親父とお父さん
広々と立派な佇まいを見せる日本家屋。その壮観さも然る事乍ら、庭園もまた美しい。綺麗に刈り込まれた植え込み。四季折々の木々や花。青空を鏡のように映し出す池。池中を泳ぐ鯉。規則的に聞こえてくる鹿威しの音。それらが一層、侘び寂びを感じさせる。
池畔で鯉に餌を与えつつ、周辺の草むしりをするのは、お手伝いさんである羅畑八保喜だ。たまに鯉に話し掛ける姿は、三十代前半の男性とは思えない程の老人くさいものがある。
その彼に目もくれず、稜秩は縁側に座って本を読んでいた。分厚い本の半分程までページをめくり、並べられた文字を目で追い掛ける。そうしていると、離れた場所から此方に向かって足音が近付いて来る。歩幅は大きく、ゆっくりとした足取り。それが誰のものなのかすぐに判別出来た稜秩は、きっと自分の元へ来るだろうと思いながら、本に目を落とし続ける。
案の定、足音は自分のすぐそばで止まった。
「稜秩、その本を読むのもいいけど、こっちの本で読み合わせしない?」
頭上から聞こえた第一声がそれだった。
顔を上げると、自分と似通った顔があった。銀色の髪、青い瞳。それらが、自分は父親似なんだと教えている。
城神ルビンは稜秩の父親であり、俳優を生業とする人だ。芸能活動をする時はルビン・シアレという、旧姓で仕事をしている。
その父が今手にして見せているのはドラマの台本だ。台本を貰ってくると、たまにこうして読み合わせに付き合わされる。
「素直に付き合えって言えばいいだろ」
目を通したページにしおりを挟み、本を閉じながら稜秩は言った。
「ありがとう。はい、これ」
ルビンから差し出された台本を受け取った稜秩は表紙に記載されたドラマのタイトルを見た。以前にも見たことのあるタイトル『探偵ナナミさん2』。
「そういえばこれ続編やるってこの前テレビで言ってたな」
「前作が結構評判良かったからね」
そのドラマはルビン主演の探偵ドラマだ。前回の人気ぶりに、第2シリーズが放送されることが決まったらしい。
「咲季、すげー喜んでたぞ。このドラマ好きって言ってたし」
「ありがたいことだよね。まぁ今回はもっと喜んでくれると思うけどね」
「……どういう意味だよ」
「いずれ分かるよ」
「……」
優しく微笑むルビンの言葉がどういう意図を示しているのか考えていると、ルビンが隣に腰掛けた。
「さてと、読み合わせの話に戻るけど……今日は7ページの依頼者が事務所に来るシーンね」
「7ページ……」
ルビンに言われた通り稜秩は該当ページを開き、父を見る。
思わず、ぞくっとした。
今目の前にいるのは、父の城神ルビンでも俳優のルビン・シアレでもない、第三者である探偵ナナミ。一瞬のうちに第三者になる彼を見る度、身震いするほど感心させられる。
(親父、本当にすげーな……)
胸中にそんな思いを抱きつつ、稜秩は依頼者や助手のセリフ、ト書きを読み上げる。それに対して彼は、セリフを一言も間違えず身振り手振りを加えて応えた。
台本を貰って日が浅いはずなのに、短いセリフも長いセリフも全て頭の中に入っている。読み合わせなんて必要ないんじゃないか、と毎回思うがこのやりとりを楽しみにしている自分がいる。
彼の演技に見惚れ、高揚する気持ちが緊張感を連れてくる。
「……うん、いい感じだね」
落ち着いた口調で言ったのは、いつもの父だった。どうやってオンオフの切り替えを瞬時にしているのか、不思議に思う。
「クランクインはもうすぐなのか?」
「一週間くらい先だよ」
父の話を聞きつつ稜秩は台本をペラペラとめくり、何気なく登場人物のページを見た。レギュラー陣は前作同様の顔ぶれだった。大物俳優に、今人気の若手俳優、サスペンスドラマによく出る女優。それぞれの名前がある中、稜秩はよく見知った身近な名前を見つけた。
采之宮律弥は最小限の荷物だけを鞄に詰め、部屋を出た。
