第二十一話 食えない神
「あいつ、とはやはり……?」
「あぁ、蒼華大神だ」
せっかく落ち着いた心臓が、今度は緊張でどくどくとうるさく喚く。
身体は温まり、小鬼たちと話したことで緊張がほぐれていたというのに。
(私みたいなのが幽鬼姫だなんて、がっかりされないかしら……)
不安と緊張で泣きそうだ。
華鈴が幽鬼姫であることは紛れもない事実なのだが、蒼華大神は歴代の幽鬼姫を知っている。
幽鬼姫がこんな弱気な小娘だと知ればどう思うだろうか。
「あの、蒼華大神様はどのようなお方なのですか?」
華鈴が恐る恐る尋ねると、蓮は動きを止め、苦い顔をして答えた。
「……この国を守護する神だ、とは認めたくないような奴だ」
「え、それはどういう……?」
――――――ぼふっ!
華鈴がそう言った直後、部屋の中は強い花の香りと真っ白な霧に包まれた。
「……れ~ん~! 今日はわしに敬意を表してアレをちゃーんと着てくれたかなー?」
かなり陽気な声が、その場に響いた。パニックに陥る華鈴とは対象的に白い霧の中でも動じない蓮が冷静に紹介した。
「華鈴、こちらが蒼華大神……様、だ」
『様』を無理矢理つけたような蓮の紹介に対して、華鈴はただただ唖然とその人物? を見つめることしかできなかった。
白い霧が徐々に薄れ、蓮が指し示す先に、その方はいた。
柔らかそうな白い頬、細い垂れ目、口の周りに長く白い髭を生やした丸顔のお爺さんが、ふくよかな身体に纏うのは、黒地に金の龍が描かれている、蓮と同じ着物。
にこにこと害のない笑みを浮かべるその方に、全く威厳や貫禄を見出せないことに華鈴は戸惑う。
(……あぁ、駄目。可愛いお爺ちゃんにしか見えない。でも、この方がこの国をお護りしてくださってるんだから、お爺ちゃんだなんて失礼よね……)
蒼華大神はというと、蓮が着物を着ていることに大層喜んでいる。
しかし、蓮の表情はそんな蒼華大神とは対称的だった。
「……蒼華大神、何でお前も同じものを着ているんだ!」
もう、『様』を付けるつもりも敬う気配さえもなくなった蓮は鋭い碧の瞳で上司たる蒼華大神を睨みつける。
「えぇー、だってわし自分の鬼狩師と仲睦まじいところを見せつけたかったんじゃもん」
「誰にだ! 揃いだと分かっていたら、是が非でも着なかったものを……!」
「そんな事したらわし、ここ一体に雷落とすって言うたじゃろ?」
「こんの、クソジジイが……!」
上司の神様、それも最高位の神様相手だというのに、蓮は容赦ない言葉をぶつける。
こんな不機嫌さ丸出しの態度で大丈夫なのだろうか、と不安になるが、蓮が大人しく誰かに従っているところも想像できない。
蒼華大神は蓮が不敬極まりない態度をとっていても気に留める様子はなく、蓮の反応を見て楽しんでいるようだった。
しかし、蒼華大神は本当にこの国の守護神か、と疑いたくなるほどほんわかした雰囲気を持っていた。
こんな柔らかに笑う方が、自然を操る力強く美しい龍に変化してしまうというのだから驚きだ。
雷を落とすとかいう物騒なことも平気で言ってのけるあたりは、やはり天空神とも呼ばれる神様なのだなと華鈴は思う。
蓮と蒼華大神のやり取りを華鈴が呆然と見つめていると、「お主も近う寄れ」とにこにこと笑顔で呼ばれ、何故か蒼華大神の腕の中におさまった。
正確には蒼華大神の胡座の上だ。山神様の時といい、神様は人を膝に乗せたりするのが好きなのだろうか。
目の前に座る蓮の視線がかなり痛い。
やはり、神様のお膝元に軽々しく踏み入るのは良くなかったのかもしれない。
