あかいろ、はつこい
映画館では沢山の子供の声が飛び交っていた。親や友達と話す声。ごっこ遊びをする声。走り回ってはしゃぐ声。時折聞こえる子供を叱る親の声。その一つ一つが、劇場内を賑やかにさせる。
「本当ごめんね。急に予定変更になっちゃって」
真ん中辺りの席に座る天夏は、二つ隣の咲季に申し訳なさそうに声を掛けた。
「大丈夫だよ。気にしてないから」
そう言って咲季は、自分と天夏の間に座る秋凪に視線を移す。
これから三人が観る映画は、日曜日の朝に放送されている『音符戦隊 メロディーレンジャー』という戦隊モノの映画だ。
実を言うと秋凪は本来、兄である冬也と一緒にこの映画を観る予定だった。しかし昨日の夜に突然、冬也に大学でどうしても抜けられない用事ができてしまった。日にちをずらして映画へ行こうと冬也は提案したが、秋凪は「約束したのに」と駄々を捏ねる始末。話が進まないことを見兼ねた天夏が咲季に相談し、今に至る。
秋凪は、手に持っていたメロディーホワイトのキーホルダーを見つめている。これは前売り券購入者のみが貰えるグッズで、背中のボタンを押すと音楽が流れるというもの。ランダムに渡される中で一番好きなキャラクターのグッズが貰えたのは、とても運の良いこと。
秋凪の表情はご機嫌そのものだ。
「秋凪ちゃん、お兄さんと来られなくて残念だったね」
咲季が話し掛けると、秋凪はにこやかな表情を崩して膨れっ面になった。
「……お兄ちゃんなんてどうでもいいもん」
(ありゃ、機嫌悪くなっちゃった)
「昨日からお兄ちゃんに対してこうなのよ。今朝もお兄ちゃんのこと無視してたし」
「厳しいね」
「おかげで泣きながら大学に行ったわ」
天夏は涙で盛大に頬を濡らす兄の姿を思い返す。映画を観たら秋凪の機嫌は直るから泣かなくてもいいのにと思う。
小さくため息をつき、話題を変える。
「咲季は最近こういう戦隊モノって観てるの? 私たちはお兄ちゃんの影響でずっと観てるけど」
「最近は観てないなぁ。小学生の頃だったらいっちーと一緒に観てたよ。ルビンさんが出てたし」
「ルビンさんの悪役、カッコ良かったわよね」
「うん! あの頃、みんなで戦隊ごっこしてたよね」
昔の思い出話をしていると劇場内が薄暗くなり、スクリーンに上映中のマナーや注意事項、今後公開される映画の予告編が映し出された。時間が経つごとに、辺りは静かになっていく。
そして照明が落とされると、本編が始まった。
「最近の戦隊モノってすごいね」
映画館に隣接するショッピングモールの休憩スペース。そこに設置された椅子に腰掛け、買ったばかりのクレープを食べながら咲季が言った。
「そうよ。話の内容も侮れないし、演出……とかも結構凝ってるからね」
天夏は秋凪をちらりと見つつ、言葉を選んで口にした。
「秋凪ちゃん、映画は楽しかった?」
「うん、すっごく楽しかった!」
満面の笑みを見せた秋凪は、両手で持ったクレープを口いっぱいに頬張る。そのせいで口の周りにチョコレートやクリームなどが付いてしまった。
「秋凪、こっち向いて」
天夏はティッシュを手に取り、秋凪の口周りの汚れを拭いていく。
「服や床に零さないでね」
「うん!」
秋凪は元気に返事をして、またクレープを食べる。
「この後はどうする?」
「そうねー。服でも見に行こうか。本当はそういう予定だったし」
「そうだね」
「と、その前にトイレ行ってくるわ」
「うん」
天夏はバッグを手にして、席を立った。
残された咲季は目の前にいる秋凪を見た。秋秋凪はいつの間にかクレープを食べ終え、ティッシュで手を拭いていた。
(食べるの早いなぁ。あたし、まだ半分くらいしか食べてないのに)
思いながら、咲季はクレープをゆっくりと食べる。イチゴとクリームのほどよい甘さが口内に広がる。
「咲季ちゃん、これつけて」
クレープを味わっていると、秋凪が映画館で貰ったキーホルダーと自分のショルダーバッグを差し出して来た。
咲季はクレープを置いてそれらを受け取り、バッグのDカンにキーホルダーを繋ぎ合わせる。
「はい、出来たよ」
「ありがとう!」
屈託のない笑顔を見せて、秋凪はお礼を言った。
「どういたしまして」
