表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
18/123

心、揺さぶられ

 雲居(くもい)虹色(にじしき)はご機嫌な様子で鼻歌を歌いながら、教室の窓から外を見ていた。


虹色(にじしき)、ご機嫌だね……」

「まあな!」


 虹色(にじしき)守仲(かみなか)快風(はやて)に笑顔を向けた。

 今から数分前。登校して来た虹色(にじしき)快風(はやて)は靴を履き替えた後、自分たちの教室に向かおうとしていた。丁度そこに咲季(さき)が現れ、咲季(さき)が「おはようございます」と挨拶をしてくれたのだ。


「いい朝の迎え方だな!」

「そうですか……」


 ため息混じりに言った快風(はやて)は、頭を抱えたくなった。顔を真っ赤にして戸惑っていた、この前までの虹色はどこに行ったのか。そう呆れつつも、前向きな感情になっている虹色(にじしき)にどこか嬉しさを感じる。

 当の本人は、空を優雅に飛び回る鳥を見て心躍らせていた。


(もっと、采之宮(さいのみや)さんと話したいな……)


 思いながら、窓枠に頬杖を突いた。





 一方、一年の教室では虹色(にじしき)のことが話に出ていた。


咲季(さき)、生徒玄関のところで挨拶してた上級生の男子と仲良いの?」


 天夏(あまな)は目の前で起きていたことを咲季(さき)に問うた。

 席に着いた咲季(さき)は体ごと天夏(あまな)に向き直る。


「仲が良いってわけじゃないよ。この前少し話しただけ」

「それで挨拶したの?」

「うん。一応した方がいいかなって思って」

咲季(さき)、肩にゴミ付いてる」


 二人の会話に割って入るように稜秩(いち)の言葉が飛んできた。


「えっ?」


 咲季(さき)が肩に付いたゴミを見つけるよりも前に稜秩(いち)の手が咲季(さき)の右肩に触れ、ゴミを払う動作を見せた。


「ありがとう」


 咲季(さき)稜秩(いち)に笑顔を向けた。


(……ゴミなんて付いてたかしら……?)


 一部始終を見て疑問を抱いた天夏(あまな)だが、すぐに稜秩(いち)の言葉が嘘だったことに気付く。「それ以上その話をするな」という制止の嘘。


(ごめん……無神経だったわ……)


 勘付いた天夏(あまな)稜秩(いち)と一瞬だけ目を合わせる。稜秩(いち)の瞳から、不機嫌そうな感情が窺えた。


「……ごめんなさい……」

「えっ? 何が?」


 いきなり出てきた詫びの言葉に咲季(さき)は目を丸くする。

 天夏(あまな)は咄嗟に口を押さえ、目を泳がせる。


「えっと……」

咲季(さき)の肩に付いたゴミに気付かなくてごめんって意味じゃないか?」

「そ、そうなの!」


 稜秩(いち)のフォローに乗っかり、天夏(あまな)は慌てて答えた。


「そんなこと気にしなくていいのに」


 何も知らない咲季(さき)はにっこりと笑った。


「あはは……」


 咲季(さき)に合わせて天夏(あまな)も笑った。今のは自分が悪かったが、稜秩(いち)に弄られている時の瀬輝(ぜる)連朱(めあ)の気持ちがわかる気がした。





 その日の放課後。部活がない虹色(にじしき)はアルバイトが入っている快風(はやて)と別れて教室を出た。

 虹色(にじしき)の足は校内を歩き出す。


(……いるかな……)


 周りを見回して咲季(さき)の姿を探す。

 その足で美術室に向かった。開け放された美術室のドアから教室内を見る。数人の美術部員が話をしながら絵を描いているが、そこに咲季(さき)はいない。


「……」


 落胆の表情を浮かべる虹色(にじしき)は美術室を離れた。

 そのまま当てもなく歩く。


「ハァ……」


 静かにため息を吐き、窓の外に視線を向けた。すると、グラウンドの端に設けられた花壇でスケッチブックを広げている咲季(さき)の姿を見つけた。

 虹色(にじしき)の表情が一気に明るくなる。急いで花壇近くまで駆けた。

 咲季(さき)は花壇の目の前にあるベンチに座っている。

 その咲季(さき)に近付いた時、虹色(にじしき)は躊躇した。


采之宮(さいのみや)さんと話したいって思ったからここまで来たけど、いざ話し掛けようと思うと足が(すく)むし怖いな……)


