心、揺さぶられ
雲居虹色はご機嫌な様子で鼻歌を歌いながら、教室の窓から外を見ていた。
「虹色、ご機嫌だね……」
「まあな!」
虹色は守仲快風に笑顔を向けた。
今から数分前。登校して来た虹色と快風は靴を履き替えた後、自分たちの教室に向かおうとしていた。丁度そこに咲季が現れ、咲季が「おはようございます」と挨拶をしてくれたのだ。
「いい朝の迎え方だな!」
「そうですか……」
ため息混じりに言った快風は、頭を抱えたくなった。顔を真っ赤にして戸惑っていた、この前までの虹色はどこに行ったのか。そう呆れつつも、前向きな感情になっている虹色にどこか嬉しさを感じる。
当の本人は、空を優雅に飛び回る鳥を見て心躍らせていた。
(もっと、采之宮さんと話したいな……)
思いながら、窓枠に頬杖を突いた。
一方、一年の教室では虹色のことが話に出ていた。
「咲季、生徒玄関のところで挨拶してた上級生の男子と仲良いの?」
天夏は目の前で起きていたことを咲季に問うた。
席に着いた咲季は体ごと天夏に向き直る。
「仲が良いってわけじゃないよ。この前少し話しただけ」
「それで挨拶したの?」
「うん。一応した方がいいかなって思って」
「咲季、肩にゴミ付いてる」
二人の会話に割って入るように稜秩の言葉が飛んできた。
「えっ?」
咲季が肩に付いたゴミを見つけるよりも前に稜秩の手が咲季の右肩に触れ、ゴミを払う動作を見せた。
「ありがとう」
咲季は稜秩に笑顔を向けた。
(……ゴミなんて付いてたかしら……?)
一部始終を見て疑問を抱いた天夏だが、すぐに稜秩の言葉が嘘だったことに気付く。「それ以上その話をするな」という制止の嘘。
(ごめん……無神経だったわ……)
勘付いた天夏は稜秩と一瞬だけ目を合わせる。稜秩の瞳から、不機嫌そうな感情が窺えた。
「……ごめんなさい……」
「えっ? 何が?」
いきなり出てきた詫びの言葉に咲季は目を丸くする。
天夏は咄嗟に口を押さえ、目を泳がせる。
「えっと……」
「咲季の肩に付いたゴミに気付かなくてごめんって意味じゃないか?」
「そ、そうなの!」
稜秩のフォローに乗っかり、天夏は慌てて答えた。
「そんなこと気にしなくていいのに」
何も知らない咲季はにっこりと笑った。
「あはは……」
咲季に合わせて天夏も笑った。今のは自分が悪かったが、稜秩に弄られている時の瀬輝と連朱の気持ちがわかる気がした。
その日の放課後。部活がない虹色はアルバイトが入っている快風と別れて教室を出た。
虹色の足は校内を歩き出す。
(……いるかな……)
周りを見回して咲季の姿を探す。
その足で美術室に向かった。開け放された美術室のドアから教室内を見る。数人の美術部員が話をしながら絵を描いているが、そこに咲季はいない。
「……」
落胆の表情を浮かべる虹色は美術室を離れた。
そのまま当てもなく歩く。
「ハァ……」
静かにため息を吐き、窓の外に視線を向けた。すると、グラウンドの端に設けられた花壇でスケッチブックを広げている咲季の姿を見つけた。
虹色の表情が一気に明るくなる。急いで花壇近くまで駆けた。
咲季は花壇の目の前にあるベンチに座っている。
その咲季に近付いた時、虹色は躊躇した。
(采之宮さんと話したいって思ったからここまで来たけど、いざ話し掛けようと思うと足が竦むし怖いな……)
思う虹色の脳裏に、いつも見掛けていた咲季と稜秩の様子が過ぎった。楽しそうにしていて、入る隙間もない。今まではその隙間がなくても良かった。でも今は違う。隙間がないことにもどかしさを感じる。
すると、二人の楽しそうな様子に上書きするように、今朝の咲季の笑顔が浮かんだ。
(……いいじゃん、少しくらい……)
思い立った虹色は止めていた足を前へ踏み出した。一歩ずつ咲季との距離が縮まり、心臓が早鐘を打つ。
「さっ、采之宮さん……!」
若干声が上擦り、恥ずかしさで顔に熱が集中した。咲季が振り返るとさらに顔が熱くなる。
「あ、どうも」
咲季は柔らかい笑顔を虹色に向けた。
それがどうしようもなく愛おしく思える虹色は、少しの間咲季の笑顔に見惚れた。
「……と、隣、いいかな?」
「どうぞ」
咲季は迷うことなく受け入れた。
ぎこちない動作で、虹色は少し間を空けて咲季の隣に腰掛ける。
(ヤバい、近い……!)
