勉強会という名のお泊まり会
蝉の鳴き声が木霊する土曜の昼過ぎ、瀬輝たちは稜秩の家に集まっていた。週明けに期末テストがある為、泊りがけの勉強会が開かれているのだ。
「……」
数学のプリントに取り組んでいる瀬輝は頭を悩ませていた。
(ここの問題って、この式であってんじゃねぇの? 何か、答えが変な感じだけど……)
「瀬輝、どこかわからないところあった?」
腕を組んで考えていると、隣に座る連朱がそう声を掛けてきた。
「この問題の解き方って、これで合ってますよね?」
「んー……違う、よ……」
連朱が言いづらそうな顔で言った。
「えっ!? 違うんですか!?」
瀬輝は目を丸くする。
そんな瀬輝に連朱は正しい解き方をゆっくり丁寧に教えていく。
「わかりやすい……!」
「その調子で期末大丈夫か?」
問題を解きながら稜秩が呆れ気味に言った。
「だ、大丈夫だし……! 本番までに覚えればどうってことねぇよ……!」
「瀬輝くん、それ、中間テスト前にも言ってなかった?」
咲季の言葉に瀬輝はドキッとする。
「そ、そうだっけ……?」
「確かそれで、赤点ギリギリ免れたわよね」
「……それはー……」
「今回もその気持ちでテストやってもし赤点取ったら、補習と追試が待ってるぜ」
「……」
天夏や稜秩の発言に、目を泳がせて言葉を詰まらせる瀬輝。ぐうの音も出ないとはこのことだ。
「まあまあ、今はその為に勉強頑張ってるんだし」
「そ、そうだ! 先輩の言う通りだ!」
連朱の助け船もあり、瀬輝は反論した。
すると稜秩が思いついたように言った。
「なら、俺が勉強教えようか?」
「……いや、いい……」
「いっちーの教え方もすごくわかりやすいよ」
「そうかもしれねぇけどさー……」
瀬輝は言葉を濁しながら視線を外す。
(〝スパルタそうだから嫌〟って言ったら、どうなることやら……)
「ここ間違ってる」
「えっ!? どこ!?」
稜秩の指摘に瀬輝は慌ててプリントに目を落とす。
「これはこっちの公式を使うんだ」
余白にスラスラと正しい答えの導き方を記していく稜秩の文字を、瀬輝はまじまじと見つめる。
「解くのに時間掛かったのに一瞬で……」
「基礎さえ出来ていれば解ける問題だ」
瀬輝は自分のプリントに書かれた稜秩の文字を見て胸を撫で下ろす。
(スパルタじゃなくて良かった……)
安心したところで再び勉強に取り掛かる。
しばらくして、室内に良い匂いが漂ってきた。
それをいち早く嗅ぎ付けた瀬輝は何度も鼻をひくつかせる。
「肉の匂いがする……」
「今日唐揚げだってさ」
「マジ!?」
稜秩の言葉を聞いて瀬輝は瞳を輝かせる。俄然やる気が出てきた。
「よし! 肉のために頑張ろう!」
「いや、自分のために頑張れよ」
「いいじゃん、いいじゃん♪」
瀬輝は楽しそうな笑みを浮かべて止めていた手を動かす。肉の力は偉大なもので、瀬輝の問題を解く時間が早まった。
夕食の時間になると、瀬輝たちは居間に移った。目の前のテーブルの上には唐揚げや春雨サラダなどが用意されていた。
「美味しそう!」
「さあ、みんな座って。食べましょう」
稜秩の母である珠紀の声に従い、瀬輝たちはそれぞれ好きな場所へ座って食事をする。
「すげー美味いです!」
「ありがとう」
瀬輝は珠紀に感想を伝えると、さらに唐揚げを食べた。程よく柔らかい肉の感触と旨味がまた口の中に広がる。それが瀬輝の心を幸せにさせた。
食後、男子三人は稜秩の部屋で寛いでいた。
「そういえば、もうすぐルビンさん主演の映画が公開されるよね」
連朱の声を聞いて稜秩が思い出したように反応した。
「ああ、そうだな」
「確かコメディーでしたよね?」
「うん。みんなで観に行けたらなーって思ったんだけど」
「俺、行きます!」
「俺も行く。その映画観に行く予定だったから」
「じゃあ、みんなの予定が合う日に行こう」
そんな他愛ない話をしていると、部屋の襖が開いた。顔をほんのりと赤らめた咲季と天夏が顔を覗かせる。
「お風呂いいよー」
「ああ」
入浴を済ませた二人の声を聞き、稜秩たちは風呂へ向かう準備をする。
「稜秩の家の風呂ってデカイよなー」
湯船に浸かり、辺りを見回しながら瀬輝が感嘆の声を上げた。
城神家の浴室は木材を基調とした造りになっており、7帖程ある。浴槽はその半分程の広さだ。
「親父が風呂好きだからゆったり入れるようにしたんだと」
「へぇ」
「このくらい広いと小さい子供にしたらプール同然だよな」
「男子諸君……」
