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狼の裔~念真流血風譚~  作者: 筑前助広
第五章 寂滅の秋(とき)
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第二十回 阿芙蓉(前編)

 雨が降っていた。

 昼下がりというのに、外は厚い雲に覆われて薄暗い。激しくはないが、しとしとと途切れない雨である。この様子では、今日のうちに晴れる事はないであろう。今年の秋は、どうも雨が多い。

 この日、清記は非番だった。故に、村の道場に出ていたのである。

 目の前には、雷蔵。木剣を構えている。

 二人っきりの、久し振りの立ち合いだった。


「父上、久し振りにどうですか?」


 と、雷蔵から誘われたのだ。誘う事はあっても、雷蔵から声を掛けられたのは、初めてなような気がする。それが、柄にもなく嬉しいと思ってしまう自分がおかしかった。

 藩庁での政変があってからの十日。気鬱な日々を、清記は過ごしていた。雷蔵はそれを見かねて、誘ってくれたのかもしれない。

 何故、自分だけが助かったのか。この十日間、清記はそれだけを考えていたのである。添田・羽合・帯刀。反利重の急先鋒でありる三名は判る。だが、その中に自分の名前があっても不思議ではなかった。その三名と談合も重ねていたし、相賀を通して利重も八十太夫も掴んでいたはずだったのだ。


(まだ、私に利用価値があるというのか)


 考えても、答えは一つしかない。自分に誰かを斬らせる。その為に、利重は罪に問わなかったのだ。


「父上、氣が少々乱れていますよ」


 雷蔵が、表情も変えずに言った。清記はそれに返事をしない。それもまた、駆け引きだ。

 雷蔵は下段。清記は正眼に構えを取っていた。

 対峙は、四半刻続いている。雷蔵は悠然と構えているが、底知れぬ圧をかけている。こちらが病んでいるともしらず、容赦なく勝つつもりなのだろう。


(その前に、私の体力が尽きるかもしれぬ)


 以前に比べ、体力が随分と落ちている。それに雷蔵の冷たく重い圧力を受け流してはいるが、木剣がいつも以上に重く感じるのだ。

 どう打ち込むか。そして、どう返すか。雷蔵の剣は想定のしようがない、高みへと昇華しつつある。構えは下段。防御の構えだが、それで鋭い攻撃を見せる剣なのだ。その上、親元を離れた間に随分と磨き上げたような印象もある。


「父上」


 ふと、雷蔵が構えを解いた。


「夜須を去りましょう」


 思わぬ一言に、清記も木剣を下ろした。


「お前は、私に出奔せよと言うのか」

「今の夜須藩は、我らが命を賭して忠誠を捧げるに値しませんからね」

「……」

「いくら政事とは言え、有能な人材を証拠もなく排除するとは、正気の沙汰とは思えません。しかも、今回の政変は今まで同志であった相賀の仕業。その相賀が藩の舵取りをすると思えば、反吐が出ます」

「相賀様は傀儡だ。裏にはお殿様がいる」

「だからです、父上。あの男は、利景公の御遺志を引き継ぐと誓いながら、結局は己の思いのままにしたいのです。だから今回の一件で、最も利景公を崇拝していた者を処罰した。そう思いませんか?」

「だが、取り調べはお前も立ち会ったのだろう? 三人が関わった証言も聞いているはずだ」

「ええ、聞きましたよ。ですが、私は信じていません。三人の中に父上の名も挙がっていれば、私も信じたでしょうね。しかし、ありません。つまり、あの証言に何かしらの思惑が込められているのです」


 確かにそうだ。そう思えるから、塞ぎ込んでいたのだ。


「しかし、今更ですの話ですね。もう現体制を、政事で倒すのは至難の業でしょう」


 政変の後、利重の動きは神速だった。

 まず相賀率いる藩兵が町奉行所を囲み、羽合と子飼いの側近を捕縛。次に許斐の一隊が若宮庄に派遣され、帯刀の屋敷を攻めた。しかし、屋敷はもぬけの殻で帯刀どころか、親類家人に至るまでいなかったという。