「あの」
「えっ……! な、何……!?」
いきなり声を掛けられ、虹色の心臓が飛び上がった。
「先輩のお名前って……」
「あぁ、まだ言ってなかったよね! 俺、雲居虹色って言うんだ!」
「にじしき……?」
「虹色って書いて虹色って読むんだ」
「虹色で虹色……綺麗な名前ですね!」
咲季の明るい表情に胸が高鳴る虹色は、頰を掻いて咲季から視線を外した。
「そ、そうかな……」
「はい!」
「何か、そう言ってもらえるとすごく嬉しい……」
虹色は口元を手で覆うように隠した。名前を褒められることは殆どない経験で、嬉しすぎて叫びたいくらいだった。
「虹色先輩は」
(下の名前!?)
「何であたしの名前を知っていたんですか?」
僅かに首を傾げる咲季の仕草にときめきながらも、虹色は空に視線を移して言葉を探した。
「それは……目立ってた、から」
「目立ってた?」
「入学式の時、学校中が騒がしかったんだよね。〝芸能人の子供が入学してきた〟って」
「そういうことでしたか。やっぱり目立つんだなぁ」
咲季は空を仰ぎながら言った。
(……それもあるけど、本当は采之宮さんのことが知りたくて色んな人に聞きまくってたんだけどね)
本音を心の中で呟いた虹色は、何となく咲季の手元にあるスケッチブックに視線を落とした。
そこには、目の前に咲いている花が途中まで描かれていた。
「あ、スケッチの途中だったんだね。邪魔しちゃったかな……?」
「いえ、全然。誰かと話しながら描くのも楽しいので気にしてないです」
「そっか。それにしても絵、上手だね」
「ありがとうございます」
虹色は咲季が描いている絵をまじまじと見る。全体的な形はもちろん、花弁の脈や葉脈まで細かく描かれている。
スケッチの対象となっている花はピンクと白の花弁と、左右非対称の葉を持っていた。
「この花、何て言う花なの?」
「……さあ……?」
「知らないで描いてたの!?」
「はい。『この花いいな』って思って描いていただけなので」
「そうなんだ」
咲季の素直な言葉を耳にし、虹色はもっと咲季を知りたいと思った。
「先輩、お待たせしてすみません!」
「日直だったんだからしょうがないよ」
日直の仕事を終わらせた瀬輝と、それを待っていた連朱は廊下を歩いていた。
何気なく窓からグラウンドを見下ろした瀬輝の視界に、花壇にいる咲季の姿が映る。
「あ、咲季……と誰だ?」
彼女と仲良さげに話す男子生徒を見て、瀬輝は思わず立ち止まった。連朱もそれに合わせて歩みを止め、花壇の方を見る。
「上級生っぽいね……」
瀬輝は咲季の隣にいる男子生徒を凝視する。その顔はどこかで見覚えがあった。記憶を辿ると、あまり時間が掛からないうちに思い出した。
「……最近咲季のこと見てる人だ」
「ああ、よく廊下ですれ違う人か。咲季はあの人と仲良いんだね」
「みたい、ですね……」
疑問が解けた二人はまた歩みを進める。
花壇が見えなくなる直前、瀬輝は咲季と虹色を一瞥した。稜秩は、二人が仲良いことを知っているのだろうか。そんな疑問が胸に浮かぶ。
「……」
瀬輝は思い迷うように目を伏せた。
夜になり、家の周辺が静まり返った頃。
自室に敷いた布団の上で読書をしている稜秩の携帯電話に、瀬輝から電話が掛かってきた。
「もしもし?」
「稜秩、今いい?」
「別にいいけど」
稜秩は読み掛けの本を脇に置いた。
「話そうか、迷ったんだけどさ……最近咲季のこと見てる人、いるだろ?」
「ああ、いるな」
「あの人と咲季が今日、部活の時間に花壇のところで一緒にいたのを見たんだ」
「……」