その表情を見ながら咲季は「妹っていいな」と思い、またクレープを口にする。
「お、チビッ子じゃん」
聞き覚えのある声の方を見ると、瀬輝が此方に歩み寄って来ていた。
「偶然だね。瀬輝くんは買い物してたの?」
「新しい靴を買いにな」
瀬輝は手に携えた袋を少し持ち上げた。
「……」
一方、秋凪は初めて見る人に釘付けになっていた。咲季と親しげにする様子に、二人は友達同士なんだと知る。
そうした時、瀬輝と目が合った。瞬間、体中が熱くなって胸がドキドキし始める。
何故か、まともに瀬輝を見られなくなった。
秋凪の存在に気付いた瀬輝は驚いた表情を見せる。
「チビッ子って、妹いたっけ!?」
「いないよ。この子は天夏の妹で秋凪ちゃんだよ」
「ああ、通りで天夏に似てるわけだ」
そう言って再度秋凪を見る。しかし秋凪は目を合わさず、目の前に置いてあるバッグをじっと見つめていた。何気なくその視線を辿ると、バッグに付けてあるキーホルダーに目が止まる。
「あ、これ知ってる。前売り券買ったらもらえるやつでしょ? メロディーレンジャーの映画観たんだ?」
キーホルダーに触れながら言う瀬輝の言葉に、秋凪は頷くのが精一杯だった。
「瀬輝くん、メロディーレンジャー観てるの?」
「うん。朝、暇だからついでに観てる程度だけど」
「へぇ」
「あ、そうだ」
瀬輝は思い出したように自分の鞄の中を探る。
そして椅子に座る秋凪のすぐ近くでしゃがんだ。
「ちょうど飴持ってたんだ。好きなの選んでいいよ」
差し出された両手には、透明な袋に入った飴が四つ乗せられていた。
「黄色がレモン、赤がリンゴ、紫がブドウ、緑がメロンだよ」
秋凪は優しい声音に顔を上げる。
すると瀬輝の髪が目に入った。鮮やかな赤色。瞬きを忘れるくらいにきれい。
「……」
もう一度飴を見て、赤色の飴を選ぶ。
「あり、がと……」
顔を赤く染めてぎこちなく言った秋凪。その頭を瀬輝の手が優しく包む。
「どういたしまして」
大きな手の温もりと間近にある優しい笑顔に緊張し、自然と体に力が入るのを秋凪は感じていた。
「あれ? 瀬輝も来てたんだ」
しかし、トイレから戻ってきた姉の声で緊張がちょっとだけ解けた。
「まあな」
立ち上がった瀬輝の手が離れたのとほぼ同じくして、秋凪は天夏のもとへ駆け寄り、その後ろに隠れた。
(秋凪ちゃん、珍しく人見知りしてる……)
(人見知りする子だったのか……悪いことしたかな……)
秋凪の行動に咲季と瀬輝は同じようなことを思っていた。
ところが、天夏は違う。
「秋凪?」
後ろにベッタリとくっつき、顔を真っ赤にする妹。
その仕草だけで気付いた。
(瀬輝みたいなかわいい系がタイプなんだ)
妹の好みを知り、驚きを抱く。
夕方。秋凪はリビングのテーブルに置いた飴を見つめていた。
「それ、瀬輝からもらったの?」
「うん……」
頷く秋凪の頬は赤らんでいる。
(秋凪も恋する年頃なのね)
秋凪の姿が可愛くて天夏は微笑んだ。とは言え、兄のことを考えると頭を抱えたくなる。
(でもお兄ちゃんにバレたらめんどくさいのよねー……)
ため息混じりに思っていると、玄関のドアが開く音がして「ただいまー」と言う声が聞こえた。
シスコンが帰って来たわ、と思う天夏は小さくため息を漏らした。
「お帰りー」
シスコンと称された冬也の声に、天夏だけが反応した。
秋凪は飴を見つめたまま。
リビングへと足を運んだ冬也が脇目も振らずに秋凪に歩み寄る。
「秋凪、ごめんな。約束破って」
「……」
「お詫びと言っては何なんだけど、これ買ってきた! メロディーホワイトのぬいぐるみ! 新しく出たやつだぞ! 秋凪、欲しいって言ってたもんね!」
冬也は此方を向かない秋凪の顔の近くにぬいぐるみを持っていく。
秋凪は目の端に見えるぬいぐるみに目を向け、手を伸ばした。
「……ありがとう」
「……!!」
ようやく秋凪が口を利いてくれたことに喜びを隠し切れない冬也の目から、涙が溢れ出る。思わず抱き締めたくなったが、たまに嫌がられることがあるので頭を優しく撫でるだけに留めた。
(……違う)
同じように頭を撫でられているのに、兄の場合だと何かが違うことに気付いた秋凪。でも何が違うのかはわからない。
「何これ? 飴?」
