第二十話 存在を示す名
「普通、真冬に池には入らないだろう」
冷えていた華鈴の身体を温めるために、囲炉裏に火をくべている蓮はそう言って苦笑を漏らした。
濡れた着物を脱ぎ、新しく薄紅色の着物に着替えた華鈴は、曖昧に頷いた。
自分も、池に入りたくて入った訳ではない。
ただ、驚いて無意識に池を渡ってしまっただけだ。
しかし、確実に華鈴が悪いので、蓮に火の世話までしてもらうのは申し訳ない。
「あの、もう大丈夫です。私が自分で……」
「冬に池に入って風邪引きかけてる上に火傷までされたら敵わない。まぁ、華鈴が急なことで驚くのも無理はないがな……。正直、俺もかなり驚いている」
じっと揺らめく赤い火を見つめる蓮の瞳には、確かに戸惑いがあった。
山神様と先代の幽鬼姫である凛鳴が関わっていた先日の一件について、蓮は鬼狩師を総括している皇帝に報告書を出していた。
幽鬼姫であった凛鳴の魂が暴走したことと、山神様の神堕ちは偶然ではないだろう、と蓮は言っていた。
何か嫌な予感がする、と蓮はわざわざ報告したのだが。
それについては一切の返答がなく、代わりに皇帝以上の存在である蒼華大神直々に話があるという。
(……な、慣れない)
しかし今、蓮が考えている問題とは別の問題で華鈴の頭はぼうっとしていた。
あの一件があってから、蓮は華鈴のことを「お前」ではなく「華鈴」と名で呼ぶようになっていた。
怒鳴られたり、睨まれたり、呆れられたりすることには慣れているのに、蓮に名を呼ばれるのには全く慣れない。
自分の名前なのに自分の名前ではないような、不思議な熱を持って響くのだ。
蓮が、ちゃんと華鈴という存在を見て、存在を認め、受け入れてくれている人だからだろうか。
蓮に名を呼ばれると、胸があたたかくなって、嬉しいのに何故だか泣きたいような気持ちになる。
蓮は真剣に蒼華大神の話の内容を考えているだろうに、華鈴の頭の中では蓮が華鈴の名を呼ぶ声が繰り返されていた。
(言霊を使う時に名を呼ぶ意味が、今なら分かる気がする……)
華鈴は暖かな火に当たりながら、ぼんやりとそんなことを考える。
“名”は、その存在を表すもの。
“名”は、その存在を認めるもの。
“名”は、その存在に力を与えるもの。
だから、言霊を行使する時、対象の名を知っているということは有利に働く。
そのことを蓮に教わり、実際に行使したのはつい先日のこと。
幽鬼姫であった凛鳴相手に、言霊で従えることはできなかったが、華鈴の思いを伝えることはできた。
言霊は、名の力を利用し、支配する力。
幽鬼には、〈幽鬼〉という総称はあっても、その個体には名がない。言霊を行使することができる人間は、幽鬼姫の他にもいるらしいが、名のない幽鬼に対して言霊を行使できるのは幽鬼姫だけだという。
幽鬼と言葉を交わすことができるのも、幽鬼姫だけ。
幽鬼は人の怨念から生まれた、人をひたすら恨むことしかできない、悲しい存在だ。
人は幽鬼を恐れ、その災厄から逃れるために神に生贄を差し出す。
しかし、生贄となった者の魂がまた幽鬼へと変わっていく。
名のない存在でありながら、負の感情だけで存在し続ける恐ろしい存在。
人の心に闇がある限り、幽鬼の力が弱ることはない。
どこにだって、彼らの力を増幅させる闇があるから。
華鈴は、その闇を知っている。
実際に目で見、耳で聞き、身体で覚えた痛みがある。
肌にはまだ、村人に受けた虐待の傷がある。もう傷は塞がっているのに、その傷が時々疼くのは、まだ華鈴が胡群での生活を忘れられないからだろう。
簡単に忘れられる訳がない。
十六年という年月を華鈴は胡群という冷たい村で過ごしていたから。
だから華鈴には、自分を受け入れてくれる場所があるということが、未だに信じられない時がある。
でも蓮が名を呼んでくれるから、自分はここにいてもいいのだと感じられる。
『幽鬼姫しゃまぁ~?』