 思う虹色(にじしき)の脳裏に、いつも見掛けていた咲季(さき)稜秩(いち)の様子が()ぎった。楽しそうにしていて、入る隙間もない。今まではその隙間がなくても良かった。でも今は違う。隙間がないことにもどかしさを感じる。


 すると、二人の楽しそうな様子に上書きするように、今朝の咲季(さき)の笑顔が浮かんだ。


(……いいじゃん、少しくらい……)


 思い立った虹色(にじしき)は止めていた足を前へ踏み出した。一歩ずつ咲季(さき)との距離が縮まり、心臓が早鐘を打つ。


「さっ、采之宮(さいのみや)さん……!」


 若干声が上擦り、恥ずかしさで顔に熱が集中した。咲季(さき)が振り返るとさらに顔が熱くなる。


「あ、どうも」


 咲季(さき)は柔らかい笑顔を虹色(にじしき)に向けた。

 それがどうしようもなく愛おしく思える虹色(にじしき)は、少しの間咲季(さき)の笑顔に見惚れた。


「……と、隣、いいかな?」

「どうぞ」


 咲季(さき)は迷うことなく受け入れた。

 ぎこちない動作で、虹色(にじしき)は少し間を空けて咲季(さき)の隣に腰掛ける。


(ヤバい、近い……!)

「あの」

「えっ……! な、何……!?」


 いきなり声を掛けられ、虹色(にじしき)の心臓が飛び上がった。


「先輩のお名前って……」

「あぁ、まだ言ってなかったよね! 俺、雲居(くもい)虹色(にじしき)って言うんだ!」

「にじしき……?」

虹色(にじいろ)って書いて虹色(にじしき)って読むんだ」

虹色(にじいろ)虹色(にじしき)……綺麗な名前ですね!」


 咲季(さき)の明るい表情に胸が高鳴る虹色(にじしき)は、頰を掻いて咲季(さき)から視線を外した。


「そ、そうかな……」

「はい!」

「何か、そう言ってもらえるとすごく嬉しい……」


 虹色(にじしき)は口元を手で覆うように隠した。名前を褒められることは殆どない経験で、嬉しすぎて叫びたいくらいだった。


虹色(にじしき)先輩は」

(下の名前!?)

「何であたしの名前を知っていたんですか?」


 僅かに首を傾げる咲季(さき)の仕草にときめきながらも、虹色(にじしき)は空に視線を移して言葉を探した。


「それは……目立ってた、から」

「目立ってた?」

「入学式の時、学校中が騒がしかったんだよね。〝芸能人の子供が入学してきた〟って」

「そういうことでしたか。やっぱり目立つんだなぁ」


 咲季(さき)は空を仰ぎながら言った。


(……それもあるけど、本当は采之宮(さいのみや)さんのことが知りたくて色んな人に聞きまくってたんだけどね)


