気が気ではない。
「やだなぁ、オレも蓮の補助にきてあげたのに~!」
大人の男が、口を尖らせ、ぶーっとむくれている。整った容姿なのに、その言動で台無しになっているような気がする。それに、何というかノリがとても軽い。初対面だが、この人が真面目な話をすることができるのだろうかと華鈴は不安になる。
「はぁ? そんなこと聞いてねぇぞ」
「当たり前だよ。言ってないからね!」
悪びれず、男は蓮に笑顔を向ける。
「……は、お前勝手に来たのか?」
「だってさ、彩都ってホント清らかーな空気が流れてるから幽鬼なんていないんだよ? どうせ蒼龍祭だとしても危険なんてないだろうし、オレ一人いなくなったぐらいで乱れるようなやわな結界じゃないし。蓮にも久々に会ってみたいなーなんて思ったし……それに」
明るい調子でペラペラと話していた色男は、途中で言葉を止めて華鈴をその茶色の瞳でじっと見た。
(…………怖い)
口元は笑っていても、その眼は笑っていなかった。
冷たい眼差しに、華鈴の身体は震えていた。
何か、恐ろしい力に飲み込まれるような、恐怖。
一体どうしたというのだろう。
勝手に身体が反応し、華鈴の意思とは関係なく身体はずっと震えている。
正体の分からない恐怖に、華鈴の目に涙が浮かぶ。
「おい、大丈夫か?」
心配してくれる蓮の声を聞いて、華鈴の身体の震えはようやく止まった。
目の前の男は、少しつまらなそうな顔をした後、偽物の笑顔を華鈴に向けた。
「それにね、蓮が幽鬼姫と一緒にいるって聞いて会いたくなったんだ。伝説上の人物に人生で二人も会えるなんて、オレは運がいいな。あ、オレの名前は日比那。どうぞよろしく、幽鬼姫ちゃん?」
差し出された、鍛え上げられた手を華鈴はおそるおそる握る。
固くて、冷たい手だ。
伝説上の人物に二人、ということはもしかしたら蓮の母凛鳴とも面識があるのかもしれない。
蓮の親友だと名乗るぐらいだから。
「……華鈴と、申します。よ、よろしくお願いします……」
うまく声を出せただろうか。
怖くて、喉が締め付けられる。
何が怖いのかまだよく分からないが、とにかく怖い。
蓮の親友で、鬼狩師の人なのに。
しかし、日比那が華鈴をよく思っていないことは分かる。
彼と会ったのは今日が初めてなのに、何故嫌われているのだろう。
華鈴は、今までも理由なく村人たちに酷い仕打ちを受けてきた。
だから、こういう敵意は極力気にしないようにしてきたが、日比那の持つ感情は敵意などという生易しいものではない。
逃げ出したい、今すぐにこの人から離れたい、そう思ったが、日比那と握手をしている状況で逃げることなどできるはずがない。
ほんの数秒でしかない握手が、恐ろしい永遠に感じられた。
日比那の手が離れる瞬間、じゃらりと音がして彼の腕輪の一つが赤く光るのを見た。
それがとても厭な感じがして、華鈴は思わず日比那の身体を突き飛ばしていた。
「ふふ、酷いなぁ。オレのこと嫌いなのかな」
華鈴が突き飛ばしたぐらいで体勢を崩すような鍛え方はしていないようで、怖いくらいに完璧な笑顔を浮かべる日比那に乱れたところは全くなかった。
「どうした、華鈴?」
蓮の声が優しい響きを持って耳に届く。
蓮にしてみれば、ただ握手をしていただけなのに、突然華鈴が日比那を突き飛ばしたようにしか見えなかっただろう。
それなのに、蓮は華鈴を責めることなく、気遣うような眼差しを向けてくれている。
(大丈夫、大丈夫……)
そう自分に言い聞かせ、華鈴は自分自身の身体を抱き締める。蓮に心配をかけてはいけない、そう思うのに声が出なかった。
日比那からは、何か危険な力を感じる。
近づいてはならない、と意識のどこかで警告している。
本当に、こんな危険な人と蓮が友人なのだろうか。
一体、この男は何者なのだろう。
華鈴が頭の中で答えの出ない問いを繰り返していると、ふいに身体の震えが止まった。
恐怖や脅え、不安が薄れていく。
自分のものではない体温を感じて、華鈴ははっとする。
震える華鈴の身体を、蓮の腕が優しく包み込んでいた。
まるで赤子をあやすように、優しく背を撫でてくれる。
そのことを認識した途端、今まで考えていたすべてのことが吹き飛んでいた。
(え、蓮様……!?)
