『ご』は二重線で消しました。
1・悪魔さんと住人
とあるアパートの一室の扉を、だれかが叩いた。
「はーい」
インターホンはないので、部屋の住人は確認窓から訪問者を確認した。
──悪魔だった。
古いアパートの外廊下に、悪魔が立っている。
二本の捻じれた角に、コウモリのような黒い翼、尖った尻尾。
扉越しに、悪魔は住人の人間に語りかけた。
「ハロウィンの仮装じゃないですよ」
「そうですか」
「私、悪魔です。死後の魂と引き換えに、なんでも願い事を叶えます。ただし、ひとつだけ。そして、不老不死と願い事の増加と、悪魔、天使、神の殺害はお断りしています」
「あー、じゃあ残念だけどやめときます。神が殺したかったので」
「……神に恨みが?」
「そういうわけじゃないですが、魂と引き換えにするのなら普通ではできないくらい大きなことでないと。でも神ってもう、死んでましたっけ。そうだ、あなたの写真撮ってネットに上げていいですか? 本物だとは信じてもらえなくても、リアルさが話題になると思うので。テレビ局に画像を売れるかもしれないし」
「……世界征服とかでもいいんですよ?」
「世界って人間だけのものじゃありませんよね。蟻の一匹一匹まで、従ってくれるっていうのなら考えてもいいですが……ぷふっ。てか悪魔さん、いまどき世界征服とか!」
「き、嫌いな人間の殺害とかどうでしょう。今ならサービスで、三人までOKです」
「嫌いな人間を殺して、なにか変わりますかね。人生を変えるのはお金でしょう。……そうか、外国にいるお金持ちの小父を殺してもらったら遺産が……」
「わかりました」
「えっ?」
「外国にいるお金持ちのおじさんを殺すのですね。大丈夫、あなたには容疑がかからないようにしておきます」
「でも……」
「ふふふ、もう契約は成立しています。今のはあなたの心の底からの願いでしたからね。悪魔をからかったこと、後悔なさい」
「私情ですか!」
黒い翼を広げ、悪魔は飛び立った。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
そして──
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
アパートの住人が畳に寝転んで雑誌を読んでいると、さっきの悪魔が戻ってきた。
今度は窓から顔を出す。
悪魔は叫んだ。
「あなた、おじさんなんかいないじゃないですかっ!」
「悪魔なんだから、言った瞬間に気づくと思いました」
「あなたが本気過ぎて、わからなかったんですよ!」
「ええ、昔からよく非実在小父のことを考えてましたからね。いつか外国にいるお金持ちの小父さんが亡くなって、莫大な財産が転がり込んだらいいのにな、って」
「人間としてどうなんですか、その妄想は」
「人間だから、こういう妄想するんですよ」
悪魔は溜息をついて思った。
……最近の人間は知恵がつき過ぎている。おまけに科学技術の進歩によって、現実と妄想の境目は、日に日に薄くなっていく。
「一度結んだ以上、契約は破棄できません。願い事の変更でいいですね?」
「勝手だなあ」
「文句なら神に言ってください! 私たち悪魔は、神の命によって人間を誘惑して試しているだけなんですから。……まったく、地獄の住人が増えても仕事が多くなるだけだっていうのに!」
「転職できないんですか?」
「恐ろしいことに、天国よりは地獄のほうがマシなんですよ」
「ほかに選択肢ないんですね」
「私のことはいいんです。とにかく契約は変更! 殺すのは外国にいるお金持ちのおじさんじゃなくて、外国にいるお金持ちのおばさんでいいですねっ!」
「……ええっ?」
悪魔は返事も待たずに飛び立っていった。
住人の両親はどちらもひとりっ子だ。いや、そのはずだった。
祖父母のだれかが頑張ったか、知られざる過去を持っていたらしい。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
2・天使さんと住人
とあるアパートの一室の扉を、だれかが叩いた。
「はーい」
インターホンはないので、部屋の住人は確認窓から訪問者を確認した。
──天使だった。
古いアパートの外廊下に、天使が立っている。
頭の上に輝く丸い輪、背中には真っ白な翼、手に弓矢。
扉越しに、天使は住人の人間に語りかけた。
「お久しぶりです」
「どなたですか」
天使の眉が吊り上がる。
「この前来た悪魔ですよ! 顔を見てわからないんですか?」
「地獄のほうがマシだと言っていたのに、天国に転職なさったんですか? あ、もしかして左遷ですね。あの後、あなたの同僚がお詫びに来て教えてくださいましたよ。あの契約は正式なものではなかったので、実行寸前にあなたは取り押さえられて、伯母は無事だったと」
住人は扉を少しだけ開けた。しかしチェーンは外さない。
「でもあなたには感謝しています。おかげで伯母の存在を知ることができましたからね。ほら見てください、このTシャツ。伯母がプレゼントしてくれたんですよ」