 添田は山深い舎利蔵峠へ幽閉され、羽合は城中の牢獄に繋がれている。今でこそ生かされているが、敵中にある添田と羽合の処刑は早晩行われるはずだ。


「それに、お殿様に抗おうという勢力もいないはずです」

「そうだな」


 添田派は、旗頭を失い崩壊している。これからは、首席家老となった相賀を傀儡とする、利重の時代が来るはずだ。


「だから、出奔せよと申すのだな」

「それか、あの男を斬るかです」

「お前は何を」


 雷蔵の唇に、微笑が影のように動いた。その事に何か言おうとした時、清記は膨れる氣を察知した。

 それは、明らかな殺気。雷蔵が、下げた木剣を横薙ぎにしたのだ。

 寸前。それを払い落し、喉元に木剣を突き付けた。雷蔵の目が見開いた。


「流石です、父上。私には到底及びませぬ」

「お前も腕を更に上げた」


 ほぼ同時に、引いた。もう仕掛けてくる気配は無い。


「清記様」


 それを見計らってか、声がした。視線を向けると、部屋の隅に薊が控えていた。


「藩庁に動きがございました」

「ほう」


 雷蔵が手招きし、三人で車座になった。

 薊を城下に残し、何か動きがあれば知らせるように命じていたのだ。当然、薊は城中に忍び込めないので、薊に知らせる役目は添田に付き従っていた祐筆が引き受けてくれていた。


「執政府の陣容が一新されました」

「いよいよ相賀様が首席家老になったか?」


 そう訊くと、薊は首を振った。


「いえ。相賀様は、新たに設けられた参政さんせいという職に就かれました」

「参政とは何だ?」


 雷蔵が訊いた。


「執政府をまとめ、藩主に助言を行うお役目だとか……」

「では、首席家老は誰が?」

「首席家老を置かず、お殿様がご親政をされるようです」

「何と」


 清記は雷蔵と目を見合わせた。そして、思わず雷蔵が吹き出す。


「相賀様は、あの男を甘く見られたなぁ」

「これが、お殿様が描いた筋書きだろう。全てに於いて、我々はしてやられた」

「父上。私は相賀の顔が無性に見たくなりましたよ。今頃、さぞや気落ちしているでしょうね」


 薊によれば、既に藩政を動かせる者はいないとして、親政に乗り出したようだ。そして執政府から添田に近しい者や高齢の者を外し、代わって自ら抜擢した者を昇進させた。その中には、かつて犬山派だった者の子弟も含まれている。その事が、意外にも藩士たちに称賛されているという。


(そういう事か……)


 清記は、利重の深謀遠慮に舌を巻いた。

 利景は改革の為に、身分に捉われない能力主義の人事を断行した。その結果が、添田と相賀の抜擢だった。が、犬山派と呼ばれる門閥は徹底的に排斥した。それは血で血を洗う闘争を演じた宿敵だったからだ。しかし、利重は違う。元犬山家でもあり、遺恨が無い。もっと自由な人事が出来る。つまり皮肉にも、利重は利景には出来なかった、身分・派閥に捉われない人事体制を実現したのだ。


「これが、執政府の陣容でございます」


 そう言って、薊が懐から書き付けを取り出した。そこには、参政の相賀から若年寄までが名を連ねている。総勢で十二名。数は変わっていないが、全て利重に近しい人材である。目新しい所で、許斐亘の名前があった。どうやら、執政府の最下位である若年寄に昇進したようである。


「完璧だ。これでは付け入る隙がない」

「もはや、夜須に生きる場所はございません」

「雷蔵、我々だけならどうにでもなる。しかし、常寿丸様が心配だ」


 雷蔵が頷いた。

 利重には婚儀の話が上がっている。相手は老中・酒井靱負さかい ゆきえの娘だそうだ。もし子が生まれれば、常寿丸が継ぐ芽は無くなる。それどころか、存在が邪魔だと命すら危なくなる。


「やはり斬りましょう、あの男を」


 雷蔵の言葉に、清記は応えなかった。利重は斬る。それは利景の遺命なのだ。だが、その企みに雷蔵を伴う事はしないとだけは決めていた。


◆◇◆◇◆◇◆◇


 暖簾を潜ると、威勢のいい声に出迎えられた。

 夜須随一の傾城街である吉原町の裏路地、太郎小路の串焼き屋〔八ツ造〕である。

 獣肉を焼く臭いと、煙が鼻に突いた。だが、それを旨そうな香りと思えるほど、清記は獣肉に慣れている。

 店内は吹き抜けの二階造り。一階の土間は満席で、清記は二階に案内された。

 二階は座敷造りで、武士の姿が幾つかあった。見回したが、誰も顔を上げようとしない。


(まだ来てないのか……)