という声で、華鈴は深く沈んでいた思考の海から現実へと浮上する。
華鈴を呼んだのは、蓮の屋敷に住まう一匹の小鬼だった。
人から隠れて暮らしていた小鬼たちには、親も居場所も名もなかった。
そんな彼らを幽鬼から助け、居場所を与えたのが蓮だ。
蓮は鬼狩師だからといって、無暗に刃を向けるような人ではない。
しかし、小鬼といっても鬼は鬼。
幽鬼のように怨念から生まれた存在ではないにしろ、警戒心だけは忘れてはならない、と蓮は彼らに名を与えていなかった。
しかし本当は、名を与えると彼らを蓮の存在に縛りつけてしまうことになるからだ、ということを華鈴は知っていた。
言霊の話を聞いた時に、蓮が教えてくれたのだ。
名もない存在に名を与えるということは、その存在に力を与えることと同じ。
名づけ親とその名を受けた者は、目に見えない力で縛られることになる、と。
いつか他に居場所ができた時のため、小鬼たちには自由でいて欲しい。
口にはしなかったが、華鈴はそんな蓮の気持ちを感じた。
蓮の気持ちも分かるが、小鬼たちは本当に蓮を慕っているし、蓮の側にずっと居たいと思っている。
だから、華鈴は小鬼たちに名を与えた。
蓮が小鬼たちのために考えていた名前を。
「どうしたの、シギ」
小鬼特徴の赤っぽい肌、くりくりとした大きな目、小さな角と人懐こい笑顔を浮かべている小鬼、シギ。
小鬼たちは、名を得たことで存在の力を強め、言葉を交わすことができるようになった。
いつの間にか華鈴の側にやって来ていたシギは、華鈴を見つめてにこにこと無邪気に笑っている。
しかし、蓮の視線を感じた瞬間にその笑顔は凍りついた。
「また華鈴に名を呼ばせる気か」
蓮の言葉が図星だったのか、シギは分かりやすいぐらいにその大きな赤い瞳を泳がせた。
甘えん坊のシギはよほど名をもらったことが嬉しかったのか、度々華鈴に名を呼んでほしいとせがみに来ていたのだ。
『こら、シギ。幽鬼姫様が困るだろう。それに、まだ昼食の用意ができていない』
シギの首をがしっと掴んで華鈴の側から引き離したのは、小鬼のキヤ。
華鈴の膝丈ほどのシギに対しキヤは華鈴の腰あたりまでの身長で、かなり身体がしっかりしている。
しっかりしているのは身体だけでなく性格もで、キヤがいるからこの屋敷での生活が成り立っていると言っても過言ではない。
炊事、洗濯、掃除、雑用などすべてをキヤが仕切っているのだ。
『そうだよぉ。シギがさぼるとボクが怒られるんだよぉ』
のんびりとした口調で会話に入り込んできたのは、小鬼のルイ。
額に小さくて丸っこい角を持ち、身体も丸い。ぽっちゃりしていて、身体の肉がぷにぷにと気持ち良さそうなルイは、昼食の材料であろう山菜をむしゃむしゃと食べていた。
『どうして? 幽鬼姫しゃまは優しいから、許してくれるもん』
自分を仕事に連れ戻そうとしているキヤとルイに向かって、シギが頬を膨らませながら言う。
すると、二匹の小鬼だけでなく、蓮までもが駄目だ! と一喝した。
「あの、私のことは気にしなくても……」
「はぁ? 一日に何十回も用がないのに名を呼ばされているんだぞ。少しは気にしろ」
そうは言われても、名を呼ばれることの喜びや嬉しさは華鈴もよく分かるので、呼んでほしいなら呼んであげたいと思うのだ。
たとえ何度でも。
それに、その名は蓮が密かに考えていた、小鬼たちのための名前なのだから。
シギも本当は蓮に名を呼ばれたいのだろうが、蓮は滅多なことでは小鬼たちを呼ばないため、その分華鈴に来ているだけなのだ。
「キヤ、シギをよろしく頼む。ルイ、つまみ食いはほどほどにしろよ。もうじき、あいつが来る。お前達は部屋で休んでいろ」
蓮に名を呼ばれたことで、小鬼たちの表情は引き締まっていた。先程まで駄々をこねていたシギまでもが、背筋をぴっと伸ばして頷いた。
そして、少し名残惜しそうに華鈴を見てから、シギはキヤとルイと共に部屋を出て行った。