先程とは違う意味で心臓が暴れ、顔がかあっと熱くなる。
蓮の引き締まった身体つき、あたたかな体温が着物ごしに伝わってきて、華鈴はもうどうしていいか分からなくなる。
「うわ、女嫌いだった蓮がそんなことするなんて!」
日比那はそう言うと、ぶはっと笑い出した。
蓮が女嫌いだったなんて初耳だ。
初めて会った時から怖い印象を持っていたが、蓮が華鈴のことを本気で嫌がったことなど一度もない。と言っても、蓮は誰に対してもきつい物言いをするので、どういう風に女嫌いだったのか、女の華鈴は気になるところである。
「黙れ。次、華鈴をビビらせたらお前であっても容赦はしない」
その声のあまりの鋭さに、蓮の腕に守られているはずの華鈴でさえ、脅えずにはいられなかった。
しかし、華鈴の行動を否定せず、守ってくれる蓮の言葉は素直に嬉しかった。
本気で向けられた蓮の怒りにも、日比那は涼しい笑顔を浮かべている。
蓮の怒りを前に笑っていられる人間がいたことを、この時華鈴ははじめて知った。
「幽鬼姫ちゃんのこと、そんなに大事なんだ。まあ、蓮はずっと幽鬼姫を探していた訳だしね。どう? 罪滅ぼしはうまくいってる?」
残酷な言葉を、日比那は挨拶のように軽いノリで笑いながら言った。
やはり、日比那は蓮の母のことを知っているのだ、と華鈴は確信する。
当然言い返すだろうと思っていた蓮は、何も言わずにその言葉を受け止めていた。
どうして、こんな酷いことを言われて黙っているのだろう。
断じて、蓮は罪滅ぼしのために鬼狩師になったのではない。
自分が何を言われても気にならないが、蓮を傷つけるようなことを言うのは許せない。
華鈴は優しくて暖かい蓮の腕から抜け出し、日比那をきっと睨みつける。
「罪滅ぼしなんて言い方やめてください! 蓮様は、そんなつもりで鬼狩師をしている訳では……!」
「華鈴、もういい。やめろ。俺は気にしていない」
華鈴の言葉を遮るように、蓮はひどく落ち着いた声で言った。
(傷ついているのは蓮様の方なのに、どうして止めるの?)
華鈴は、蓮が言われっぱなしになっているのが納得できない。
それでも、蓮が何も言わないから、華鈴もそれ以上何も言えなかった。
「二人して、何怖い顔してるのさ~。せっかくの蒼龍祭だっていうのに。あ、何か一騒動あればもっと楽しいと思わない?」
「……日比那、いい加減にしろ」
「蓮、そんな眉間にしわ寄せてちゃせっかくの綺麗な顔が台無しだよ~?」
「彩都にいれば安心だと思っていたが、さらに性格が歪んだらしいな。他に言うことがないなら、失礼する」
そう言って、蓮は華鈴の手を引いて部屋を出る。
その時、一瞬だけ日比那を振り返った華鈴は、本当の日比那の顔を見た気がした。
人を軽く見ているような、薄っぺらい笑顔ではなく、心の傷を剥き出しにした、恐ろしく冷たい表情。
人を貶め、傷つける言葉を笑顔で放ちながら、彼は自分自身を傷つけているのではないだろうか。
何かを訴えるような眼差しに、華鈴の胸は苦しくなる。どうして気づくことができなかったのか、と。
しかし、まだ華鈴には日比那のことがよく分からない。
華鈴や蓮に向けた言葉が本心ではないのだとしたら、その理由は?
親友だと自称する蓮に対しても打ち明けられないこととは?
華鈴に素顔を見せ、本心を垣間見せたのは何故?
(日比那さん、あなたは一体……?)
蓮に手を引かれながら、華鈴はずっと日比那のことを考えていた。