三人の声に混ざってその言葉が聞こえた。
声がしたであろうドアの方を見る。ほんの少し開けられたドアの隙間から片目だけが覗いていた。
「わぁっ!?」
瀬輝と連朱は肩をビクつかせて驚いた。浴室に声が反響する。
「八保喜」
慣れたような冷静な顔つきで稜秩が名前を呼ぶと浴室のドアがさらに開き、八保喜が姿を見せた。
「稜秩は相変わらず驚かんのう」
「八保喜さんかよー……」
「びっくりした……」
「すまんのう」
八保喜は苦笑いを見せて頭を掻いた。
「で、何の用だよ」
「いやー、女性三人の話が盛り上がってるところに男一人だとちょっと居づらくて、わしも風呂に入ろうかと」
(そりゃあ、そういう発想になるよな……)
八保喜の考えに理解を示した三人は、快く迎えた。
珠紀と談笑した咲季と天夏は、稜秩の部屋に隣接する部屋にいた。室内は行灯の淡い光に照らされている。そこに敷かれた布団に入って、咲季が楽しそうに鼻歌を歌っている。
「随分ご機嫌ね」
咲季の鼻歌を聞きながら、布団の上でストレッチをしている天夏が静かに声を掛ける。
「みんなでお泊まりって楽しいなーって思って」
「修学旅行のワクワク感みたいな?」
「そうそう! あとはみんなと一緒に布団並べて寝れたらいいんだけどね」
「それはさすがに難しいわね」
ストレッチを終えた天夏も咲季と同様に布団の中へ入る。
その短時間の中で静かな空間が生まれた。壁越しに、微かに稜秩たちの会話が聞こえてくる。
「……」
咲季も天夏も自然と会話に耳を澄ますが、何も聞き取れない。
「……男子は男子で盛り上がってるみたいね」
「楽しそう」
「……向こうに行く?」
「行かない。天夏ともっと話したいし」
「……」
その発言に天夏は思わずときめいてしまった。
「咲季は、本当に素直ね……」
「えへへ」
咲季は満面の笑みを見せた。
そして二人は家族のこと、学校の先生こと、部活動のこと、恋のこと、この前見たテレビのこと、行ってみたいお店のこと。思いついた話題を全て話し合った。
「──それでさ」
「……」
「咲季?……って、寝てるし……」
天夏は気付かないうちに眠っていた咲季の顔を覗き込んだ。気持ち良く眠っている。その言葉がぴったりな寝顔をしていた。自然と顔が綻ぶ。
「おやすみ」
静かに咲季に声を掛け、行灯の明かりを消してから天夏も就寝した。
少し肌寒さを感じ、天夏は目を覚ました。夜が明けて来たようで、窓の外が白み始めている。
(……布団……)
布団を纏っていないことに気付き、辺りを見回す。背中越しにいる瀬輝が、天夏の布団を掛けて寝ていた。
「瀬輝、私の布団取らないでよ……」
言いながら布団を取り返し、寝直す。
(…………え? 瀬輝?)
寝惚けていたのかと、天夏は勢いよく起き上がった。隣にはやはり瀬輝がいる。
瀬輝は咲季の布団の中にモゾモゾと潜り込んだ。
「……どういうこと……?」
状況を理解出来ていない天夏は瀬輝を見つめる。
すると、部屋の襖が音もなく僅かに開いた。そこに目線を移すと、稜秩の顔が見えた。
稜秩は、咲季の背中を額で小突くような体勢で眠る瀬輝を襖の隙間からじっと見据えている。
「……」
少しの間稜秩の様子を見ていると、瀬輝に向けられた目がこちらを向いた。
「……おはよ……」
天夏はとりあえず挨拶する。
「おはよ」
挨拶が帰ってきた後、稜秩の視線は瀬輝に戻った。
「……瀬輝を探しに来たの……?」
「ああ。長い時間部屋に戻って来てなかったからトイレにしては変だなと思ってな。まさかそこにいるとは思わなかったけど」
「起こす?」
天夏に問われ、稜秩の口角が上がる。
「いや、しばらくそのまま寝かせておけ」
「えっ……!?」
言い放った稜秩は襖を閉め、自室に戻って行った。
「しばらくって……」
天夏はため息混じりに呟いて瀬輝を見下ろした。まだ起きるのには早い時間なのでもう少し眠りたいところだが、これでは眠れない。
「……」
天夏は咲季に申し訳ないと思いつつ、二人から布団を離して再び眠りにつく。
瀬輝は、ふと目を覚ました。少しぼやけた視界に黒い物体が見える。
(……ラック……)
一緒に住んでいるラックという黒猫の名前を心の中で呟き、飼い猫と思しきそれに手を添えて目を閉じる。
「……」
しかし、その毛は長い。ラックはこんなに毛が長かっただろうか。疑問に思い、目を開けた。
同時に目の前の物体が動く。
間近に、咲季の寝顔。
(……何で、チビッ子……?)
