土砂降りは、過去を思い出させる
近所のスーパーマーケットで買い物を済ませた八保喜は、家に帰ろうとしていた。しかし、外は土砂降り。
「あちゃー、傘無いのに……小雨になるまで待つかのう」
独り言を呟き、八保喜はエントランスに設置されたベンチに腰掛けた。ガラス越しに見える外は、激しく降る雨のせいで視界が悪くなっている。
(……そういえば、ルビンさんの家に来た時も、こんな天気だったのう)
それはまだ、八保喜が十代の頃。
八保喜の家庭はお世辞にも裕福とは言えない家庭だった。父も母も働き、やっと生活が出来ているような状況。それでも八保喜は楽しく暮らしていた。
しかし、八保喜が中学校に入学してから暫くして、母が病気で他界した。すると、父は人が変わってしまったように働かなくなり、今までやったことのないギャンブルに手を出した。貧しかった生活はより貧しくなった。
その生活から抜け出す為、八保喜は高校への進学を諦め、中学校卒業後は飲食店でアルバイトとして働き始めた。
だが父は相変わらず働かず、次々ギャンブルや酒に手を出し、挙げ句の果てには借金を作ってきた。八保喜が働いて作ったお金はそこで消えた。さらに、家のどこかにお金を隠しても、父はそれを見つけて使っていた。
そんな生活が続いていたある日。アルバイトを終わらせた八保喜は、明日のシフトを確認しようとした。
「……あれ……?」
しかし、シフト表が貼られているはずの場所には何もない。辺りを探すが見つからない。困惑していると、店長がやって来た。
「店長、あの、シフト表はどこですか……?」
「ないよ」
「……どういうことですか……?」
「みんな、明日から店に来なくていいってこと」
「どうしてですか!?」
「今日でこの店終わりだから」
「そんな突然──」
「まあ、しょうがないよ。大人の事情だからさ。はい、今月働いた分の給料」
店長は軽い口調で現金の入った茶封筒を手渡してきた。少し厚みのある封筒。来月貰えるはずだった給料。
「お互い、頑張ろうねー」
へらへらと笑う店長は八保喜の肩をポンと叩くと、仕事場に戻っていった。
「……」
あまりの突然のことに、八保喜は呆然とした。
(今日でこの店終わりって、俺、明日からどうすればいいんだよ……)
八保喜は頭を悩ませたまま、茶封筒を手にして家に帰った。
「……えっ……?」
自宅前に着いた瞬間、八保喜は自分の目を疑った。外に出された少量の家具に、玄関のドアに貼られた差し押さえの紙。
それらを目にした八保喜の手から、持っていた茶封筒がポトリと落ちた。
「何……これ……」
八保喜の頭は混乱するばかりだった。
(差し押さえって何……? 何で家の物が外に出されてるの……? 一体、どういう状況なの……?)
「帰って来たか」
背後から聞き覚えのある声がした。振り返ると、ズボンのポケットに両手を突っ込んだ父がいる。
「父さん、これって……」
「見ての通りだ」
「ねぇ、家は……!? これどういうこと……!?」
「だから、見ての通りだ。もうここには住めねぇんだよ」
「そんな……じゃあ、どこに住むんだよ……!!」
「自分で考えろ」
父はそう言うと、背を向けて歩き出した。
「どこ行くんだよっ……!!」
「……」
八保喜は父の背に向かって言葉をぶつけた。しかし、父は何も言わず歩き続ける。
「……」
父を追い掛けてはいけない。そう思った八保喜はその場にへたり込んだ。
(仕事も家も無くなって……俺にどうしろって言うんだよ……俺は、どこに行けばいいんだよ……)
八保喜は落としてしまった茶封筒に静かに手を伸ばし、掴んだ。そして異変に気付く。お札で厚いはずの封筒は薄っぺらく、小銭の音だけが響く。慌てて中身を確認する。
