第十六話 伝えたい想い
「山神様、凛鳴様。もうやめましょう?」
こちらをじっと見つめる山神様に、そこに漂う黒い影に、華鈴は清らかな笑みを向けた。
『こんな小娘の話は聞かなくてもいいわ。せっかくの怨念を奪われたのですもの。この幽鬼姫を喰らってはどう?』
耳に優しく響く凛鳴の声。
山神様はその声を聞いて拳を振り上げた。
「やめろっ!」
蓮が、華鈴を山神様の攻撃から守ろうと駆け寄ってくる。
《蓮、下がりなさい!》
言霊の力で、蓮を遠ざける。
今、蓮に守られる訳にはいかない。
これは、賭けなのだ。
山神様が本当に華鈴を幽鬼姫として認めているかどうかの。
内心ビクビクして、逃げたくて堪らなかった華鈴だが、ないに等しい根性を総動員して顔には笑顔を貼り付けていた。
自分が従える幽鬼に怯えてしまっては、そこで幽鬼姫としての力は無に還るだろう。
幽鬼にとって救いとなる幽鬼姫が、自分よりも力のないものであると見限られたら終わりだ。
山神様が振り下ろした拳は、華鈴の鼻先でピタリと止まった。
(……た、助かった)
山神様は、華鈴を傷つけることができなかった。
つまり、幽鬼姫だと認められたのだ。
と言っても、初めて会った時に華鈴を幽鬼姫だと言ったのは他でもない、山神様だ。
死ぬ覚悟だった華鈴を生かし、幽鬼姫だと宣言し、勝手に消えて、現れたと思ったら村を襲う幽鬼と化していた。
山神様は、とことん華鈴を振り回してくれる。
これまで、怒りという感情を表に出したことのない華鈴だが、さすがに少しむかっとしていた。
「山神様、私、許しませんから。ちゃんと、元通りになってくれないと。だから……」
華鈴はにっこり笑顔を浮かべて、鼻先すれすれにある山神様の手に触れた。
そして、山神様の暗い瞳を見据えて口を開く。
《目を覚ましなさい》
その言葉を放った途端、山神様を纏う黒い霧が吹き飛んだ。
雲間から、太陽の光が一筋落ちる。
『……ユ…う鬼ひメ? 私ノ、可愛い…幽鬼ヒメ?』
頭に響く優しい声。山神様だ。
正気に戻ったのだろうか。
嬉しくなって、華鈴は満面の笑みを山神様に向け、戸惑っている彼の大きな身体に抱きついた。
ゴツゴツしていて、とても冷たい。
『山神、何をしているの? まさか、私を見捨てるの?』
徐々に暗雲は薄れ、空には明るい青が広がりつつあった。
幽鬼は、闇の中でしか強い力を発揮できない。
幽鬼の好む闇を作り出した山神様が正気を取り戻したことにより、状況が変わったのだ。
凛鳴の美しくも悲しい響きを持った声が、薄れゆく影から聞こえてきた。
山神様はその声を聞いても、華鈴を襲おうとはしなかった。
逆に、守るように黒い影と華鈴の間に立つ。
しかし、華鈴は山神様を後ろに下がらせ、空に浮かぶ影と対峙した。
「凛鳴様、あなたは何に怯えているのですか? あなたは、こんなこと望んでいないはずです。だって、あなたはとても美しい心を持つ優しい母親だもの」
柔らかく、空気に響いた華鈴の声は、言霊としての力を帯びてはいなかったが、確かに凛鳴に届いていた。
“母”という言葉に、凛鳴は強い動揺を示す。
黒い影に、優しい白い光が混じった。
「蓮様の名前を聞いて、お母様はきっと素敵な方なんだろうと思いました。蓮という名前は、蓮の花からとったのでしょう? 蓮の花が大輪の花を咲かせるためには、ものすごく汚い泥が必要だと聞きます。どんな苦難が襲っても、悲しいことがあっても、それを力に変えて強く生きていける子になってほしい……そう願ったのではないですか?」
華鈴が話している間、黒い影はじっと静かに漂っていた。
実体は見えない。ただの怨念なのだろうか。わからない。
それでも、華鈴の声に、話に、確かに意識を向けてくれているはずだ。
きっと、凛鳴は蓮を愛していたはずだから。
蓮が鬼狩師になったのも、母の死を乗り越えられたのも、優しい母の温もりに愛された記憶があったから。
華鈴が両親の愛のおかげで村での苦しい生活に耐えられたのと同じように。
《凛鳴、あなたはこんなこと望んでいない。思い出しなさい、あなたが愛した者達のことを》
伝わって欲しい。
母を大切に思う蓮の思いも、凛鳴を愛する山神様の思いも、幽鬼姫としての華鈴の思いも。
無意識に、華鈴の目からは透明の雫が落ちた。
陽の光を受けて、涙がきらきらと輝く。
『…れ、ん? 私の愛しい息子。蓮は、蓮は無事なの? どこにいるの?』
息子である蓮を求めて、悲鳴にも近い声が響いた。
華鈴の存在も忘れたかのように、蓮だけを求めて悲しい叫びが空気を震わせる。
「黙れ。そんな声で俺を呼ぶな」
ピタリ、と悲鳴が止まった。
しんと空気が張り詰める。
「蓮様。そんな風に言ってはいけません。おそらく、凛鳴様は蓮様と別れた時の光景を見ているのだと思います……」
華鈴には見えてしまった。
あの黒い影の内にある不安の塊の正体を。