瀬輝の頭がゆっくりと回転し始める。
すると、閉じていた咲季の瞼が開いた。
「……」
二人の視線が交差する。
(……何で、チビッ子が目の前に──…?)
もう一度疑問を心の中で呟いた時、瀬輝は音を立てて起き上がった。
「俺のせいじゃん!!」
その焦った声に、浅い眠りについていた天夏も目を覚ました。
咲季が寝惚け眼を擦りながら起き上がる。
「何で瀬輝くんがここにいるの……?」
「いや、あの、夜中トイレ行って戻ってきた時、間違ってこの部屋入ってそのまま……」
「ああ、そうなんだ……」
「このこと、絶対稜秩に言うなよ!」
声を抑えて瀬輝が言った。つられて咲季も小声になる。
「何で……?」
「何でもだ! いいか?」
「うん……」
咲季の返事を聞いた瀬輝は急いで、且つ物音を立てずに部屋を出た。
「瀬輝くん、何であんなに慌ててるんだろ……?」
「稜秩にバレたらヤバイって思ったんでしょ」
「ふーん……」
「……もう手遅れだけど」
天夏が呟いた一言は、誰の耳にも届かなかった。
咲季たちが使ってる部屋を後にした瀬輝は、稜秩の部屋の襖をそっと開けて中の様子を窺う。
稜秩と連朱は布団に入って眠っていた。
(良かった……)
胸を撫で下ろす瀬輝はそっと部屋に入り、自分の布団に潜った。
昨夜のボリューム満点なメニューとは打って変わって、朝食は米やみそ汁と言った和食だった。
それらを食べ終え、勉強を始める。
「先輩、今日は──」
「今日は俺が教えてやるよ、瀬輝」
「……えっ?」
予想もしなかった言葉に瀬輝は硬直した。
「……何で……?」
「日替わりって感じでいいだろ?」
困惑する瀬輝の前に大量のプリントが置かれた。それを目の当たりにした瀬輝の顔が青くなる。
「昨日の復習も含めて全問解いてもらう」
「全問!?」
「せっかく俺が朝早く起きて作った問題集なんだから、有り難く解けよ」
強調された言葉を耳にした瀬輝は悟った。
「……稜秩……もしかして、知ってる……?」
「何を?」
あっけらかんとしたような表情を見せる稜秩。それが瀬輝にとっては一番怖かった。そしてなぜ咲季の布団に入っていたことがバレているのか。瀬輝には全くわからなかった。
「いや、あの……あれは、事故であって故意では……」
「あれって、何のことだ?」
「えっと〜……」
言葉を失った瀬輝は視線を彷徨わせる。汗が止まらない。
「つべこべ言わずにさっさと解け」
稜秩の低い声と口元しか笑っていない表情に瀬輝は震え上がり、慌てて手作りの問題集に取り掛かった。
この様子を見ていた連朱は、正面にいる咲季と天夏に小声で問い掛ける。
「二人、何かあったの……?」
「あー……とりあえず、瀬輝が稜秩を怒らせることをしちゃったわけで……」
「だからあれは事故なんだって!!」
「瀬輝」
「ごめんなさいぃっ!!」
稜秩に名前を呼ばれただけで瀬輝は涙目になった。
(結局スパルタじゃん……!! ただ部屋間違えただけなのにぃ〜っ!!)
瀬輝は心の中で叫びながら問題集を懸命に解いた。
そして週が明け、期末テスト初日。
「ああ、緊張する……」
ハラハラしながら瀬輝はノートや問題集を見返す。
「一生懸命勉強したんだから大丈夫だよ」
「そうだといいんですけど……」
「瀬輝、赤点取ったら何されたい?」
「なっ……! 赤点なんて絶っ対取らねぇし!!」
稜秩の意地悪な質問に瀬輝はムキになって問題集に目を通す。
その様子に稜秩は口角を上げてノートに視線を落とした。
(いっちー、すごいなぁ)
テストの為、稜秩たちと席が遠くなってしまった咲季は稜秩の言動に感心した。
「咲季、どうかした?」
余所見をする咲季に気付き、一緒に勉強していた天夏が問うてきた。
「いっちーは緊張を解すのが上手だなって思って」
「緊張? 誰の?」
「瀬輝くんの」
咲季は明るい表情を見せた後、またテスト勉強に取り掛かった。
そうこうしているうちに予鈴が鳴り、ホームルームが始まった。
それが終われば、自動的にテストの時間。
皆、来る日も来る日も全力でテストに臨んだ。
そして、テスト期間が終了した。
返却された全教科のテストを目の当たりにし、瀬輝は目を潤ませる。
「赤点なし! しかも全部平均点越え!」
「よかったね、瀬輝」
「はい! 先輩、ありがとうございました!!」
何度も連朱に頭を下げると、その反動で瀬輝の目から涙が溢れた。
「やれば出来んじゃん」
「だろ? 稜秩もありがとうな!」
瀬輝は晴れやかな笑顔を稜秩に向ける。
こうして、後は夏休みを迎えるだけとなった。