「ウソ!? 何で!?」
封筒の中にお札は一枚もなく、小銭のみが入っていた。
「ここに来るまでちゃんとあったのに……!!」
慌てふためく八保喜だが、ふと察した。父の仕業だと。
(俺が封筒落とした時、背後から忍び寄ってお札だけ抜いたんだ……)
そう理解すると、ため息すら出ない八保喜は封筒を逆さにして小銭を手の平に出した。残金は四百九十七円。これでどう生活していこうかと頭を抱える。
何気なく小銭から視線を外し、辺りを見回す。玄関前に置かれた棚の上にある母の遺影と位牌が視界に入った。遺影の母は、優しい笑顔を見せている。
「母さん……」
溢れて来る涙を拭い、八保喜は遺影と位牌をタオルに包んでリュックサックの中へしまった。それを背負い、歩き出す。
雨が降ってきても良いように屋根が付いているベンチに腰掛け、コンビニエンスストアで買った安い駄菓子一つをちびちびと食べる。なるべくゆっくりと食べ、空腹を紛らわせた。
そして夜も更け始めた頃、その場で眠った。
翌日から八保喜は行動に出た。まずは仕事を見つけるために、幾つかのアルバイトの面接に行った。しかし、全て採用してもらえなかった。
「……」
普段は特に目も向けない夜空の星を見上げた。暗い空間に散りばめられたそれは、どれもやけに眩しく感じられた。
そして貯金は元々無いため、お金はすぐに底を突いた。
食べ物を求めて鳴く腹を水道水で満たし、八保喜は理由も当ても無く歩き出した。足元だけを見て歩くことに集中していると、不安も空腹も忘れることが出来た。
最初は見知った風景ばかりだったが、気付けば見知らぬ住宅地が広がっている。どうやら遠くまで来てしまったようだ。
すると、雨が降って来た。
最初は小振りだったが段々雨粒が大きくなり、土砂降りになった。
「……」
何気なく空を見上げた時、視界が揺らいだ。次のことを考える前に、体に冷たく濡れたアスファルトの感触が伝わってくる。目の前にそれがあることで、自分は倒れたのだと理解した。体を起こそうにも力が入らない。
次第に、意識が遠退く。
(もう……無理だ……俺……このまま……)
そこで、八保喜は意識を失った。
目を開けると、初めて見る幼子の顔が自分を見下ろしていた。電気の光で輝く銀色の髪に、青い瞳。
(……透き通った青色……すげー綺麗……海みたいだ……)
八保喜は幼子の瞳に見惚れていた。しかし。
「いででででで……!!」
突然、両頬に痛みが走る。その原因は目の前にいる幼子だ。八保喜の体の上に乗っかっている彼に、思い切り頬を引っ張られている。
すると、部屋を仕切っていた障子が開かれた。
「稜秩……!!」
痛みを訴える声を聞いて、慌てて部屋に入って来た女性が八保喜の上に乗っかる稜秩という子供を抱き抱えた。
「ごめんなさい、痛かったですよね……!」
「あ、いえ……」
八保喜は小さく答えながらゆっくりと起き上がる。そうすると、子供を叱る女性の背後にいる長身の男と視線がぶつかった。幼子と似た顔立ち、銀髪、青い瞳。一目で外国人だと認識する。
(ちょっ、外国人!? 俺、英語無理なんだけど!!)
「具合はどうですか?」
(日本語ペラペラですかっ!?)
日本語で話しかけてきた外国人男性に驚きつつ、八保喜は「具合、は、いいと、思います……」と小さく返した。
「それは良かった。キミ、この家の前で倒れていたんだけど、この辺りの人ですか?」
「いえ、俺は──」
男性の問いに答えようとしていた時、八保喜の腹の虫が鳴いた。
「……」
するとその場は静まり返り、八保喜は顔を真っ赤に染める。
(これ、すっげー恥ずかしいやつじゃん……! どんだけでかい音で腹鳴るんだよ……!!)
