第十九話 神が守る国
「はぁぁ……」
庭の片隅で一人、華鈴は大きな溜息を吐く。
長い黒髪を後ろで一つに結い、小さな簪を控えめに挿した華鈴は、どこにでもいる普通の娘に見える。
華奢でひ弱そうな華鈴を見て、誰が幽鬼を従える力を持つ伝説の幽鬼姫だと思うだろうか。
しかし、その姿はひと月前まで死にかけていたとは思えないほど健康的になり、常に自信がなく暗い絶望を宿していた黒い瞳には明るい希望が宿っていた。
身に着けた薄桃色の着物の下、白く美しいその肌にはまだ村で受けた虐待の傷が残っているが、それももうじき消えるだろう。
蓮の屋敷に来て、華鈴には何一つ不自由なことはなく、人の優しさに触れて心は満ち足りている。幸せすぎて逆に怖いぐらいだ。
そんな日々の中、華鈴が溜息を吐いている理由。
それは、先日蓮に宣言した自分の言葉が原因だった。
鬼狩師である蓮の仕事を手伝いたい、と言ったのは確かに華鈴だ。
蓮の力になりたい、という思いは何一つ変わっていない。
――しかし。
(いきなり蒼華大神様に会うだなんて……!)
大陸の半分以上を占め、周辺国もすべて配下に治めている強大な国――冥零国。
冥零国は、神に守護されている特別な国だ。
そのことを比喩や作り話ではないと大陸すべての国々が理解している。
実際にその力を目の当たりにしたからこそ、周辺国は決して冥零国に逆らわない。
――冥零国には逆らうな。あの国には神がいる。
この暗黙のルールを破った国は未だない。
実際、冥零国には百を超える神が存在しており、広大な冥零国を見守っている。
そんな神々の頂点に立つ存在、それが蒼華大神だ。
つまり、神々の中で最強で最高の神。
蒼華大神は、天を支配するその力から天空神、龍神とも呼ばれている。
蒼華大神の守護を得たおかげで、冥零国は大国となり得たのだ。
はるか昔、蒼華大神と初代皇帝の間にどんな契約がなされたのかは分からない。
しかし、冥零国皇帝の血が数千年経った今でも絶えていないことから、皇帝と蒼華大神の間には守護の契約があったのだと言われている。
蒼華大神と契約した皇帝がいる限り、冥零国の力が失われることはない。
しかし逆に言えば、皇帝の血が絶えた時、この国はその加護を失ってしまう。
皇帝の命こそが冥零国の命なのだ。
だから、冥零国では皇帝の血筋が重んじられ、その尊き血を流した者は理由問わず処刑される。
その厳し過ぎる法は庶民の間にも浸透しており、血こそがすべてであるという認識を植え付けていた。
それは、都から遠く離れた胡群の村でも同じことだった。
華鈴の母は胡群の村出身だったが、父は都の出だった。閉鎖的な胡群の村を出た母は都へ出て、父と出会ったという。
そして、華鈴が生まれてから母は何故かよそ者を嫌う胡群の村へ戻って来た。
胡群の村には独自のきまりがあった。
一度村を出た者は死んだも同じ、二度と戻ることは許されない。
この掟は、胡群の村の常識を外の人間に害されることを恐れてのことだ。
そのことを母は十分理解していた。
それなのに、母はどんな罰でも受けるから村に置いて欲しいと父と頼み込んだという。
母は村の裏切り者、父は排除すべきよそ者、華鈴は裏切り者とよそ者の血を引く子ども。
村の人間たちは掟がすべてで、よそ者は排除すべきだという考えを持つ者ばかりだ。
当然、誰もが反対し、殺すべきだと村長に訴えた。
しかし、村長は両親と華鈴を生かしてくれた。
この判断が村長としての彼の威厳を失わせることになったが、そのおかげで華鈴は短い間だが両親との思い出を作ることができた。