キッチンで洗い物をしている妻に出掛ける旨を伝え、玄関へと向かう。
なるべく音を立てずに靴を履いていると、階段を降りてくる足音が聞こえ、心臓が飛び跳ねる。
「お父さん、どこか行くの?」
階段を降りながら咲季は問うた。
近付いてくる娘をゆっくりと視界に入れる。その額からは冷や汗が流れる。
「あ、ああ、ちょっと、ね……」
「そっか。あたしもこれからいっちーのところに本を返しに行かなきゃいけないから一緒に行こう」
「へっ!?」
本を片手に歩み寄って来る咲季の誘いを受けた律弥の体から、大量の汗が噴き出る。
その様子に咲季が気付く。
「お父さん、汗すごいよ。大丈夫?」
「あ、ああ、大丈夫……! ちょっと暑くてなー……ははっ……」
ずれ落ちたメガネを掛け直す父の言葉に、特別疑問を抱くことなく納得した咲季は靴を履く。
「ところで、お父さんはどこに行くの?」
「……咲季と同じところ……」
「そうなんだ! ちょうどいいね!」
「そ、そうだね……」
律弥は顔を引きつらせて無理矢理笑顔を作った。そして、二人揃って家を後にする。
咲季は隣を歩く父をちらりと見、久し振りにこうして一緒に歩くなーと思った。
律弥は〝弥生〟というコンビ名で活躍しているお笑い芸人だ。漫才を主体としたネタでボケを担当している。以前はお笑い番組でネタを披露することが多かったが、今はそれに加えてコンビとしての冠番組を持ったりバラエティー番組の司会を務めたりと、人気は不動のものとなっている。因みに、八保喜はこのコンビのファンである。
そして律弥とルビンは、咲季たちが生まれるよりも前から親交があり、家族ぐるみで仲が良い。
「このドラマ、律弥さんも出るんだ」
驚きで登場人物のページから目を離さず、稜秩が言った。
「そう、第一話のゲストで依頼者役。しかもこの作品でドラマデビューなんだ」
「へぇ」
相槌を打ちながら稜秩は、先ほどルビンが言った言葉の意味を理解する。自分の父親が好きなドラマに出演するんだから、そりゃあ喜ぶだろうなと心の中で頷いた。
「だから今日、芝居の稽古として律弥くんが来るんだ。そろそろだと思うけど」
「咲季にはドラマに出るって言ってんのかな?」
「一話の予告が放送される直前に言うって言ってたよ。それまでは内緒でって」
そう話していると、家の呼び鈴が鳴った。
八保喜が玄関先にある門まで駆けて行く。
「来たみたいだね」
八保喜の姿を目で追い掛けながらルビンが言う。
稜秩もその方向へ目を向けた。しばらく見ていると、少しばかり大きい高麗門を潜ってきた律弥と咲季の二人の姿が見えた。
「……なぁ親父。咲季も一緒にいるぞ」
「あれ? バレちゃったのかな?」
少し困惑したような顔をしながら、ルビンは玄関の方へ行く。
後をついて行かない方がいいと思った稜秩がその場に残っていると、咲季が駆け寄って来た。
稜秩は手にしていた台本を体の後ろに隠す。
「いっちー、本返しに来たよー」
「もう読んだのか?」
「うん。すっごく面白かったから早く読み終わっちゃった!」
子供たちが話している中、玄関では父親同士がコソコソと話していた。
「咲季ちゃんにバレたの?」
「いや、バレてはないです。稜秩くんに本を返しに行くっていうことで一緒に来ただけです」
「そうなんだ。それにしても、汗ひどいね」
「いつ気付かれるかヒヤヒヤしてて……」
律弥は手で汗を拭う。だが緊張のせいか、次から次へと汗が流れていく。
「律弥くんはすぐに顔に出るから分かりやすいよね」
ルビンはクスクスと笑う。
「そんなに、分かりやすいですか……?」
「うん。とってもね。気付かれるのも時間の問題かも」
その言葉に律弥は小さく溜め息をついた。
「さ、こんなところで立ち話も何だから、私の部屋へ行こう」
「あ、はい」
ルビンは律弥と共に自室へ行こうと歩き出す。
