あしあと-8月19日(5ページ目)
三日前に悪化し、ようやく症状がおさまってきた。
私はメモをめくり、野杉が書いてくれたものを見つけた。
それは野杉の家の住所だ。
気が向いたら遊びにおいで。そういって書いてくれたものだった。
私はメモ帳からそれを千切りとりズボンのポケットに丁寧に入れた。
今日は症状があんまり出てないので、松葉杖は置いていくことにした。
正直、これがあったら歩きにくいのだ。
ただでさえ力がないのに、こんなに重たいものを持って歩くと体力を倍ぐらい消費している気がしてくるのだ。
私はちゃんと全部屋の窓が閉まっているのを確認し、ドアの鍵を閉めて外へ出た。
三日ぶりの外だった。
日ざしが強い。
さすが八月の半ばだ。
住所が書かれた紙を見ながら道を歩く。
蝉が五月蝿いほど鳴いていた。
いつも行っているスーパーにより、飲み物を買った。
レジのおばさんに声をかけられ、私は無表情で頷く。
毎日午後のレジはこのおばさんが担当している場所がある。
私はいつもそこで買っている。
なぜなら、私がしゃべれないことを知っているからだ。
でも、よく話しかけてくる。
買ったオレンジジュースを飲みながら近くのベンチに腰をおろした。
久しぶりに歩くとなかなかしんどい。
相変わらず蝉が五月蝿いほどよく鳴いている。
私は口を動かした。 ―――うるさい。
もちろん声は出ない。
だが、一瞬静まり返った気がした。
なんの音も聞こえない、たった一人の世界のような感覚。
自分の心臓の音だけが聞こえそうなぐらい静かな。
みーんみーん。
気のせいだったみたいだ。
蝉は鳴き続けていた。
さっきの静寂はただの幻覚だったようだ。
だが、しらない感覚ではなかった。
検査が終わって、狭い部屋に運ばれた後、研究者達が去った後の静寂だった。
思い出したくもない感覚だった。
嫌なものを思い出したな。
私はそう思いながら立ち上がり深呼吸をした。
空気が綺麗なのがわかる。
休憩はここらへんにして、私は紙に書かれた住所に向かうことにした。
十分ぐらい歩いたところだろうか。
学校が見えてきた。
この高校は野杉が行っている学校らしい。
本当だったらここの高校にも行けるのだろうか。
野杉がいる学校で一緒に学んで、一緒に部活を出来るのだろうか。
私が普通だったら―――。
こんなことを考えても無駄なことは分かっている。
私は高校を背に道を歩く。
しばらく歩いたところで、誰かについてこられている感じがした。
振り返ったがなにもいない。
私は不思議に思いながらまた歩く。
前を向くたびに後ろから視線が刺さってくるような感じがするのだ。
その度に振り向くのだが、誰もいない。
それを何度となく繰り返し、学校から十五分程度で野杉の家についた。
二階建ての家だった。
二階に野杉の部屋があるのだろうか。
私がチャイムを鳴らそうとしたときだった。
二階の開いている窓からかすかに声が聞こえた。
「……そんな………さん、でもそれじゃ………………楓ちゃんが……………わかりました…はい…………では……」
誰かとの電話だろうか?
遠くて聞こえない部分が多かったが、私の名前が聞こえた。
私はいつのまにか駆け出していた。
走ってはいけないと言われているのに全力で走る。
私の名前があがった!
誰と電話していたの?
誰なの?
私の頭の中をそれが巡る。
気付けば、高校前の道にいた。
空を木の枝が遮っている。
だいぶ日も落ちてきた時間なのか、薄暗く感じた。
風が吹いて葉と枝の揺れる音がする。
それが一層不安を高めた。
忘れよう。
私は自分の家まで走りながらそう思った。
今日あったことは忘れよう。
野杉の家には行かなかった。
これからも行ってはいけない。
理由は遠いから。
野杉の家は遠すぎて行けない。
行ったこともない。
自分にそう言い聞かせる。
家に帰った私は布団に倒れこんだ。
足が痛すぎてもういうことを聞かない。
私は静かに目を閉じ眠りについた。