瀬輝の言葉を聞いた稜秩の片方の眉がピクリと動く。
「二人で楽しそうに話してたけど、あの二人って仲良かったのか……?」
「朝は『仲が良いってわけじゃない』って話してたから、その時にでも仲良くなったんだろ……それで?」
「『それで?』って、嫌じゃねぇの!? 咲季のこと狙ってるかもしれねぇのに!?」
「嫌じゃないって言ったら嘘だけど、咲季の交友関係を縛りたくないんだ。変なことするなら止めに入るけど」
「じゃあ今止めに入れよ」
「ただ話してただけだろ」
「でもさぁー」
「いいんだよ、今は。話それだけなら切るぞ」
「えっ、ちょっと待っ──」
稜秩は瀬輝の声を最後まで聞かず、電話を切った。
「……」
通話終了の画面を見据えた後、連絡先リストの中から咲季の携帯電話の番号を選んだ。発信ボタンを押そうとしたが直前で止め、ゆっくりと指先を画面から離した。
画面を暗くした携帯電話を枕元に放る。
「……ハァ……」
静かに深いため息を吐いた稜秩は立ち上がり、窓を開けた。気持ちの良い夜風が頬を撫でる。
空を見上げると、月に薄雲が掛かっていた。
「瀬輝のバカ……眠れねぇじゃん……」
その呟きは夜の静けさに消えた。
それから数日後。
その日は朝から雨が降っていた。
咲季は係りの仕事で世界史の授業で使う世界地図を取りに行くため、社会科室に向かっていた。校舎の階段周辺は、どんよりとした空と頼りなく光る蛍光灯のせいで薄暗い。
そんな階段を下りて行く。
すると、偶然にも虹色が階段の前を通り過ぎようとしていた。
咲季に気付いた虹色は表情を明るくした。
「采之宮さん!」
「あ、虹色先輩。こんにちは」
挨拶を交わした咲季の意識は、目の前の虹色に集中した。そのせいで足下が少し覚束なくなり、階段を踏み外した。
「危ないっ!!」
叫んだ虹色は咄嗟に、落ちてくる咲季を抱き留めた。反動で体勢を崩し、咲季を抱き締めたまま床に尻餅をつく。
「大丈夫!? どこか打ってない!?」
「大丈夫です……」
咲季が顔を上げると、至近距離で目が合った。
吐息がかかる程の距離が、虹色の心を刺激する。
(……ああ、ヤバイ……)
この手を離したくない。虹色は咲季を抱き締める腕の力を強めた。それによって、咲季の心音が伝わってくる。自分と同じ激しい心音。顔も真っ赤だ。
ゆっくりと咲季の顔に自身の顔を近付ける。
「あ、あの……虹色先輩……」
その呼び声に、虹色は動きを止める。
「もう大丈夫なので……離してもらっても、いいですか……?」
「……うん……」
虹色は腕の力を緩め、名残惜しそうに咲季から手を離した。
「あの、あ、ありがとうございました……!」
咲季は虹色に向かって頭を下げ、その場から離れた。
走り去る咲季の足音を聞きながら虹色は自分の手を見た。手には、咲季の感触がまだ残っている。小さくて、乱暴に扱えばすぐ壊れてしまうんじゃないかと思えるくらい華奢な体。
そして、目が合った瞬間の表情。赤くなった顔に上目遣い。
(危うくキスしそうになった……俺、最低……)
虹色は床に座ったまま悶える。
(……で、どーしよーか……『好き』って気持ちが一気にデカくなったんだけど……)
深いため息は、遠くから聞こえる生徒たちの声に掻き消された。
社会科室から出て来た咲季は、手にした巻物状の世界地図をぎゅっと握った。
(いっちー以外の人にああいうことされたの、初めてだ……)
咲季の心は騒ついていた。胸の辺りがモヤモヤとして落ち着かない。早く稜秩のところに行きたいと歩き出した時。
「咲季」
大好きな声が、耳に届いた。
稜秩が目の前に立っている。