 二日前に、投げ文があった。その内容が、〔八ツ造〕で会おうというもので、誰がという事は記されていなかった。

 この店は、添田が贔屓にしていた。それを知っていると暗示させたので、清記は誘いに乗る事にした。投げ文の主が誰であるが判らないが、わざわざこの店を選んだのだ。全くの悪戯という事は無い。

 清記はとりあえず部屋の隅の空いた席に座り、酒と串焼きを幾つか頼んだ。

 この店には、酒と串焼き、そしてお通しの豆腐しかない。串焼きの種類は、猪や鹿、鶏・熊・穴熊・野鳥と様々だが、その日の仕入れによって変わる。

 すぐに、酒とお通しの豆腐が運ばれてきた。豆腐の横には舐め味噌が添えられている。暫くそれで盃を傾けていると、着流しの武士が鼻歌交混じりに登って来た。


「ほう」


 その男の顔を見て、流石の清記も驚いた。男は、かの鏑木小四郎かぶらぎ こしろうだったのだ。


「久し振りだね、平山さん」

「お前か」


 そう言うと、鏑木は口許に微笑を浮かべた。この男に会うのは、鵙鳴山宝如寺で賊を退治して以来になる。


「わざわざ申し訳ねぇ。ですが、折角夜須に来たんで」


 鏑木が、目の前の席に座った。小女が酒を運んできたので、串焼きを追加で頼んだ。


「お元気そうですね」

「本当に、そう見えるか?」

「いや……随分と痩せましたな」

「死病だ」


 すると、鏑木が銚子を傾ける手を止めた。そして、らしくない真剣な眼差しを清記に向けた。


「腹にしこりがある。このしこりが、時折獣のように暴れるのだ。身体も怠いし、微熱も続く。飯も旨く感じないのだ」

「医者には?」

「持って一年という所らしい」

「病ですか、あなたと言うお人が」

「これは呪いだな。今まで私が斬った者の」

「呪いと来たか。そんな世迷言を言うなんざ、病とは気を弱くするもんですかねぇ」

「いや、私は感じるのだ。この腹の獣が暴れる時に」

「何言ってんだ、平山さん。もしそうなら、俺も病になっちまうぜ」

「おぬしも人斬りか」

「忠勤を励んだ結果ですよ、こりゃ」


 そこで小女が、串焼きを運んできた。それは獣肉や鶏で、塩やタレで焼かれている。

 鏑木が、早速その一本に手を伸ばした。


「江戸じゃ滅多に食えねぇもんですね。もし日本橋辺りで出したら、臭せぇだの畜生だのと、どえらい騒ぎになりそうだ」

「おぬしは大丈夫なのか?」

「ええ、獣肉は好きですね。お役目がら、何でも食わなきゃいけねぇ時がありますから」

「なるほどな。此処にはよく来るのか?」

「三度目ですねぇ」


 硬い肉なのか、鏑木は親の仇のように咀嚼している。


「通い詰めか」

「この店、添田さんの贔屓なんですってね」

「そうだ」

「ちっと調べただけで、判りましたよ。その添田さんも、今は難しい立場だという事も。ねぇ?」

「で、おぬしは何故夜須に?」


 清記は、鏑木の話を無視して訊いた。鏑木とは賊退治で手を組んだが、幕臣である。信じられる男だが、だからとて心を許してはいけない。


「平山さんに会いにですよ」

「嘘を言え」


 鏑木は、もう一本の串を取ると、懐から何やら袋を取り出した。


「これを振りかけると、また絶品でしてねぇ」

「何だ、それは?」

「七色ですよ」

「ほう。夜須では珍しいな」


 七色とは、唐辛子、芥子の実、麻の実、粉山椒、黒胡麻、陳皮という七種類の薬味を合わせた調味料である。江戸の薬種商人・中島徳右衛門が発明したもので、時の将軍にも献上されている。

 鏑木はそれをひと摘みすると、タレの串焼きに振りかけた。


「どうです? 平山さんも」

「話を逸らすなよ」

「何が?」

「お前が夜須に来た事だ。それも、今の夜須に」

「ふふ」


 鏑木が串焼きを一気に頬張り、それを酒で流し込んだ。


「平山さん、それを此処で言わせる気ですかね?」


 清記はそう言われ、押し黙った。この緊迫した時局で、柳生陰組という公儀隠密の鏑木が現れた。その事で些か落ち着きを失ったのかもしれない。


「では、どうして此処を選んだのだ?」

「旨いからですよ。用件は場所を改めて」


 鏑木が笑う。この男は相変わらず、人を煙に巻くような男だ。

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