拙い音色を描く
部活動中、咲季はスケッチブックを片手に校内を歩いていた。今日は何を描こうかと、対象物を探している最中だ。
辺りを見回しながらゆっくり歩を進めていると、微かにピアノの音が聞こえてきた。拙いが、聞き馴染みのあるメロディー。
(……『きらきら星』かな……?)
吸い寄せられるように、音がする方へ近づく。
辿り着いたのは音楽室だ。教室のドアの窓からちょこんと顔を出して室内を覗く。正面奥にある黒いピアノの陰から、赤い髪が顔を出していた。
(瀬輝くんだ)
思ってもみなかった奏者に咲季は目を丸くする。
楽譜を見ながら一生懸命ピアノを弾いている瀬輝は、こちらには気付いていない。
真剣な表情が心を惹きつける。もう少し近くで演奏する姿を見たいと思えた。
咲季は無意識に音楽室のドアの取っ手に手を掛け、遠慮なく引き戸を開けた。
「うおっ!?」
驚く声と鍵盤の音が重なって室内に響く。それを耳にした咲季は申し訳なくなった。
大きく開かれた瞳と目が合う。
「何だ、チビッ子か……」
「ごめん、びっくりさせちゃったよね」
「いきなりドア開けるから、そりゃあ驚くって……まあ、いいけど」
「ごめんね」ともう一度謝り、音楽室の中に足を踏み入れた。
「瀬輝くん、ピアノ弾けるんだね」
「ちょっとだけな。簡単なものなら」
「今は練習中?」
「そう。保育士になるには避けては通れない道だからな」
瀬輝の近くまで歩み寄り、興味深そうにピアノと楽譜に視線を向ける。楽譜はまだ新しく、最近買ったもののようだ。
「入試でピアノの演奏あるの?」
「いや、俺が受ける専門学校の入試にはピアノの項目はないんだけど、今のうちに少しでも慣れておこうと思ってさ」
「たまにここで練習してるの?」
「いや、今日が初めて。部活は休みだし、先輩は家の用事があって先に帰っちゃったし、音楽室は誰も使ってないから練習しに来たんだ。まあ、部活はもうすぐ引退なんだけど」
瀬輝は座ったまま伸びをする。
「チビッ子は引退いつなんだ?」
「あたしは文化祭で絵を出すから、それが終わってからだよ」
「テーマってもう決まってんの?」
「決まってるけど決まってない」
「どっちだよ」
瀬輝に突っ込まれた咲季は、小さく声を漏らして笑った。
「今回テーマがないんだよね。自由に好きなのを描いていいんだって」
「ああ、そういうこと。じゃあ何描くかはまだ決まってないんだ?」
「うん。何にしようかなーって迷ってるの」
そこまで言うと、スケッチブックを瀬輝に見せ、思い付いたことを口にした。
「あと、今日描く絵も決まってなかったから、ピアノの練習してるところ描いてもいい?」
「別にいいけど、面白いものはないぞ」
「あたしにとっては面白い、というより楽しいからいいの」
「そうかい」
満面の笑みを見せる咲季は、近くにあった机の椅子を手に取り、瀬輝から少し離れた右側に置いた。窓に背を向けて椅子に腰掛ける。
スケッチの準備をしている途中で、ピアノの音色が聞こえ始めた。先ほどまで聞いていた『きらきら星』が教室内に響き渡る。
それを耳にし、時折小さく鼻歌を歌いながら、ピアノを弾く瀬輝をスケッチブックに描いていく。ゆっくりとしたテンポで少し苦戦しつつも、鍵盤を鳴らす姿は楽しそうだった。演奏が上達したら、その時はもっと楽しそうに弾いているに違いない。
そんな予想を立てていると、今の彼に重なるように保育士としてピアノ演奏している様子が浮かんだ。子供たちと笑い合いながら、ピアノを弾いて歌っている。とても微笑ましい光景。
(そういうのも、間近で見られたらいいなぁ)
咲季は穏やかな気持ちで笑う。そして、願うように絵を描き上げていく。
ピアノの練習が一段落した頃、咲季が静かに口を開いた。
「瀬輝くんが保育士さんだったら、きっと楽しいだろうなぁ」
「そ、そうか!?」
「うん」
「俺、もっと頑張るわ」
「応援してる。でも頑張りすぎて体壊さないでね」
「おう!」
瀬輝は嬉しそうにニッと笑った。
その笑顔から、スケッチブックに視線を移す。真剣に、だけど上機嫌にピアノを奏でている姿が描けた。躍動感のある一枚。
すると突然、咲季は閃いた。
「雪村先生を描こう」
「は?」
脈絡のない言葉に瀬輝がきょとんとする。
「文化祭で出す絵だよ! 今頭に浮かんだの」
「ああ、文化祭の……」
「瀬輝くんありがとう!」
「いや、俺何もしてない」
「瀬輝くんを描いたから思い付いたんだよ。だから瀬輝くんのおかげ!」
「お、おう……それは良かった……」
気圧された瀬輝は苦笑いを浮かべる。
一方咲季は、それを気に留めることなく意気込んだ。