その神様に半ば無理矢理座らされたのだとしても。
「そなたが幽鬼姫かぁ。会いたかったぞよ」
「は、はい! か、華鈴と申します」
緊張しすぎて名乗るだけでもたどたどしくなってしまった。
最初の挨拶がこれで大丈夫だろうか、と不安に思いながら蒼華大神をそっと見上げる。
「ほんに可愛らしいのぅ。そして、良い気を持っておる。気の澄んだ天界でも神使に働けと言われ息が詰まるというに、そなたの側におると心が晴れるわい」
ふぉっふぉっふぉっと笑う蒼華大神に緊張も解け、華鈴は花が咲くように笑った。
華鈴に対してがっかりした様子も失望した様子もなく、本当に心から可愛がってくれているのが分かって、安心したのだ。
「それで、どうしてまた急に降りてきたんだ?」
「おぉ、そうじゃった! 山神の神堕については大変じゃったのぅ」
華鈴の頭を優しくその手で撫でながら、蒼華大神は言った。
山神様は元気でやっているのだろうか。
そのことが気がかりで、華鈴は蒼華大神の言葉の合間を見つけて尋ねる。
「あのっ、蒼華大神様! 山神様は、天界でどうしていますか?」
「おぉ、あやつは今天界で力を蓄えておる。心配はいらぬ。幽鬼姫は優しいのぅ」
蒼華大神の言葉に、華鈴はほっと息をつく。山神様は天界で元気に過ごしている、そのことを知れただけでもよかった。
「山神のことはもう済んだこと、わしから言うことは何もない。しかしの、ちと面倒なことがあるのじゃ」
「面倒なこと?」
蒼華大神の、むぅぅと悩む素振りを見て蓮が聞き返す。
「凛鳴が幽鬼となったのは、ただ人間に殺された恨みからではない。何者かの妙な力が関係しているようじゃ」
蓮の母、凛鳴が幽鬼と化した理由。それは幽鬼姫の力を誤解した人々に息子の蓮と引き離され、殺されてしまったから……だったはずだ。
しかし、凛鳴の魂が幽鬼となったことに、何者かの妙な力が関わっている?
(凛鳴様は、何者かによって幽鬼へと変えられたということ……?)
華鈴が思い至るのだ。蓮はすでに感づいていたのだろう。真剣な表情を蒼華大神に向けている。
「山神の時も、か?」
感情を押し殺した、冷静な声で蓮が言った。蒼華大神はふむ、と頷く。
「幽鬼姫を殺し、その魂までも利用した人間がいる……?」
また、蒼華大神は頷く。
「やはり裏で何者かが動いていたか。くそ、もっと早くに気付いていれば……!」
憤りと自責に揺れる碧の瞳を見て、華鈴は思わず蒼華大神の膝から蓮の側へ動いていた。そして、華鈴はその握り込まれた拳にそっと触れる。蓮は驚いたように目を見開き、ふっと笑った。
「華鈴に心配されるとはな」
母を狩った時の悲しい記憶が、まだ蓮の中にはある。凛鳴の魂は光の世界へ旅立ったとしても、蓮はまだこの世界で生きているのだ。幽鬼となった母を狩った過去は、そう簡単には忘れられないし、忘れられる訳がない。
忘れてはいけないのだ。弱ければ何も守れない。
その思いは蓮の中に深く刻み込まれている。
蓮は、重い過去も、苦しみも、後悔も、すべてを受け止めて今まで生きてきた。
だから、蓮は強い。
辛いこと、悲しいこと、自分の存在、それらすべてから逃げようとしていた華鈴にはない、心の強さ。
しかし、完璧な人間がいるはずがない。
蓮にだって弱い部分はあるだろうし、助けが必要はずだ。
華鈴に弱音を吐いてくれたことなんてないが、華鈴は蓮の支えになりたい。
華鈴に生きる意味と、生きる居場所をくれたから。
(そのためには、頼りがいのあるところを見せないと!)