一人で恥ずかしがっていると、お椀に盛られたお粥が目の前に出された。それを両手で差し出す女性と目が合う。
「お粥作ったので食べてください」
「いっ、いえ……! そんなお気遣い──」
そう言っている最中に、また腹の虫が鳴く。
「遠慮しないでください。あまり食べていなかったんじゃないですか?」
「……」
八保喜はお粥に目線を落とし、お椀を受け取った。
「……いただき、ます……」
湯気が立つお粥をレンゲで掬い上げ、口へ運ぶ。卵の味と温かさが口の中に広がった。それらは八保喜の胸を熱くさせる。
「……温かい……」
言葉が洩れるのと同じくして、八保喜の目から涙が零れ落ちた。涙は何粒も落ちていく。
泣きじゃくる八保喜の背中を、そばにいる珠紀が優しく摩った。
お粥を食べ終わると、八保喜はこれまでの経緯を話した。家族のこと、進学を諦めて働いたこと、家と仕事を無くしたこと、公園で寝泊まりしていたこと、宛ても無く歩いていたこと。
「そうか。それは大変だったね」
八保喜のそばに座って話を聞いていたルビンは静かに言った。
「父さんのこと、憎めたり出来たら少しは気分が楽になると思うんですよね……でも、出来なくて……」
「それでいいんだよ。憎んだって何も生まれない。それに、キミはお父さんのことが好きなんじゃないかな?」
「……」
ルビンの言葉に八保喜は、最後に見た父の寂しそうな背中を思い出した。
(この人の言う通り、俺は父さんのことが好きだ。借金作って人の金盗んでギャンブルやるどうしようもない父親だけど、大好きなんだ。優しい父さんを知っているから、嫌いになんてなれない。だから、本当は離れたくなかった。ずっと一緒にいたかった。でも、父さんはそれを許さなかった。きっとこの先、また会えるってなっても、父さんは拒否するんだろうな……)
口を噤む八保喜の目に涙が浮かぶ。
「どんなお父さんだろうと、キミのたった一人のお父さん。好きなら好きなままでいようよ」
「……はい……」
八保喜は大粒の涙を流して頷いた。その反動で、涙は布団や手の甲に落ちた。
少し落ち着いた頃、ルビンが提案してきた。
「八保喜くん。ここに住まない?」
「えっ……?」
「帰る家が無いならここに住めばいいよ」
「いえ、住むなんてそんな……図々しいこと……!」
「そんなことないよ」
「だって仕事もお金も無いし……」
「じゃあ、お手伝いさんとして住み込みで働くのはどうかな?」
「お手伝い、さん……?」
「そう。掃除や洗濯、庭の手入れとかをするお手伝いさん。私は仕事柄、家を空けることも多くてね。子供もまだ小さくて手が掛かるから、妻の助けにもなればなって思ってさっき二人で話していたんだ。ね、珠紀さん」
「はい」
「キミが良いなら、私たちは大歓迎だよ」
珠紀とルビンは、優しい笑顔を八保喜に向けた。
八保喜は戸惑いながらルビンを見た。
「あの……どうして、見ず知らずの俺にそこまでしてくれるんですか……?」
「放っておけないと思ったから」
「……」
ルビンの穏やかで綺麗な笑顔に八保喜は見惚れた。
そして、その日はそのまま床に就いた。久しぶりに触れる布団の温もりに、すぐに深い眠りに落ちた。
翌朝、八保喜は体に馬乗りになって起こしてきた稜秩に引っ張られて居間にやって来た。そこで珠紀が作ってくれたご飯を食べる。
「パパ」
突然の稜秩の言葉に八保喜は辺りを見回す。しかし、ルビンの姿が無い。
「そうね、パパね」
珠紀もそんなことを言い出した為、八保喜は二人の視線を辿って朝の情報番組が流れているテレビ画面を見た。そこにはルビンが映っている。今は自身が出演しているドラマの告知をしている。
「……えっ?」
驚いた八保喜はテレビを二度見した。
「……夢、か……?」
「八保喜くん、どうしたの?」
「あの……ルビンさんって、芸能人なんですか……?」
「ええ、そうよ。あ、もしかして知らなかった?」
「はい……家にテレビが無かったんです。お金に替える為に売っちゃって。それに俺、元々テレビはあまり観ない人間なので……」
「あら、そうだったの」
珠紀は少し驚いた表情を見せた。
そして、八保喜も驚いていた。この家はとても広くて大きいので、ルビンのことを資産家だと思っていたからだ。
「しかし芸能人だったとは……俺、すげー人に拾われたな……」
家の廊下の雑巾掛けをしていた八保喜は呟いた後、雑巾をバケツの水で洗う。
そうしていると、目の前に幼子二人がしゃがんで手元をじっと見てきた。
(えっと、確か稜秩くんの友達の咲季ちゃん……だっけ……)
今、この家に遊びに来ている咲季と、その母親である歩乃との初対面の時のことを思い返す。親子二人、顔が似ていた。
(しかも、この子のお父さんも芸能人なわけで。芸能人ってこんなに近くにいるもんなんだなぁ)
心の中で思っていると、此方の顔を見上げてくる咲季と目が合った。
「あそぼ!」
咲季は柔らかい笑顔を見せて言った。
その表情を見て、八保喜は戸惑う。
「あ……でも、俺、仕事が……あるから……」
「あそぼー!」
「いや……」
「あそべ」
「えっ……!?」
八保喜は、咲季の隣にいた稜秩の命令口調に目を見開いた。
(キミ、まだ二歳くらいだよね……? どこでそんな言葉遣い覚えてくるのさ……!)
