第七回 恩義(後編)
八十太夫が、市助を連れて現れた。
二の丸、智深庵の一間である。利景が建てた庵だが、利重も此処が気に入り、沈思の場または謀議の場として活用している。
「また惨敗だったようだな」
立っていた利重は、そう言って椅子に腰掛けた。これは長崎から取り寄せた舶来品で、机の上には書物と、これも長崎から購った硝子瓶が置いてある。中身は、葡萄酒だ。
「二度仕掛けて、二度の敗戦か」
「雷蔵と、それに従う山人の精強さは想定外でございました」
「それが言い訳か?」
「敗因でございます」
「この惨敗を受けても、涼しい顔がよく出来るな。今回はお前が指揮を執ったのだぞ?」
「内心は悔しくて堪りませぬ。雷蔵と干戈を交えずして部下を討たれ、おめおめと逃げ帰ったのですから」
「そうは見えぬが」
「ただ、顔に出ぬだけでございます」
相変わらず、八十太夫の表情に変化はない。冷たく怜悧な顔を、真っ直ぐに向けている。
生存者の報告では、まず先行していた柏原党・目尾組と逸死隊が襲撃され、本隊はその後に攻撃を受けたとの事だが、そこに雷蔵は現れなかったという。それから暫く、八十太夫は山を探ったようだが、結局雷蔵どころか山人すら発見出来なかった。
「平山孫一は討ち取られ、再建しつつあった逸死隊、目尾組も壊滅だ」
「数千で山を囲んでいれば、雷蔵も捕縛出来たかと思われます」
「ほう。今度は責任転嫁か」
「殿。敗戦の責に、この首を所望なら、いつでも刎ねて結構でございます」
そう言われ、利重は鼻を鳴らした。この小賢しさと不遜な物言いが、最近殊に癪に障る。放逐する手もあるが、八十太夫の力無くては、この窮地を脱せないのだから歯痒い。
「お前が市助か」
利重が、八十太夫のやや後ろに控えた青年に目を向けた。二十代半ばで、田舎臭くあるが、陽に焼けて精悍だった。取って付けたような裃姿で、それが全く
「はい」
「父の夢十も討たれたと聞いた」
「雷蔵に殺されました。潜んでいた手下が見ております」
「そうか。立派に戦い死んだのだな。この利重、感謝するぞ」
些か八十太夫への当てつけのように言い放つと、市助に軽く頭を下げた。
「お、お殿様。頭を上げてくださいませ。俺は、柏原党は負けたのです」
「負けたのは事実だが、戦ったのも事実だからな。して、市助よ。これからどうする? 浮羽に戻るのか?」
「いや、故郷は棄てたので今更帰れません。生き残った手下とは別れて、俺は何処かで百姓をと思います」
「百姓か。そうした暮しもよかろう。しかし、お前さえよければ、私に仕えぬか?」
「えっ、俺が」
目を白黒させる市助に、利重は失笑した。
「雷蔵の追撃から生き延びた、お前の腕を買おう」
「すると、俺は目尾組に?」
「いや、私の側近くだ。生き残った手下も一緒だと有り難いが」
執政府の指揮下にある目尾組とは別に、藩主直属の諜報組織を作る。それは最近考えていた事だ。市助には、その一助になればいい。
「深江藩の一件でございますが」
市助が平伏して辞去すると、八十太夫が口を開いた。
「聞いたのか」
「ええ」
「相変わらず、耳が敏いな、お前は」
「私は反対でございます」
「そう言うと思った」
深江藩から会談の申し入れがあり、それを利重は受けていた。
深江藩は、夜須にとって仮想敵国。監視すべき対象であり、それ故に築城の国を分け合っている。その深江藩が、今後は何かと協力を仰ぎたいと言うのだから、断る理由は何もない。むしろ築城の静謐の為に、喜んで引き受ける事案である。
「大方、田沼様への仲立ちを頼まれたのでしょうが」
「ほう。それは誰から?」
実際は、その理由が一番だった。深江藩主の松永久臣は一時的に勤王思想に傾倒したが、元々は清流派の面々に近い位置にいた。その久臣が田沼意安との仲立ちを頼みたいと言ってきたのである。これは田沼へ恩を返すいい機会になると思い、身の危険を覚悟で引き受けたのだ。
「いえ、そのような事だろうと思っただけで」
「秘中の秘、なのだがな」
この話はもう進んでいて、今は深江から使者が来訪し、相賀・真部らと細かい話を打ち合わせている。
「この状況下で、城を出るのは危険です」
「ああ、そうだろう。しかし雷蔵が怖くて断ったとなれば、私の名声は地に落ちる」
「なれど」
「私は夜須藩主なのだ。雷蔵だけに構っておられん。もし、ここで怖気づけば、他にも差し障りが出よう。ただでさえ、私は簒奪者の汚名を被っておるのだ」
「何を申されますか。殿は御公儀に」
「八十太夫。私が問題にしているのは、人の気持ちよ。公儀が何と裁定しようと、世間は私を簒奪者と鼻白む。事実、私は嫡流より藩主の座を奪った形なったのだからな。故に、私は人一倍働かねばならぬ。過酷な困難にも背を向けてはならぬ。そうせねば、この夜須を、家臣や民の心を治められぬのだ」
