律弥のマグカップ
「いっちー、おはよ!」
「おはよ」
咲季は自分を待ってくれている稜秩にいつものように挨拶をしたつもりだった。
石段の掃き掃除をしている八保喜にも挨拶をし、二人で歩き出す。
「咲季、元気なさそうだな」
思わぬ一言に咲季はドキッとした。鋭い、と稜秩を見上げる。
「……そう、見える?」
「見える。いつもと何か違う」
「えへへ……」
咲季は力なく笑うと、静かに話し出した。
それは昨晩のこと。
咲季がリビングでテレビを観ていると、キッチンの方で何かが割れる音が響いた。慌ててキッチンに向かうと、母が床に散らばった陶器を拾い集めているところだった。
「お母さん、大丈夫!?」
「うん、私は大丈夫……でも……」
歩乃は悲しげな目で手元を見ていた。割れた陶器は、咲季が律弥の誕生日にプレゼントとして贈ったマグカップだ。それは律弥のお気に入りで大切にしているものだった。
「ごめんね、せっかく咲季がプレゼントしたものなのに……」
「ううん、気にしないで」
母を慰めながら咲季も割れたマグカップを一つずつ拾い上げ、細かい破片は箒でかき集めた。
そこへ風呂から上がった律弥がやってきた。
「どうしたの?」
「律弥さんごめんなさい……! 律弥さんのマグカップを、割ってしまって……」
「えっ……」
無惨な姿になったマグカップを目にした律弥は、かなり動揺していた。それは歩乃にも咲季にも伝わるほど。
しかし律弥はそれを隠すように必死に笑った。
「わ、割れちゃったものは仕方ないよ……! それより、怪我してない?」
「それは大丈夫……」
「なら、良かった」
引き攣った笑顔を見せる律弥は「ちょっとトイレ〜……」と言いながらリビングを出て行った。
すると、普段そんなことはしないが律弥のことが気になった咲季は申し訳ないと思いつつ、その後をこっそりついて行く。
律弥はトイレの前を通り過ぎ、自分の部屋に入った。
部屋のドアが閉まるのを確認してから咲季は音を立てないように部屋の前に行き、ほんの少しだけ開けたドアの隙間から中を覗く。
律弥は、ベッドに座って項垂れていた。独り言を言うこともなく、ただそうしている。
「……」
咲季は父の落ち込む姿を見て胸を痛めると同時に、それを見てしまった罪悪感に苛まれ、静かにドアを閉めた。
夜が明けてからも歩乃と律弥の間はどこかギクシャクしていた。
その様子を見た咲季は、居た堪れない気持ちになった。
「それはまた、キツイな……」
「うん。どうしたらいいのかなってずっと考えてて……」
「同じものって売ってないのか?」
「六年前のものだからないと思う」
「そうか……じゃあ新しいものを買ったらどうだ? 歩乃さんと一緒に相談してさ」
稜秩の提案を聞いた咲季は立ち止まった。その表情は次第に晴れていく。
「そうだね! その手があったね!」
何で気付かなかったんだろうと、咲季は表情をさらに明るくする。
稜秩はそれを見て微笑ましく思っていた。
その頃、家では歩乃が一人、内職のアクセサリー作りをしていた。今はミサンガを編んでいる。しかし、その作業はあまり捗っていない。
(私はなんてバカなことをしたのかしら……うっかり手が滑ったとはいえ割ってしまうなんて……それに律弥さんと顔を合わせると何となく気まずいし……)
歩乃は深いため息をついた。
その時、咲季からメールが届いた。開いて見ると《今日は授業が終わったらすぐに帰るから、その後一緒にお父さんのマグカップを買いに行こう!》と書いてあった。
それを読んだ歩乃は自身を恥じた。立ち止まってぐるぐる考えていたって意味がない。自分から動かなくては。
そして歩乃は《うん。買いに行こう。お母さんが車で迎えに行くから、終わったら連絡してね。》と返信をした。
十五時三十分を少し過ぎた頃、咲季から授業が終わった旨を伝えるメールが届いた。既に出掛ける準備を整えていた歩乃は車に乗り、咲季が通う学校を目指して走る。
校門前で待つ咲季を車に乗せて、そのままショッピングモールに向かった。
雑貨が売られている店を何軒か見て周り、律弥が気に入りそうなマグカップを探す。
しかし、ピンと来るものが全くない。
「探しても全然見つからない時ってあるのね……」
「だねぇ」
歩乃は困ったような表情をしている。しかし、そこに諦めの色はない。
次に入った雑貨屋でもじっくりと品を見ていく。お洒落なティーカップやグラスなどがたくさん並んでいる。
「──あっ」
その時、咲季と歩乃の声が重なった。
二人の視線の先にあるのは透き通った柘榴色のマグカップ。それを歩乃が手に取る。
律弥が愛用していたものと同じくらい持ちやすく、安定感のある寸胴型。そしてどの角度から見ても透明さに曇りはなく、綺麗に輝いている。それはまるで宝石のよう。
(この色、律弥さんが好きな色だ)
歩乃は、ふと咲季を見た。目が合うと二人は同時に微笑む。
「これに決まりだね!」
「うん。咲季、ありがとう」
歩乃はマグカップを大事そうに抱えてレジに向かった。
その日の夜。
時計が二十時を回ろうとした時、律弥が帰宅した。歩乃はリビングに来た律弥に「おかえりなさい」と声を掛けて歩み寄った。
「律弥さん、昨日はごめんなさい」
「謝らなくていいよ。わざとじゃないんだし」
そう言う律弥の表情は今朝に比べて少し和らいでいた。歩乃は胸を撫で下ろし、買ってきたマグカップを入れた紙袋を差し出した。
「それでこれ、喜んでもらえたらなと思って……」
「えっ」
律弥は突然目の前に現れた紙袋を受け取り、その中から包装された箱を取り出す。包みを綺麗に剥がすと、白い箱が現れた。箱を開け、何かを包んでいる紙を広げる。
「……」
綺麗な輝きを放つマグカップを見た瞬間、律弥は目を見開いた。まじまじと見つめるその目はキラキラと光っていて、嬉しそうに見える。
「咲季に〝一緒にマグカップを買いに行こう〟って言われて色々探したの。その時にこのマグカップを見つけて〝これだ!〟って思って。色も律弥さんが好きな色で──ってどうしたの!?」
話している最中に涙を流す夫を見て、歩乃はあたふたする。また何かしてしまったのかと不安になった。
すると、律弥が泣きながら笑った。
「嬉しくて……歩乃、咲季、ありがとう……!」
お礼を言う律弥の目から大粒の涙が溢れた。
歩乃も目に涙を浮かべて笑う。
その両親の姿を見つめる咲季はほっとしていた。
後日、律弥が自身のラジオ番組で「最近泣いたこと」としてこの出来事に触れた。それは瞬く間に全国に知れ渡り、大きな反響を呼んだ。