その途中、咲季たちと鉢合わせた。咲季がルビンに駆け寄る。
「ルビンさん、また『ナナミさん』やるんだよね!」
「そうだよ。楽しみかい?」
「うん!」
愛娘と言葉を交わすルビンの後ろで、その顔を見ないようにと視線を逸らし続ける律弥。体がそわそわしている。
(律弥さん、分かりやす……)
その様子を見て稜秩は苦笑を浮かべた。
「お父さん、本当に大丈夫?」
声に反応して娘を見ると、心配そうな表情をして此方を見上げていた。律弥は何か見抜かれているのではないかと挙動不審になる。
「だ、大丈夫……大丈夫……」
「でも、汗がひどいよ」
「暑いから……」
目を泳がせながらも必死に取り繕う律弥。しかしその言動が、咲季の心に引っ掛かりを齎す。
そんな親子のやりとりを見兼ねたルビンが口を開いた。
「……律弥くん、もういっそのこと言ってしまえばいいんじゃないかい? そうすればキミも楽だろうし、何より咲季ちゃんが心配している」
「……」
律弥はルビンから咲季へと視線を移す。憂わしげな目と目が合った。
「……」
娘にいらぬ心配を掛けまいと、律弥は決意する。
「咲季……あのさ……」
「うん」
「ルビンさんのドラマ、あるでしょ……? 『ナナミさん』……」
「うん」
「あれにさ……お父さん、出るんだ」
「……あ、そうなんだ。すごいね!」
咲季はいつもと変わらぬ笑顔を見せた。
飛んだり跳ねたりして喜ぶかと想定していたが現実はそれと異なり、律弥は唖然とする。
気を取り直して、話を続ける。
「おっ、お父さん、咲季の好きなドラマでドラマデビューするんだよ……! 嬉しくないの……?」
「嬉しいよ! ドラマでルビンさんと共演できるのもすごいよね!」
「う、うん……そうだね、すごい、よね……」
軽くショックを受けた律弥は落胆の色を見せる。
そんな律弥にルビンが優しく声を掛ける。
「まあ、喜んでくれてるんだからいいじゃないか」
「そう、ですね……」
「そうとなれば練習しようか」
「はい」
ルビンは稜秩から台本を受け取り、律弥を連れて居間へ行く。芝居の練習を隠す必要が無くなった為、ルビンはその場所を選んだ。
残された二人は稜秩の部屋へと向かう。
「咲季、意外にリアクション薄かったな」
「何の?」
「律弥さんがドラマ出るって話した時だよ」
「そんなに薄かったかな?」
「もう少し嬉しがると思ってた」
「嬉しかったよ。でも、安心した気持ちの方が大きかった。お父さんに何かあったんじゃないかって心配してたから」
「……そうか」
稜秩は微笑んで、咲季の頭を優しく撫でた。
しばらく稜秩の部屋で雑談を交わしながら寛いでいたが、咲季は父のことが気になり始めた。
部屋を出て広い廊下を静かに歩いて居間へ進む。
一歩一歩近付くごとに、律弥とルビンの声がはっきりと聞こえてくる。
邪魔をしないようにと、障子の陰からちらりと二人の様子を見る。律弥は慣れない芝居に苦戦しつつも、ルビンからのアドバイスを真剣に聞いていた。
普段テレビの中では人を笑わせるために真剣に漫才をしたり、番組を盛り上げる為に積極的に出演者に話を振ったり、自身のトーク力を上げる努力をしている父だが、新しいジャンルの仕事を貰ってそれに真剣に向き合っている姿は、いつも以上に格好良い。
「律弥さん、頑張ってるのう」
小声でそう声を掛けてきたのは八保喜だった。咲季と同様、障子の陰に隠れて様子を伺っている。
「うん。あんなに真剣なお父さん、初めて見た」
「やっぱり、咲季ちゃんの好きなドラマに出るってなったからには気合が違うんじゃないかのう」
「そうなのかな?」
「ああ。きっとそうじゃ。ドラマ、早く観たいのう」
「うん」
返事をして咲季は父へと視線を注ぐ。まだどこかぎこちなさが残る芝居。それがこれからどう変化していくのか、咲季は今から楽しみだった。