 本音を心の中で呟いた虹色(にじしき)は、何となく咲季(さき)の手元にあるスケッチブックに視線を落とした。

 そこには、目の前に咲いている花が途中まで描かれていた。


「あ、スケッチの途中だったんだね。邪魔しちゃったかな……?」

「いえ、全然。誰かと話しながら描くのも楽しいので気にしてないです」

「そっか。それにしても絵、上手だね」

「ありがとうございます」


 虹色(にじしき)咲季(さき)が描いている絵をまじまじと見る。全体的な形はもちろん、花弁の脈や葉脈まで細かく描かれている。

 スケッチの対象となっている花はピンクと白の花弁と、左右非対称の葉を持っていた。


「この花、何て言う花なの?」

「……さあ……?」

「知らないで描いてたの!?」

「はい。『この花いいな』って思って描いていただけなので」

「そうなんだ」


 咲季(さき)の素直な言葉を耳にし、虹色(にじしき)はもっと咲季(さき)を知りたいと思った。





「先輩、お待たせしてすみません!」

「日直だったんだからしょうがないよ」


 日直の仕事を終わらせた瀬輝(ぜる)と、それを待っていた連朱(めあ)は廊下を歩いていた。

 何気なく窓からグラウンドを見下ろした瀬輝(ぜる)の視界に、花壇にいる咲季(さき)の姿が映る。


「あ、咲季(さき)……と誰だ?」


 彼女と仲良さげに話す男子生徒を見て、瀬輝(ぜる)は思わず立ち止まった。連朱(めあ)もそれに合わせて歩みを止め、花壇の方を見る。


「上級生っぽいね……」


 瀬輝(ぜる)咲季(さき)の隣にいる男子生徒を凝視する。その顔はどこかで見覚えがあった。記憶を辿ると、あまり時間が掛からないうちに思い出した。


「……最近咲季(さき)のこと見てる人だ」

「ああ、よく廊下ですれ違う人か。咲季(さき)はあの人と仲良いんだね」

「みたい、ですね……」


 疑問が解けた二人はまた歩みを進める。

 花壇が見えなくなる直前、瀬輝(ぜる)咲季(さき)虹色(にじしき)を一瞥した。稜秩(いち)は、二人が仲良いことを知っているのだろうか。そんな疑問が胸に浮かぶ。


「……」


 瀬輝(ぜる)は思い迷うように目を伏せた。





 夜になり、家の周辺が静まり返った頃。

 自室に敷いた布団の上で読書をしている稜秩(いち)の携帯電話に、瀬輝(ぜる)から電話が掛かってきた。


「もしもし?」

稜秩(いち)、今いい?」

「別にいいけど」


 稜秩(いち)は読み掛けの本を脇に置いた。


「話そうか、迷ったんだけどさ……最近咲季(さき)のこと見てる人、いるだろ?」

「ああ、いるな」

「あの人と咲季(さき)が今日、部活の時間に花壇のところで一緒にいたのを見たんだ」

「……」


 瀬輝(ぜる)の言葉を聞いた稜秩(いち)の片方の眉がピクリと動く。


「二人で楽しそうに話してたけど、あの二人って仲良かったのか……?」

「朝は『仲が良いってわけじゃない』って話してたから、その時にでも仲良くなったんだろ……それで?」

「『それで?』って、嫌じゃねぇの!? 咲季(さき)のこと狙ってるかもしれねぇのに!?」

「嫌じゃないって言ったら嘘だけど、咲季(さき)の交友関係を縛りたくないんだ。変なことするなら止めに入るけど」

「じゃあ今止めに入れよ」

「ただ話してただけだろ」

「でもさぁー」

「いいんだよ、今は。話それだけなら切るぞ」

「えっ、ちょっと待っ──」


 稜秩(いち)瀬輝(ぜる)の声を最後まで聞かず、電話を切った。


「……」


 通話終了の画面を見据えた後、連絡先リストの中から咲季(さき)の携帯電話の番号を選んだ。発信ボタンを押そうとしたが直前で止め、ゆっくりと指先を画面から離した。


 画面を暗くした携帯電話を枕元に放る。


「……ハァ……」


 静かに深いため息を吐いた稜秩(いち)は立ち上がり、窓を開けた。気持ちの良い夜風が頬を撫でる。

 空を見上げると、月に薄雲が掛かっていた。


瀬輝(ぜる)のバカ……眠れねぇじゃん……」


 その呟きは夜の静けさに消えた。






 それから数日後。

 その日は朝から雨が降っていた。


 咲季(さき)は係りの仕事で世界史の授業で使う世界地図を取りに行くため、社会科室に向かっていた。校舎の階段周辺は、どんよりとした空と頼りなく光る蛍光灯のせいで薄暗い。

 そんな階段を下りて行く。

 すると、偶然にも虹色(にじしき)が階段の前を通り過ぎようとしていた。

 咲季(さき)に気付いた虹色(にじしき)は表情を明るくした。


采之宮(さいのみや)さん!」

「あ、虹色(にじしき)先輩。こんにちは」


 挨拶を交わした咲季(さき)の意識は、目の前の虹色(にじしき)に集中した。そのせいで足下が少し覚束(おぼつか)なくなり、階段を踏み外した。


「危ないっ!!」


 叫んだ虹色(にじしき)は咄嗟に、落ちてくる咲季(さき)を抱き留めた。反動で体勢を崩し、咲季(さき)を抱き締めたまま床に尻餅をつく。


「大丈夫!? どこか打ってない!?」

「大丈夫です……」


 咲季(さき)が顔を上げると、至近距離で目が合った。

 吐息がかかる程の距離が、虹色(にじしき)の心を刺激する。


(……ああ、ヤバイ……)