Iハートご当地名のTシャツを自慢げに見せびらかして、住人は扉を閉めようとする。しかし天使のほうが早かった。天使は伸ばした足を挟んで扉を止めたのだ。
「……痛くないですか、天使さん」
「痛いですよ? ですがこんな痛み、目的の前にはなんでもありません」
「目的?」
「あなたへの復讐です。……ふふ、天使としての私の仕事が、なんだかわかりますか?」
「すいません、宗教には興味がなくて。勧誘はお断りしてるんです」
住人は空いた隙間から手を伸ばし、扉の横に貼ってあるお断りシールを指差した。
「勧誘しに来たわけではありません。私が持っている弓矢が見えないんですか?」
「すいません、あなたに興味がなくて」
ぎりぎりと歯を食いしばり、天使は住人を睨みつけた。
「笑っていられるのもここまでです。私が持っているのは恋の矢、あなたを恋に落とすことが私の復讐なのです」
「そうですか、面白そうですね」
「面白そう? 自分でも制御できない恋情に苦しめられるんですよ? とんでもない相手との恋に落とされるかもしれないんですよ?」
「んー、私は淡白なほうなので、そんな情熱的な恋愛を経験できるのなら、それも一興かと。でも、ちょっと残念かな。この前会ったときから、実はあなたのことが気になっていたんです。私は昔から、気になる相手をからかってしまう性格で」
「……えっ」
住人は微笑んだ。
「天使さん、そんなにチョロくてどうするんですか」
その顔を真っ赤に染めて、天使は弓を構えた。
──だが、遅い。
辺りにパトカーのサイレンが響き渡る。
昨今は、古いアパートといえど高度な防犯設備が要求されるものだ。
ご多分に漏れず、このアパートの外廊下にも防犯カメラが設置されている。
天使の格好をして弓矢を持った不審者が見過ごされるはずがない。
押し寄せた警察官に、天使は抵抗しなかった。
復讐心に浮かされて来たものの、本来は勝手に力を使うことが許されていないのだろう。
ふたりの警察官に両腕をつかまれて、天使は救いを求めるような瞳で住人を見つめた。
住人は頷いて、警察に答える。
「はい、前にもセールスに来られたことがありますが、知り合いではありません」
パトカーへ向かう天使の耳には、有名な仔牛の歌が流れていた。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
3・死神さんと住人
とあるアパートの一室の扉を、だれかが叩いた。
「はーい」
インターホンはないので、部屋の住人は確認窓から訪問者を確認した。
──死神だった。
古いアパートの外廊下に、死神が立っている。
頭に白い髑髏をかぶり、ズルズルと長い衣装を身に纏い、手には大鎌。
扉越しに、死神は住人の人間に語りかけた。
「ふふふ、お迎えに参りましたよ?」
「また警察に捕まりますよ」
「死神は訪問相手にしか見えないので大丈夫です。もちろん防犯カメラにも映りません」
「そういえばあなたたちのような存在は、住人に招かれなければ部屋に入れないそうですね」
「……ええ、天使と悪魔はね。ですが死神は神の端くれ、あなたが拒んでも部屋に入ることができるのです」
「そうですか、ではどうぞ」
住人は、あっさりと扉を開けた。チェーンも外す。
呆気にとられながら、死神は招かれるまま中に入った。
この住人がこんなに簡単に入室を許すなんて、信じられない。なにか罠があるのでは。
死神はキョロキョロと辺りを見回した。
悪魔として窓から覗きこんだときと変わらない、狭くて古いアパートの一室だ。
いや、あのときとは違う。
部屋のあちこちに、Iハートご当地名のグッズが増えている。伯母の趣味だろうか。
「紅茶飲みますか? コーヒーもありますよ」
「いえ、私はあなたを殺しに来たので……ん? だれかいるんですか?」
そう尋ねたのは、部屋に置かれた小さなテーブルの上にティーカップとコーヒーカップが並んでいたからだ。ふたつともまだ湯気が上がっている。
とはいえ慌てることはない。
訪問相手以外の人間には、死神の姿は見えないのだから。
もし見えたなら、その人間も死期が近いということ。放っておいてもすぐに死ぬ。
死神の質問に、住人は頷いた。
「はい、いらしてますよ。勝手に死人台帳を書き換えたあなたが、私を殺しに来そうだと教えに来てくれた、あなたが悪魔だったときの同僚の方が」
「……え?」
「……あ」
流水音と扉の開く音に顔を向けると、トイレから出てきた悪魔と目が合った。
確かに、死神の昔の同僚だ。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
──これがきっかけとなって、アパートの住人は悪魔と結婚することになった。
もちろん、同僚のほうである。
悪魔改め天使改め死神改め悪魔に戻った悪魔は、地獄の底で亡者を苦しめる二十四時間勤務についていたときに結婚式の招待状をもらったが、欠席に丸をつけて送り返したという。