第六回 光陰(後編)
関舜水八虎を携えた雷蔵は、未だ夢心地の中にいた。
敬愛する主君との初めての対面と、御手製である銘刀の下賜。心が震える。それは叫びたいほどで、
(すぐにでも、働きたい)
雷蔵は、そんな気持ちになっていた。
自分でも不思議だった。あれほど、眞鶴の白い肌が忘れられず、お役目どころではなかったというのに。今では次のお役目が待ち遠しいとさえ思えてくる。
表書院を出て長い廊下を進んでいると、前方から歩いてくる集団が見えた。先頭を歩く男が、一際背が高く逞しい。
「雷蔵」
清記が、袖を掴む。
「脇に寄れ」
言われるがままに、脇に寄って跪くと、
「御別家様だ」
と、耳打ちされた。
「あの方が」
「そうだ」
御別家。それは渾名のようなもので、本名は犬山兵部という。
犬山兵部は、利景の異母兄である。母が側室にもなれない低い身分の為に藩主家に入る事が認められず、当時の首席家老であった犬山梅岳が養子として引き取ったのだ。故に〔御別家〕と呼ばれている。
本来ならば、利景の政敵として争ってもおかしくない出自だが、この兵部は違った。病弱な異母弟をよく支え、幕僚の一人として藩政改革の手助けをしているという。藩内の人気も高く、養父である梅岳の追放にも、秘密裏に活躍したという噂だ。
その一団が、目の前で立ち止まった。
「内住代官殿ではありませぬか」
兵部が声を掛けた。色黒で、背が高い。傍で見ると筋骨逞しい偉丈夫と判る。
「御別家様。お久しゅうございます」
「確か、今日は殿に挨拶をする日だったかな?」
「ええ。これなる愚息が元服いたしましたので」
「ほう。すると、君が噂の」
兵部が雷蔵に顔を向けた。穏やかだが、力のある眼光である。
「平山雷蔵と申します」
「うむ」
兵部は一つ頷いて、自らの名を名乗った。
「君の話は、お殿様に聞いている」
「身に余る光栄でございます」
「宇美津での働きは特にな」
「これも父の助けがあっての事。私などは半人前にも至らぬ身」
そう応えると、兵部が一笑した。
「そうすると、大多数の夜須侍は半人前以下になるな。何せ、君は一人で夜須勤王党を潰し、夜須を救ったと言っても過言ではないからな」
「いや、そんな」
慌てた雷蔵の肩に、兵部が手を置いた。
「それだけの働きを君はしているのだから、胸を張っていいのだよ」
大きな手だった。着物越しにも、その手の放つ氣が伝わる。
(稽古を重ねた手だ)
それは、武芸に励む者だけが判る感覚だった。噂によれば、兵部は相当使えるらしい。特に槍の腕前は一品で、可児派宝蔵院流を極めているとか。
「これからも、お殿様を支えてやってくれ。いいな」
「命を賭して」
「いい返事だ」
そう話していると、取り巻きの中から若い武士が前に進み出た。切れ長の目をした美男子。兵部の側だからか、色の白さが一層際立っている。ただ、何処か蛇を思わせる厭らしさもあった。
何やら耳打ちしている。その時の兵部の顔が、一瞬とても冷たいものになったのを雷蔵は見逃さなかった。
兵部は頷くと雷蔵と清記に黙礼し、その場を立ち去った。
(異母兄弟とは言え、お殿様には似ていないな)
むしろ、真逆である。逞しく、明朗快活。しかし雷蔵は、兵部が持つそこはかとない陰を感じ取った。それは年長ながら生まれの低さで家督を継げなかった不満によるものか、生まれ持ったものなのかは判らない。しかし、見た通りのままの人柄ではないという事は確信した。
「雷蔵」
城を出ると、清記は一段と低い声で雷蔵の名を呼んだ。
「御別家殿は、殿を助ける重要なお方だ。幕府だけでなく、禁裏との繋がりも深い。最近ではお殿様に献策し、〔山筒隊〕と称する鉄砲隊を組織しているという。このような時勢だ。いずれ大きな働きをするであろう」
「覚えておきます」
「そしてもう一つ。御別家様に耳打ちした、あの若い武士も覚えておけ」
「はい」
父相手に、何故や否という返事はない。
あの男に、特に怪しい雰囲気は感じなかった。歳は二十を幾らか過ぎたぐらいで、相賀のような秀才の印象しかない。
「あの者は、御別家様の小姓頭で江上八十太夫という」
「江上?」
何処かで聞いた姓だが、思い出せない。
「巡りが悪いな。江上八十太夫の父は、江上弥刑部。かつて江戸家老をしていた」
「父上、もしや」
雷蔵は足を止めて言った。
「そうだ。滝沢求馬の父である滝沢作衛門が斬ったという、あの江戸家老だ」
「確か、表向きは痴情の縺れですが……」
江上弥刑部と滝沢作衛門は、清水徳河騒動に於いて宮方として動き、それが藩庁に知られて秘密裏に粛清されている。その事を知っているのは、一握りの人間だけだ。雷蔵は、去年の旅で父に聞かされた。
「そうだ。そして、弥刑部と作衛門を斬ったのが私だ」
「え?」
「私が、二人を殺した。御手先役として」
したたかな衝撃を、雷蔵は受けた。一瞬、滝沢求馬の顔が脳裏に浮かんだ。求馬にとって、父は本当の仇になるのだ。
(親ながら、この人が判らない)
全てを知っておきながら、何食わぬ顔で求馬と接し、そして脱藩を助けた。
(罪滅ぼしか。或いは……)
立ちくらみさえ覚えそうな雷蔵を尻目に、清記が一つ付け加えた。
「奴はおそらく、その事実を知っている」