止まらない
英語の教科担任である並街の綺麗な英語の発音とチョークで板書する音が聞こえる中、天夏はシャープペンシルを握ったままノートを凝視して呼吸を止めていた。
数秒間そうした後、静かにゆっくりと息を吐く。その途中でしゃっくりが出てしまい、「ひっく」という小さな声が漏れた。
このしゃっくりは授業が始まった直後から出ていた。最初はすぐに治るだろうと思っていたが、全くそんな気配はなく今に至る。
クラスメイトたちの視線が徐々に自分に集まっているのを感じながら、天夏はまた肺いっぱいに空気を貯めて息を止める。
「……」
限界まで止め続ける。顔が熱くなり、息も苦しくなる。これくらい呼吸を止めていたらきっと大丈夫だろうと息を吐こうとした時。
「ひぁっ……!!」
しゃっくりと同時に出た変な声が教室中に響いた。咄嗟に両手で口元を押さえる。全員の視線が一気に集まったのを痛いほど感じ、恥ずかしさが込み上げる。
「憂浠さん」
授業を一旦止め、並街が天夏の名前を呼んだ。
天夏は真っ赤な顔を並街の方へ向ける。
「しゃっくりが治るまで保健室にいなさい。その状況だと勉強どころじゃないでしょ」
「はい……」
天夏は机の中に置いていた携帯電話をさりげなくスカートのポケットに入れ、誰とも目を合わさずに静かに席を立つ。
教室を出ると、他のクラスの教室から聞こえてくる先生や生徒たちの声を耳にしながら足早に廊下を歩く。ここでしゃっくりは出ないでほしい。天夏はそれだけに集中していた。
「ひっく……!」
その願いも虚しく、出てきてしまったしゃっくりに思わず口元を手で覆い、小走りで教室の前を横切る。
階段の前で止まると一息つく。それでも尚、しゃっくりは止まらない。
自分の足音だけが響く階段を降りて保健室へ向かう。
保健室のドアを開けようとしたが、ドアには《先生不在。用件のある生徒は教室まで来てください。》と書かれた札が下げられている。
「嘘でしょ……こんなっく……時に……」
天夏は職員室に行こうかと一瞬考えたが思い止まる。こんな状態で職員室に行きたくないし、教室にも戻りたくなかった。
「……」
それならどこかでしゃっくりが止まるのを待つしかない。天夏は階段横に置かれた掃除用具入れなどの物陰に隠れ、携帯電話でしゃっくりを止める方法を調べる。
まず最初に目に止まったのは、耳に指を入れる方法。両耳の穴に人差し指を入れて三十秒ほど押さえ続ける。それを何度か繰り返しやってみたが、効き目はなかった。
次に試すのは水を飲む方法。天夏は床置き型の冷水機が設置してある生徒玄関に向かう。
辺りに誰もいないか見回し、冷水機の水を口に含む。しかしその最中にしゃっくりが出て水が気管に入ってしまい、涙目で咽せる。
「全然効果ないじゃない……」
天夏はため息混じりに言葉を吐いた。他にも一人で出来る対処法を試したが、全て効果がなかった。
「ひっく……」
この一時間で止まらなかったらどうしようかと考える。
(早退する? でも次の授業は家庭科で哉斗が好きなチーズケーキ作るし、作ったケーキを哉斗にあげる約束してるし……早退は絶っっっ対に嫌)
強くそう思うと、苛立ちが僅かに顔を出した。
「……調理実習の時間までに止まらなかったら一生恨んでやるわ……」
しゃっくりに対してブツブツと言いながら、天夏は生徒玄関の隅に置かれている長椅子に腰掛けた。
(ここなら誰か来ても物陰に隠れて見えないでしょ。外に近いから多少しゃっくりが出ても気にならないと思うし)
皆が授業を受けている中、自分は校内を歩き回って今はこの場所にいる。それが何だか悪いことをしているような気がして少し楽しくなっていた。
玄関から見えるグラウンドの方に目を向けると、そこでは一年生の男子がサッカーをやっている。
(サッカーかぁ。そういえば、哉斗も今日体育でサッカーやるって言ってたわね)
天夏はじっとその様子を見る。楽しそうにしている人、ちょっと退屈そうにしている人、敵チームがいつ来てもいいように自チームの陣地でボールの行方を追っている人。色んな人がいる。
「……ひっく」
「憂浠さん?」
「はいぃ!!」
突然声を掛けられ、天夏は咄嗟に立ち上がる。鼓動が一気に速まった。振り返ると、校長の七原が立っていた。シワ一つない服に身を包む彼女の凛とした佇まいは、見る度に気が引き締まる。
「こんなところで何をしているんですか?」
七原は責め立てることなく優しく問い掛けてきた。それに少し安心した天夏は事情を説明する。
その間、七原は真剣に話を聞いていた。
「そうでしたか。まあ、皆さんの授業の邪魔にならなければ大丈夫でしょう。早くしゃっくりが止まるといいですね」
「は、はい」
そう言い残し、七原は立ち去った。
「…………びっくりしたぁ……」
その姿が見えなくなると天夏は大きく息を吐いた。
(見回りかしら……急に来てびっくりしたわ。でも「教室に戻れ」とか言われなくてよかった)
まだ騒がしい心臓を落ち着かせるように呼吸を整える。
「……ん?」
天夏はふと、しゃっくりに意識を向ける。
「……」
とりあえずしゃっくりが出るかどうか待ってみる。しかし、しゃっくりは一向に出てこない。天夏は確信した。
「止まったぁ……」
力が抜けたように長椅子に座る。
(多分、校長先生がいきなり話しかけてきてびっくりしたから止まったのよね……? 校長先生には感謝しかないわ)
ゆっくりと立ち上がると、授業終了を知らせるチャイムが鳴った。そのタイミングの良さに微笑む天夏は足取り軽く教室へ向かう。
生徒たちの声が響く階段を上り、廊下を進む。もうすぐ教室に着くというところで、心配そうな表情をした咲季が教室からひょっこり顔を見せた。目が合うと同時に咲季が近づいてきた。
「天夏、大丈夫?」
「ええ大丈夫よ。もう止まったから」
「よかったぁ」
安心していつもの柔らかい笑顔を見せる咲季の様子に天夏は嬉しくなった。胸が温かくなる。
「じゃあこれで調理実習に専念できるね!」
「そうね」
クラスメイトたちが調理実習で使う道具を持って家庭科室に移動する中、天夏も準備をする。
「天夏、行こう!」
「ええ」
「ひっく」
「え?」
「え……?」
天夏と咲季は顔を見合わせる。少しの沈黙の後、咲季の口から「ひっく」という音が出た。天夏の顔が引き攣る。
「今度はあたしがなっちゃったね……ひっく」
「何かごめん……」
「謝らないで。しゃっくりって人に移るわけじゃないし、きっとすぐにっ……治るよ」
「そうだといいけど……」
天夏は心配と申し訳なさでいっぱいだった。
(人に移らないのは分かるけどタイミング的に罪悪感を感じちゃうわよ……咲季にまであんな恥ずかしい思いをしてほしくないし)
気に病む天夏だったが、幸いにも咲季のしゃっくりは家庭科室に向かっている途中で止まった。
心から安堵した天夏は家庭科室に着くなり張り切って調理実習の準備をし、授業が始まれば咲季たちとともに楽しそうにチーズケーキを作り始めた。




