名前の呼び方
夜も更け、周辺が静まり返った頃。朱李は受験勉強を中断し、ちすずと電話で話していた。今度のデートの日時を決めるためだ。
「じゃあ日曜日だね。ちょっとしか会えなくてごめんね」
「謝らないで。湊琉くんは受験を控えてる身なんだから」
「そうだね。ち──夜桜さんの声が聴けてよかった」
「私も。勉強頑張ってね」
「うん、頑張る……! ありがとう」
「おやすみ」
「おやすみー」
朱李は、一拍置いてから電話を切った。直後、大きなため息が室内に響く。
「……また下の名前で呼べなかった……」
言葉を吐き出し、ベッドに横たわる。
最近朱李は、もっと仲を深めたいという思いで、ちすずを下の名前で呼ぼうと何度か挑戦していた。しかし、直前で緊張し、いつも失敗に終わっている。
「情けないなぁ……」
覇気のない声を出し、手に持っていた携帯電話の液晶画面を見る。待ち受け画像として設定している、ちすずとのツーショット写真が気持ちを刺激する。
「……ちすず」
そっと口にした名前が静かに耳に入ってくる。次第に恥ずかしくなり、勢いよく起き上がった。
「勉強しよ」
朱李は顔を赤く染めたまま机に向かい、机上に広げた参考書やノートを使って勉強を再開した。
日曜日。
朱李は受験勉強の合間の数時間だけ、ちすずと会っていた。初めて待ち合わせをした公園のベンチに座り、他愛もない話をしている。
「──で、その後兄ちゃんとゲームで勝負したんだけど、全然勝てなくてさ」
「お兄さん強いんだね」
「強いよ! しかも手加減してくれなくてさー」
「いつか勝てるよ」
「そうかな?」
「うん。応援してる」
そう言ってもらえるだけで、兄に勝てるような気がした。いつかは連勝して見返してやりたいとも思う。
「そうだ、湊琉くんに渡したいものがあるんだ」
思い出したように言ったちすずが、カバンの中から白い小袋を取り出した。表には神社の名前が書かれてある。
それを受け取った朱李はお礼を言い、開封する。出てきたのは、朱色の合格祈願のお守りだった。
「いいの?」
「うん。課程は違うけど、同じ学校に通いたいからさ」
「ありがとう!」
朱李は溢れ出す嬉しさを表情に現す。
同時に、今なら名前を呼べそうだと思えた。しかし、いきなり呼んだら失礼ではないかと心配になった。
「あの、夜桜さん」
「何?」
「えっと、あの……夜桜さんのこと、下の名前で呼んでいい?」
「え?」
ちすずの驚いた顔を見た朱李は慌てた。
「あ、嫌だったら今まで通りの呼び方にするから……!」
「ううん、嫌じゃないよ」
「本当……!? じゃあ、今、呼んでいい……?」
「いいよ」
曇りのない笑顔を見せてくれている姿に安堵し、深呼吸をする。ついでに周りに誰もいないかさりげなく確認する。少し遠くの方に子供たちがいるだけだった。
朱李は心の中で「よし」と心を決め、体ごと彼女の方を向く。
「ち、すず……」
「はい」
少し上擦った声はしっかりと届いたようで、返事をしたちすずが照れ笑いを浮かべて見つめてきた。その視線に加えて、面と向かって名前を呼べたことが恥ずかしさを連れてくる。
朱李は真っ赤になった顔を両手で覆い隠した。
「どうしたの?」
「いや、何か恥ずかしくてどうしていいか分かんなくて……」
「そっか」
隣から聞こえる小さな笑い声を耳にしながら、指の隙間からちすずを見る。照れているけど、どこか嬉しそうな表情が胸を高鳴らせる。
朱李はゆっくりと両手を膝の上に置いた。
「何か、ちすず……のこと、下の名前で呼ぶの不思議な感覚」
「呼ばれるのも不思議な感覚だよ。あ、それじゃあ私も〝朱李くん〟って呼ぶね」
「へっ!?」
思ってもみない言葉に心臓が飛び跳ねた。バクバクと体中が脈を打つ中、嬉しさが湧き上がってくる。しかし、声を出して反応する余裕はなく、頷くので精一杯だった。
(これでまた勉強頑張れる……!)
朱李は顔を緩ませ、くすぐったい感覚に浸った。