声に反応して飴を見ると、冬也の手が飴に近付いていた。
「ダメッ!!」
冬也の手が届くよりも先に秋凪が飴を掴み、大事そうに両手で包む。そして、それだけを持ってバタバタと自分の部屋へ走って行った。
「……」
冬也は足元に落ちたぬいぐるみを拾い上げ、秋凪が向かった方を見る。仲直り出来たと思ったのも束の間、また小さな妹に拒絶された。視界が滲む。
「ぬいぐるみよりも……飴が大事なのか……?」
「今はそうみたいね。とりあえず泣くのやめて」
天夏は淡々と言った。
それにより、兄の涙の量が増えてしまった。
子供向けのアニメやメロディーレンジャーを含めた特撮ヒーローのおもちゃなどで溢れ返った小さな部屋は、夕日で赤く染まっていた。
ベッドに横たわった秋凪は両手を開く。
飴の袋がくしゃっと音を立てた。
透明な袋の中の、赤い飴玉。
「……」
静かに袋を開けると、甘いリンゴの香りが広がった。飴玉を手に取って見つめる。
元々の赤い色が、夕日に照らされてさらに赤くなった。
瀬輝の髪色と重なる。
赤い髪。笑った顔。温かい手。優しい声。思い出すだけでドキドキする。
飴玉を口に入れるとリンゴの甘い味がした。
落ち着かなくて、近くにあったクッションを抱き締める。
甘くて、甘くて。
じっとしていられないくらいドキドキして。
あの人のことばかり考えて。
また会いたくて。
いろんなこと知りたくて。
どうして?
秋凪は口の中で飴玉をコロコロと転がすと同時に、クッションを抱き締めたまま体の向きを変える。
すると天夏が「秋凪、入るよー」と言って部屋に入って来た。
「これ、忘れ物」
天夏が差し出したのは冬也が買って来てくれたぬいぐるみ。
すっかり忘れていた存在を目にし、秋凪は起き上がる。
「ありがと」
お礼を言ってぬいぐるみを両手で抱えた。
目が合った姉に、聞いてみたくなる。
「……ねぇ、お姉ちゃん」
「何?」
「ここがね、ドキドキするの。どうして?」
胸の辺りを押さえる妹の質問に天夏は微笑み、その隣に腰掛けた。
静かな空間にベッドの軋む音が響く。
「それは、恋だよ」
「恋?」
「そう」
「お姉ちゃんも、哉斗くんのこと考えるとドキドキするの?」
「するよ。ドキドキして哉斗のことばっか考えて、会いたいなって思う。秋凪もそうじゃない?」
「……」
秋凪は顔を赤くしながら頷いた。
ドキドキするのが恋なら、知りたいと思うのも恋なのだろうかと考える。
「……お姉ちゃん、あの人は彼女いるの?」
「いないよ」
「好きな子は?」
「いないよ」
「どういう子が好きなの?」
「……えっと……」
ここで天夏は言葉を詰まらせた。
瀬輝の好きなタイプ。知ってはいる。知ってはいるけど、幼稚園児の秋凪には言えない。言えるはずもない。
「……動物好きな人、かな」
色々考えて、天夏は当たり障りのない答えを出した。間違ってはいない。動物が嫌いな人とは折り合いが悪いはずだから。
「動物が好きなの?」
「ええ。家で猫を飼ってるからね」
「そうなんだ!」
秋凪は明るい笑顔を見せる。
(……こんな無垢な子に言えない。瀬輝の本当の好きなタイプが、胸の大きい人だって……)
人の好きなタイプにケチを付ける気はない天夏だが、子供に言えるようなタイプだったらよかったなと苦笑いを浮かべながら思う。ありきたりではあるが「優しい人」とか「面白い人」とか。
だが、今はそんなことよりも秋凪に伝えなければならないことがある。
「秋凪。このこと、お兄ちゃんには内緒ね」
「どうして?」
「うるさいからよ」
天夏の言葉を耳にした秋凪は、天夏と冬也がたまに小さな言い合いをしていることを思い出した。そこには必ず哉斗の名前が出てくる。
なぜ兄が必死になって姉と彼氏のことに口出しするのかは、分からない。ただ、今日のことで恋が関係しているということは分かった。
あんなことにならないようにする為だと、何となく理解する。
「だから、このことはお兄ちゃんには秘密。いいわね?」
「うん、わかった!」
秋凪は屈託のない笑顔を見せた。〝秘密〟という言葉が、心をワクワクさせる。
ふと気が付くと、口の中の飴玉がなくなっていた。
甘さが消えてしまわないように味わいながら、秋凪は瀬輝とまた会える日を夢に見る。