そうして何度か二人の誘いを断るものの、中々聞き入れてもらえない。埒が明かないと判断した八保喜は珠紀から許しを得て、稜秩と咲季と遊ぶことにした。
その翌日に、八保喜にとってもう一つの大切な出会いがあった。珠紀たちに誘われ、小さな劇場に足を運んだ八保喜は、そこで初めて漫才を目にした。それが、お笑いコンビ弥生との出会いだ。二人の漫才が始まった瞬間から、八保喜はその漫才に心惹かれた。一目惚れをしたような感覚。
その漫才では「お爺ちゃん」がネタとして使われていた為、漫才中は「わしゃあ」や「そうじゃのう」というセリフがあった。元々記憶力の良い八保喜はそれら全てをすぐに暗記し、劇場を出た後も頭の中で弥生の漫才を何度も繰り返し思い出していた。
そうするうちに、いつの間にか八保喜の話し方が敬語の時以外は老人のようになっていった。ただ本人は気に入っている話し方なので、特別直すこともなかった。
八保喜はルビンと珠紀には感謝してもしきれなかった。進学を諦めていたというのを覚えていた二人は、八保喜を通信制の高校に通わせてくれた。学費も全額払ってくれて、卒業させてくれた。車の免許も、車を買うのも助けてくれた。他にも色々面倒を掛けたが、家族同然に接してくれた。
「あっ、帰るの遅くなるって連絡せんと、珠紀さんに心配かけてしまう!」
八保喜は慌ててズボンのポケットから携帯電話を取り出す。
「八保喜さんじゃないですか!」
唐突に掛けられた言葉に顔を上げると、ルビンのマネージャーである月原紳矢が近くに立っていた。
月原は八保喜の元に歩み寄る。
「偶然じゃのう。月原くんは買い物か?」
「はい。いつものお菓子を買いに来ました」
月原は若々しい爽やかな笑みを浮かべて、大量のお菓子が詰まった袋を八保喜に見せた。彼はかなりの偏食家で、三度の飯よりお菓子が好きな青年だ。特にチョコレートが好物で常に口にしている。
「八保喜さんはここで何しているんですか?」
「傘を持って来てないから、雨が止むのを待ってるんじゃ」
「それなら家まで送りますよ! 丁度、ルビンさんを家に送る途中だったんで!」
「そうか? じゃあ、お言葉に甘えて」
八保喜は荷物を持って立ち上がり、傘を手にした月原と共にスーパーマーケットを出て、ルビンが待つ車へ向かう。
「どうぞ」
「ありがとう」
傘を差しながら後部座席のドアを開けてくれた月原に礼を言った後、八保喜は車に乗り込む。
「やあ、八保喜くん。八保喜くんも買い物していたんだね」
後部座席でゆったりと座りながら、ドラマの台本に目を通していたルビンは大体の状況を一瞬で把握したようで、八保喜にそう声を掛けた。
「はい。雨が降って帰れずにいたところを、月原くんに拾ってもらったんです」
「そうか」
二人が会話をしていると車は走り出し、家路を辿る。
家に着く頃には雨は止んでいた。
「ではルビンさん、明日の十時にお迎えにあがります」
「わかった。いつもありがとう」
「いえ。お疲れ様です!」
「お疲れ様」
言葉を交わし終えると、月原は車を発進させる。その姿を八保喜とルビンが見送った。
「さて、家に入ろうか」
「はい」
「荷物持つよ」
「でも、家、目の前ですし……」
「いいの、いいの」
そう言ってルビンは、八保喜が両手に抱えている荷物の一方を持って、石段を登り始めた。八保喜はその背中を見つめる。その姿は昔も今も変わらない。
「ありがとうございます」
柔らかい口調で礼を言った八保喜は、ルビンの後に続いて石段を登った。
高麗門を潜り玄関の引き戸を開けて帰宅したことを知らせると、珠紀が笑顔で「おかえりなさい」と出迎えてくれた。雨に濡れなかったか心配していたが、ここまでの経緯を話すと、安心していた。
こんなに温かい場所にいる自分は幸せ者だと八保喜は思う。
「父さんもどこかで元気に暮らしとるかのう。なあ、母さん」
八保喜は自室に置いている母の遺影に言葉を掛けた。母は、穏やかな笑顔を見せている。
「……そうじゃな」
呟くように言うと、八保喜も笑顔を見せた。父もどこかで元気に暮らしていると、母の笑顔を見て思った。