 この手を離したくない。虹色(にじしき)咲季(さき)を抱き締める腕の力を強めた。それによって、咲季(さき)の心音が伝わってくる。自分と同じ激しい心音。顔も真っ赤だ。

 ゆっくりと咲季(さき)の顔に自身の顔を近付ける。


「あ、あの……虹色(にじしき)先輩……」


 その呼び声に、虹色(にじしき)は動きを止める。


「もう大丈夫なので……離してもらっても、いいですか……?」

「……うん……」


 虹色(にじしき)は腕の力を緩め、名残惜しそうに咲季(さき)から手を離した。


「あの、あ、ありがとうございました……!」


 咲季(さき)虹色(にじしき)に向かって頭を下げ、その場から離れた。


 走り去る咲季(さき)の足音を聞きながら虹色(にじしき)は自分の手を見た。手には、咲季(さき)の感触がまだ残っている。小さくて、乱暴に扱えばすぐ壊れてしまうんじゃないかと思えるくらい華奢な体。

 そして、目が合った瞬間の表情。赤くなった顔に上目遣い。


(危うくキスしそうになった……俺、最低……)


 虹色(にじしき)は床に座ったまま悶える。


(……で、どーしよーか……『好き』って気持ちが一気にデカくなったんだけど……)


 深いため息は、遠くから聞こえる生徒たちの声に掻き消された。





 社会科室から出て来た咲季(さき)は、手にした巻物状の世界地図をぎゅっと握った。


(いっちー以外の人にああいうことされたの、初めてだ……)


 咲季(さき)の心は(ざわ)ついていた。胸の辺りがモヤモヤとして落ち着かない。早く稜秩(いち)のところに行きたいと歩き出した時。


咲季(さき)


 大好きな声が、耳に届いた。

 稜秩(いち)が目の前に立っている。


「いっちー……」

「世界史は地図だけか」


 独り言のように言った稜秩(いち)咲季(さき)から地図を取り、歩き始めた。かと思えば、不意に振り返った。


「早く来いよ」

「えっ……うん……!」


 その声に反応し、咲季(さき)稜秩(いち)のもとへ駆け寄る。

 あまり人通りのない廊下や階段。

 咲季(さき)は階段を上がりながら稜秩(いち)の服を引っ張った。

 それに気付き、稜秩(いち)が立ち止まって振り返る。


「ねぇ……ぎゅって、抱き締めて」

「なっ、ここ学校だぞ……!? 誰か来たら──」

「お願い」


 咲季(さき)は困ったような顔で稜秩(いち)を見上げる。

 その表情を見た稜秩(いち)は、そうするしかないと悟った。周りを見渡して人がいないことを確認すると踊り場に地図を置き、階段に座って腕を少し広げた。


 それを合図に、咲季(さき)稜秩(いち)の腕の中に飛び込んだ。一瞬で稜秩(いち)に包まれる。


「……」


 咲季(さき)は心の騒めきを消そうと、稜秩(いち)に意識を集中させた。稜秩(いち)の匂い、体温、心音、感触。全てを感じるが騒めきは消えない。


「どうしたんだ? いきなり」

「……」


 その静かな問い掛けが騒めきを大きくさせる。稜秩(いち)の背中に回した手に力が入る。


「……あの、ね……」


 咲季(さき)は数分前のことをぽつりぽつりと話し始めた。事故とは言え、虹色(にじしき)に抱きしめられたことを。

 その話の最中、稜秩(いち)の腕の力が強くなったのを直に感じた。


「怪我はしなかったか?」

「うん、あたしは大丈夫……」


 優しく自分の心配をしてくれる稜秩(いち)を見て、咲季(さき)は胸が張り裂けそうだった。


「……ごめんなさい……」

「……何で咲季(さき)が謝るんだよ」

「だって、その……」

咲季(さき)は謝らなくていいんだ」

「でも……」

「謝らなくていい。ただ、あの先輩とはもう話すな」

「……うん」


 咲季(さき)稜秩(いち)の目を見てしっかりと頷いた。

 それだけで心の騒めきは少し消えた。





 放課後。

 普段、部活動がない時は教室で稜秩(いち)を待つ咲季(さき)だが、今日は稜秩(いち)に「武道館でいろ」と言われたため武道館に来ていた。

 ただじっとして、剣道に打ち込む稜秩(いち)を見つめる。


「……」


 竹刀や踏み込んでいく足音などが聞こえる中、屋根に打ち付けられる雨の音も耳に入ってくる。


(屋根に落ちる雨の音もいいなぁ)