たとえ村での生活が死にたくなるぐらい苦しく辛いものであったとしても、両親の思いと生かしてくれた村長のためにも、華鈴は必死で生きていた。
自分が何故こんなに辛い生活を送っているのか。
何故、両親は華鈴を都で育ててくれなかったのだろうか。
涙を流しながら、毎日同じ疑問が頭の中を巡っていた。
両親が村へ戻って来た理由を、華鈴は一度だけ村長に訊ねたことがある。
詳しいことは分からなかったが、村長の話によると両親は何かに追われているようだったという。
蒼華大神の加護を強く得ている都で、一体何があったのだろうか。
もうこの世にいない両親に聞くことはできない。
(……でも、もしかしたら蒼華大神様なら)
広大な冥零国を守る一番偉い神様だ。何もかもお見通しに違いない。
両親が隠していたことを教えてもらえるかもしれない……そう思いかけて、ぶんぶんと首を横に振る。
華鈴は自分のためではなく、自分を受け入れてくれた蓮の力になりたいのだ。
両親の魂はもう解放されている。
今更辛く苦しかった過去を掘り返してどうしようというのか。
わざわざ封じられている暗い部分に足を踏み入れる必要はない。
華鈴が今考えるべきは過去のことではない。
これからの未来だ。
そう言い聞かせて、頭を切り替える。
鬼狩師の仕事の関係で、蓮の上司であり、冥零国の守護神たる蒼華大神に会う。
何かあれば冥零国の守護にも関わる。
その緊張は尋常ではない。
華鈴はしゃがみ込み、うぅ……と唸りながらも覚悟を決める。
そうして、ようやく重い腰を上げた時――――。
「華鈴、さっさと出て来い!」
鋭い蓮の声が聞こえ、華鈴は反射的に「すみません!」と叫んでいた。
「謝るぐらいなら、そこから出て来い」
蓮の声はかなり怒っている。それもそのはず、華鈴は蓮の話の途中で飛び出してしまったのだ。
「は、はい……」
震える声で返事をし、華鈴は自分が今まで身を隠していた場所から出る。
屋敷の北側の庭には、丸い池がある。その池の側には、塀に沿うように植えられた桜の木がある。雪が降るこの季節、花は咲かせていないが、とても立派な木だ。
華鈴が手をまわしても届かないほど太い幹、華鈴が乗っても折れそうにないほどしっかりした枝、そして何よりその堂々とした風体に心惹かれる。
華鈴が先程までいた場所は、池を超えた桜の木と塀の間だった。
蓮の声は池の反対側、屋敷側から聞こえてくる。
蒼華大神に会う、と急に言われて気が動転した華鈴は、池の中を着物で突っ走ってここまで来た。
考え事をしている時にはあまり寒さを感じなかったが、着物の裾が濡れていることを意識すると、冬の寒さと水の冷たさが一気に襲ってきた。
冥零国で最も尊ばれるべき神様に会うなんて恐れ多い、と思っていたが、蓮の怒りを買う方が恐ろしいということにもっと早く気付くべきだった。
がくがくと震える足で蓮の元へ、今度は突っ切らずに池の外側を回って行く。
腕組みをして呆れた表情を浮かべている蓮は、蒼華大神に会うからなのか、黒地に金の龍が描かれた着物を着ていた。
その着物に映える美しい赤銀色の髪は、普段とは違って結ばずそのまま背に流している。
派手な金の着物を当たり前のように着こなしている蓮ならば、その豪華な龍でさえも従わせられるのではないかと思わせる。
神の化身である龍を従わせるなどと恐れ多いことを考えてしまったことに自分でも驚いたが、それほどまでに蓮の姿は美しかった。
ぼうっと華鈴がその姿に見惚れていると、蓮が苛立ったように早歩きで近づいて来た。
「本当に世話の焼ける」
溜息とともにそんな呟きが聞こえたかと思うと、華鈴の身体は蓮の腕に抱えられ、あっという間に屋敷の中へ運ばれていた。