蓮は一人ではない。自分がいるのだ、と華鈴は蓮の腕を掴み、目で訴える。蓮を支えたい、守りたいなど華鈴が口にすれば絶対に調子に乗るなと怒られてしまうだろうから。
「そんな目で見るな。俺は大丈夫だ」
「いいえ、心配です」
「…………」
譲らない華鈴に、蓮が呆れたような顔をする。
そうして見つめ合っていた華鈴と蓮を見て、蒼華大神はふぉっふぉ、と笑った。
「仲がいいようで羨ましいのぅ。蓮はいつも強がって一人で仕事をするんじゃが、今回は幽鬼姫が助けてやってくれるか」
「はいっ!」
蓮に華鈴の思いは伝わらなかったようだが、蒼華大神には伝わっていたらしい。
どんな仕事かは分からないが、蓮のためなら何だってする。
感謝してもしきれないぐらい、蓮には助けられているのだ。
華鈴は未熟な幽鬼姫かもしれないが、その力は鬼狩師の仕事の助けになるはずだ。
しかし、張り切って答えた華鈴の言葉に、蓮がすぐさま反対の意を示す。
「駄目だ。蒼華大神が直接来たぐらいだ、ろくな仕事じゃねぇ」
「こら、蓮。そんな目で見たら可哀想じゃろう。それに、そんなに大変な仕事でもないわい。もうすぐあれの季節じゃろ? 何かと騒ぎが起きるやもしれんから、観光ついでに見回りを頼む。他の鬼狩師はもう担当地区で動いておる。蓮は……そうじゃなぁ、蘇陵とかどうじゃ?」
「どうせもう決まっているんだろう」
目を細めて和やかに笑う蒼華大神に、本気で怒りをぶつけるのがバカバカしいと思ったのか、蓮は長いため息を吐く。
「害のない顔しやがって、その裏に何を隠してんだか……」
「失礼な、この国で一番純粋じゃよ、わし!」
「はぁ? この国一の腹黒じじぃだろうが! 用が済んだならさっさと帰れ!」
本当に、この国の守護神に対する態度としてどうなのか、と思うぐらいに蓮は遠慮というものを知らない。
いつ蒼華大神が怒り出すのかと華鈴はびくびくしながらそのやり取りを見守る。
「えぇー、蓮が冷たいー! わしショックじゃよー? 大雨降らせるかもしれんぞよ?」
どうするー? と蓮を挑発するようににやにや笑いながら蒼華大神は言った。
かなり楽しそうである。
そんな蒼華大神に、蓮は我慢出来ずに叫んだ。
「ったく、うっとおしい! 雨でも何でも降らしやがれっ!」
――――ザー、ザー……。
昼間晴れていたのが嘘のように空は曇天に覆われて、強い雨が降り注ぐ。山の天気は変わりやすい、とは言うが、これは明らかに神為的である。
蓮の叫び声の直後、白い霧とともに蒼華大神は消え、その代わりにこの辺り一体を豪雨が襲った。時々、笑い声のような雷まで落ちてくる。きっと、蒼華大神だろう。
「すごい雨ですね」
激しい雨音の中、華鈴はぽつりと呟いた。
「そうだな。これから街に下りる俺への嫌がらせだろうな」
独り言に近かった華鈴の小さな呟きに、蓮が返事を返してくれた。それだけでなんだか嬉しくて、華鈴は蓮が不機嫌な顔をしているというのに顔が緩んでしまう。
「何を笑ってる? 雨が好きなのか」
「え、いや、そういう訳じゃ……でも、そうですね。雨は好きです」
日照り続きで村の作物が育たない時、雨は天からの恵みだった。
それに、雨が降ると村人たちは外に出ない。
誰の顔色も気にせずに外を歩けるのは、雨の日だけだった。
華鈴の傷ついた身体を、冷たいのに何故か暖かい雨が癒してくれた。
普通は雨を避けるべきなのに、華鈴は暗い雨雲を見るといつも心が温かくなった。
雨の後に見る太陽は、より一層輝いてみえたから。
暗く悲しい日々にも、きっと光が差すのだと、雨が教えてくれているような気がしたから。
結局、村での生活は苦しいままで、光が差すことはなかったけれど、華鈴には蓮がいてくれる。
それだけで、もう充分だ。
「ま、俺も雨は嫌いじゃない」
すでに蒼華大神とお揃いの着物を脱ぎ棄て、紺色の着物を着た蓮は、戸を開けて雨を見て言った。
そして華鈴の隣に腰を落ち着けた蓮を見るに、もう旅支度は終わったらしい。
「家を空ける期間は長くない。だが、何があるかも分からない。それでも本当に来るのか?」
「はい。私も力になりたいんです。それに、幽鬼姫が内にこもっていては、幽鬼も人も救うことができません」
自分は絶対について行く。
蓮が反対しているのは分かっているが、このまま大人しく蓮の屋敷にいては幽鬼姫として無力なままだ。
蓮もそのことは気付いているはずだ。
ただ、華鈴が頼りないから、危険だと分かっている場所に連れて行くのが躊躇われるのだろう。
「そうだな。俺も少し過保護過ぎたのかもしれない。だが、あまり目立つことはするな」
まだ守られる側ではあるが、蓮が同行を認めてくれたことが嬉しかった。
絶対に迷惑をかけないようにして、蓮の役に立つのだ。
華鈴は心に決めて、蓮と共に雨が弱まるのを待った。