「殿」
八十太夫が膝行した。
「殿を簒奪者と罵る者は、私が殺します。鼻白む者は、私が捕らえて改心させます。殿の代わりはいないのです。だから」
そこまで言った時、外で小姓の声がした。どうやら相賀と真部が来たようだ。
真部は死んだ文之進の仕事を引き継がせているが、こうして相賀と最近は組ませている。この男は裏より、表で力を発揮すると思ったからだ。裏の方は、暫く八十太夫に支えてもらうしかない。
「細かい詰めの話が終わりましたので、ご報告に伺いました」
「ご苦労。早速聞かせよ」
そう言うと、相賀は真部を一瞥した。
「まず会談の場所は、菰田郡桑曲陣屋」
「桑曲か。一応は夜須領内だな」
深江藩から話を持ち掛けた手前、深江領内での会談はないと思っていた。理想は夜須城内であるが、相手の体面を考えれば妥当な場所だろう。
「次に、随行に関して幾つか取り決めがございます」
「ほう」
「随行家臣は五十名以下、弓鉄砲の携行は禁止。それらを監視する為、互いに目付を派遣し、その出立から検分させる事」
「中々細かいな」
その他、諸事について書かれたものを、真部が膝行し、利重に手渡した。
「それだけ、深江は我が藩を恐れているのでしょう」
そう言った相賀に八十太夫が、
「甘い」
と、言い放った。
「甘いだと?」
「私なら、使者を捕らえて石を抱かせています」
「これは、物騒な事を言う。まぁ、雷蔵に敗れたお前の気持ちも判るが、少し考え過ぎだろう」
「家臣の数の制限、飛び道具の禁止。そして、桑曲は夜須領内と言えど、遠く離れた僻地も僻地。そこに至るまでに、どれだけの隘路がありましょうや。これでは、雷蔵に襲ってくれと言わんばかりですぞ」
「ふん、雷蔵に深江藩が動かせるはずはなかろう」
「動かしたのは、深江藩に非ず。松永外記でありましょう。かの平山清記が深江藩の騒動に介入した事で、外記は結果的に救われています。その事を恩義に感じても不思議はございません」
「想像が飛躍しているな」
「殿が襲われてからでは遅いのです」
「世迷言を」
「まぁ待て二人共」
そこで、利重は二人を止めた。
「仮に雷蔵を助けたとして、深江藩には利より損の方が大きい。外記はそれを勘定出来ぬ男か?」
「いえ」
八十太夫は首を横にした。
「松永外記は、稀代の梟雄。かの松永久秀の血が濃い人物。まるで犬山梅岳のような」
利重は、八十太夫を睨んでいた。梅岳の名。その名を出した事が、何かの当てつけのように感じたからだ。利重は腹立ちを覚えたが、杯を呷り、葡萄酒と共に怒りを胃に流し込んだ。
「もうよい。八十太夫。これは決めた事だ。しかし、無策ではいかんな。真部、お前には私の護衛一切を任せよう。私の下に市助という男がいる。これも使え」
「はっ」
「相賀は、政事向き一切を任せる。藩主同士の後は、実務的な話になろう」
「かしこまりました」
二人が平伏し、部屋を出て行った。
◆◇◆◇◆◇◆◇
また二人になった。
思えば、いつも二人だったような気がする。
前々藩主・利永の御落胤として、犬山家へ養子に入ったが、いつも腫物のように扱われてきた。その上、自分は梅岳の実子では? という噂もあった。孤独だった。だが、そこでいつも支えてくれていたのが、梅岳の男妾だった八十太夫だった。
家督を継いだ時、まず八十太夫を家臣に迎えた。藩主就任の功労者。権力を確立できたのも、八十太夫が汚れ役に徹してくれたからだ。
恩義がある。家臣と言えど、返しきれぬ恩義が。しかし、その恩人を斬り捨てなければならない時期が、もう目の前にまで来ている。
「私が心配なのか?」
利重は、八十太夫の前に腰を下ろした。
「殿は私の命でございます」
「深江藩が不穏だと思うのだな?」
「ええ」
「そうか。ならば、お前の目で確かめてこい」
「それは」
「お前を目付として、深江へ派遣する」
八十太夫の顔が固まった。平素、表情に変化のない男だが、いつも側にいた利重には、その変化を十分に見て取れた。
「私はもう、お傍に必要無いなのですね」
「違う。お前は私の一の家臣。力量も信頼している。それ故に任せるのだ」
「……」
冷たく切れ長の瞳が、微かに潤む。それは、この世のものとは思えぬ美しさがあった。
(この美しさを、父は愛したのか……)
利重は立ち上がると、八十太夫に背を向けた。
「明日、出立せよ」
八十太夫の返事は無かった。
天暗星に導かれ、辿り着いた決着の地。
桑曲、佐與坂。
待ち受ける50名超の夜須藩軍に対し、討ち入る雷蔵一党の数、3名。
夜須騒動の終幕を飾る大立ち回り、「佐與坂の討ち入り」をとくとご覧あれ!
次回、最終回「狼の裔」お楽しみに!