第九話 山神様のもとへ
幽鬼姫は、幽鬼に対して言霊を行使することができる。
強い思いを込めて言葉を放つことで、幽鬼を操ることも、滅すことも、救うこともできるのだという。そのすべては幽鬼姫の意のままとなる。
「まずは、こいつらに言霊を使ってみろ」
物が置かれていない、だだっ広い部屋に蓮の声が響いた。
ここは蓮が身体を鍛えるための鍛練場らしい。
部屋の中心には三匹の小鬼たち。
少し緊張した面持ちで華鈴を見つめている。
「え、と……座ってください!」
小鬼は座った。しかしそれは自分の意思で座っているような……。
「おいこら、それじゃ特訓にならねぇって言ってるだろうが!」
小鬼たちが小さく頭を下げた。華鈴も申し訳なくなって謝る。
「謝るぐらいなら、言霊に集中しろ! 俺を引き止める時はちゃんと出来ただろうが」
蓮が眉間に皺を寄せ、碧の瞳をギラつかせる。
怖い。非常に怖い。
しかし、華鈴がお願いしたのだ。幽鬼姫の力を使えるように特訓して欲しいと。
怖がって、目に涙を浮かべている場合ではない。
「あ、あの……幽鬼姫の力は幽鬼だけでなく小鬼さんたちや蓮様にも影響するのですか?」
蓮は鬼のように怖いが、人間に見える。
あの時の華鈴の叫びが言霊だとしたら何故、人間である蓮にも影響したのだろうか。
「幽鬼姫の存在は、言うなれば邪に堕ちた者や人ならざる者、闇に生きる者達にとっての光だ。そして、俺も鬼狩師として鬼の力をこの身に宿している」
「鬼の力を?」
「……そうだ」
蓮は一瞬傷ついたような表情を見せ、またすぐに仏頂面に戻った。
何故か分からないが、これ以上この話題に触れてはいけないような気がした。
室内に、沈黙が流れる。
気まずい沈黙に耐えられず、華鈴が口を開こうとした時……。
突然、空気がピンと張り詰めた。圧倒的な力を感じる。立っていることすら難しいほどに。小鬼たちも震えて、怯えている。
「山神だ……堕ちたのかもしれない」
蓮が真剣な顔で呟いた。
いつの間にか手には鎌を構えている。
蓮の鎌は神力によって操る武器で、蓮が必要とした時に現れるのだという。
立派な龍が彫られた鎌は、いつ見ても美しい。そして、それだけの力を持っているのだと思うと蓮への尊敬とともに、自分の力があまりに非力だと思い知らされる。
しかし、この山にいる幽鬼は蓮が滅したはずなのに、どうして山神様が暴走してしまったのだろうか。
今まで感じたことのない、異様で邪悪な力を感じ、華鈴は身体の震えを抑えることができない。
動けない華鈴に目を向けた後、蓮は眉間に皺を寄せて歩き出した。
山神様の所へ行くのだ。華鈴も行かなければ。
そう思うのに、身体は言うことをきかない。
怯えている。足を踏み出して、恐ろしい力に呑まれることを恐れている。
(駄目……今私が行かないと、蓮が山神様を滅することになる)
この地を守ってくれていた山神様を、今度は華鈴が救う。
そう決めたではないか。
華鈴は幽鬼姫として、鬼狩師である蓮と共に幽鬼を救うのだ。
存在価値のなかった華鈴に、これほど重い存在価値が出来た。
自分から求めたことだった。
誰かのために、蓮のためにできることをしたい、と。
だが、正直怖い。できなかった場合のことを思うと、怖くてたまらない。それでも、華鈴は顔を上げた。
「蓮様、私もお連れください!」
声は震えていた。
人は簡単に変われる訳ではない。でも、変わりたいと強く思う。
華鈴の思いが伝わったのか、蓮は頷いて華鈴に近づいた。
「俺の背に乗れ」
蓮は背を向けてしゃがんだ。
華鈴の足では蓮について行けない。
足手まといにはなりたくなかったので、華鈴は素直に蓮の背に体を預けた。
「走るぞ」
「はいっ!」
華鈴を背負っているとは思えないほど軽い足取りで、蓮は山を駆ける。
周囲は昼間だというのに薄暗く、空気は澱んでいる。
山神様が邪に堕ち、守護の力が弱まっているからだろう。進むほど深い霧に包まれ、怨念の声が聞こえてくる。
「これだけの怨念が集まりゃ、幽鬼となるのも時間の問題だな……早く山神をどうにかしねぇと」
蓮の焦燥が、華鈴にも伝わってくる。
怨念の声は、どこまで行っても聞こえてきた。
『何故、私が死ななければいけなかったの?』
『シね……死ネよ……死……』
『……苦しぃよォ、助けて…助けて』
漂う怨念の声が、華鈴の耳にまとわりつく。
悲しくて、苦しくて、涙が溢れた。
そう思うと、自然と蓮の首に回す腕に力が入ってしまう。
「怨念の声に耳を貸すな。お前はこいつらの救いであり、“光”だ。涙を見せて、悲しみを増長させるな」
力強く、優しい蓮の声に益々涙が溢れ出してしまう。
「……ごめ、なさい」
「謝るな」
「はい……ありがとう、ございます」
もう、周囲の怨念の憎しみに満ちた哀しい声は気にならなかった。
華鈴のことを信じてくれている人が、ここにいてくれるのだ。
華鈴は真っ暗な闇の中、蓮の背に身体を預け、笑顔を浮かべていた。
「これは……酷いな」
山神様の祠を見て、蓮が声を漏らす。
祠は粉々に破壊されており、そこには幽鬼たちが群がっていた。
祠を荒らしていた十体ほどの幽鬼は蓮が滅し、今は怨念の残像が漂っている。
祠から数歩離れたところでその様子を見ていた華鈴は、その異常さに震えていた。
幽鬼を救える幽鬼姫であるはずなのに、ただただ震えて見ていることしか出来なかった。
幽鬼が怖くて、声が出なかった。
言霊の練習の時、一度も成功しなかったのだ。
もしここで失敗すれば殺される。
そう思うと、恐怖で身がすくんだ。あんなに死んでもいいと思っていたのに。
「いつまでそこで震えているつもりだ? 怖いならここにいろ。やはりまだお前には早かったかもしれないな。俺は山神を探す。もしかしたら、村を荒らしているかもしれない」
強い焦りを含んだ蓮の言葉に、華鈴は顔を上げた。
この辺りの村で一番近いのは、胡群の村だ。
悲しい思い出の方が多い華鈴の故郷。
それでも、短い間だとしても両親と過ごした思い出がある場所だ。
幽鬼姫としてふさわしくあろうと決めたではないか。
いつまでも弱いままでいたくない。
「ごめんなさい。私も行きます……!」
小さな声だったが、蓮には届いた。
こちらを見て頷き、蓮は小走りで山を降りはじめる。
華鈴もその背について行く。
――山神様がいるであろう胡群の村へ。