 咲季(さき)は雨音に耳を傾ける。途切れることなく落ちてくる雨粒。それはたまに大きくなったり小さくなったりして、武道館中に音を響かせている。

 心地よく感じる雨音に聞き入った。


「……」


 そうしていると、いつの間にか剣道部員たちが終わりの挨拶を交わしていた。


(……あれ? もう部活終わり?)


 咲季(さき)は辺りを見回す。稜秩(いち)が武道館内にある男子更衣室に入って行くのが見えた。


(いっちーが着替えてる間にトイレ行こうっと)


 咲季(さき)は徐に立ち上がり、武道館の外にあるトイレへ向かった。





 用を足し、鏡の前で身だしなみを整えてトイレを出た瞬間、咲季(さき)は足を止めた。


「……あ……」


 丁度、男子トイレから出て来た虹色(にじしき)と鉢合わせた。


「どうも……」


 虹色(にじしき)が気まずそうに挨拶をしてきた。

 咲季(さき)はそれに会釈だけを返して足早に武道館へ向かう。


 徐々に、虹色(にじしき)との距離が離れていく。


「好きでしたっ!!」


 唐突に後ろから発せられた声は廊下に響き渡った。

 咲季(さき)は驚いて立ち止まってしまった。しかし振り返ることはせず、そのまま走り去る。


 後ろで佇む彼の目にうっすらと浮かぶ涙のことは、咲季(さき)は知らずにいた。





 無我夢中で走って武道館に辿り着いた咲季(さき)は呼吸を整える。全力疾走と突然の告白とで、心臓は激しく暴れていた。


 このことを稜秩(いち)に言うべきか咲季(さき)は迷った。言ってしまえば、また稜秩(いち)に嫌な思いをさせてしまうかもしれない。しかし、言わなければずっと自分の中で抱えていくことになる。


咲季(さき)


 考えを巡らせていると、荷物をまとめた稜秩(いち)に声を掛けられた。声の主を見上げる。


「……」


 目が合うと、稜秩(いち)の眉間に少し皺が寄ったのが分かった。


「……何かあったのか?」

「…………告白された」


 隠すことはできないと、咲季(さき)は素直にそう話した。


 すると稜秩(いち)は何も言わずに歩き出し、武道館から出て行った。咲季(さき)は自分の荷物を持って慌ててその後を追いかける。


 稜秩(いち)が向かったのは体育館だ。


「いっちー……!」


 体育館の扉の前まで来ると、部活仲間と話をしている虹色(にじしき)に近づく稜秩(いち)の姿が見えた。咲季(さき)は扉の陰に隠れるようにその様子を伺う。





 無言で近づいたせいか、稜秩(いち)を見上げる虹色(にじしき)は怯えていた。周囲は騒ついている。


「もう、咲季(さき)に近づかないでもらえますか?」


 稜秩(いち)は静かに且つ力強く言い放った。その威圧感は、騒ついていた周囲から音を奪うほどだった。

 気圧された様子で顔を青くさせた虹色(にじしき)が、ぎこちなく頷いた。

 それを見届けてから稜秩(いち)は踵を返して体育館を出た。


「行くぞ」

「うん……!」


 扉の近くにいた咲季(さき)に声を掛けて廊下を進む。

 ちょこちょこと隣を歩く咲季(さき)の速さに合わせてペースを落とし、ゆっくり歩く。


「……気分転換にどっか行きたいな」

「どこに?」

「うーん……海とか」

「今からは難しいねぇ」

「車がないとな」

「じゃあ〝小さな水族館〟行かない?」


〝小さな水族館〟とは、少し前に街に出来た小規模の水族館。そこにはクラゲや魚などの小さな海の生き物がいる場所だ。

 その提案に稜秩(いち)は頷く。


「いいな。あそこなら近いし」


 すると、咲季(さき)がそっと手を握ってきた。小さくて温かい手。

 その手を優しく握り返し、小さな水族館へと向かった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