「いっちー……」
「世界史は地図だけか」
独り言のように言った稜秩が咲季から地図を取り、歩き始めた。かと思えば、不意に振り返った。
「早く来いよ」
「えっ……うん……!」
その声に反応し、咲季は稜秩のもとへ駆け寄る。
あまり人通りのない廊下や階段。
咲季は階段を上がりながら稜秩の服を引っ張った。
それに気付き、稜秩が立ち止まって振り返る。
「ねぇ……ぎゅって、抱き締めて」
「なっ、ここ学校だぞ……!? 誰か来たら──」
「お願い」
咲季は困ったような顔で稜秩を見上げる。
その表情を見た稜秩は、そうするしかないと悟った。周りを見渡して人がいないことを確認すると踊り場に地図を置き、階段に座って腕を少し広げた。
それを合図に、咲季は稜秩の腕の中に飛び込んだ。一瞬で稜秩に包まれる。
「……」
咲季は心の騒めきを消そうと、稜秩に意識を集中させた。稜秩の匂い、体温、心音、感触。全てを感じるが騒めきは消えない。
「どうしたんだ? いきなり」
「……」
その静かな問い掛けが騒めきを大きくさせる。稜秩の背中に回した手に力が入る。
「……あの、ね……」
咲季は数分前のことをぽつりぽつりと話し始めた。事故とは言え、虹色に抱きしめられたことを。
その話の最中、稜秩の腕の力が強くなったのを直に感じた。
「怪我はしなかったか?」
「うん、あたしは大丈夫……」
優しく自分の心配をしてくれる稜秩を見て、咲季は胸が張り裂けそうだった。
「……ごめんなさい……」
「……何で咲季が謝るんだよ」
「だって、その……」
「咲季は謝らなくていいんだ」
「でも……」
「謝らなくていい。ただ、あの先輩とはもう話すな」
「……うん」
咲季は稜秩の目を見てしっかりと頷いた。
それだけで心の騒めきは少し消えた。
放課後。
普段、部活動がない時は教室で稜秩を待つ咲季だが、今日は稜秩に「武道館でいろ」と言われたため武道館に来ていた。
ただじっとして、剣道に打ち込む稜秩を見つめる。
「……」
竹刀や踏み込んでいく足音などが聞こえる中、屋根に打ち付けられる雨の音も耳に入ってくる。
(屋根に落ちる雨の音もいいなぁ)
咲季は雨音に耳を傾ける。途切れることなく落ちてくる雨粒。それはたまに大きくなったり小さくなったりして、武道館中に音を響かせている。
心地よく感じる雨音に聞き入った。
「……」
そうしていると、いつの間にか剣道部員たちが終わりの挨拶を交わしていた。
(……あれ? もう部活終わり?)
咲季は辺りを見回す。稜秩が武道館内にある男子更衣室に入って行くのが見えた。
(いっちーが着替えてる間にトイレ行こうっと)
咲季は徐に立ち上がり、武道館の外にあるトイレへ向かった。
用を足し、鏡の前で身だしなみを整えてトイレを出た瞬間、咲季は足を止めた。
「……あ……」
丁度、男子トイレから出て来た虹色と鉢合わせた。
「どうも……」
虹色が気まずそうに挨拶をしてきた。
咲季はそれに会釈だけを返して足早に武道館へ向かう。
徐々に、虹色との距離が離れていく。
「好きでしたっ!!」
唐突に後ろから発せられた声は廊下に響き渡った。
咲季は驚いて立ち止まってしまった。しかし振り返ることはせず、そのまま走り去る。
後ろで佇む彼の目にうっすらと浮かぶ涙のことは、咲季は知らずにいた。
無我夢中で走って武道館に辿り着いた咲季は呼吸を整える。全力疾走と突然の告白とで、心臓は激しく暴れていた。
このことを稜秩に言うべきか咲季は迷った。言ってしまえば、また稜秩に嫌な思いをさせてしまうかもしれない。しかし、言わなければずっと自分の中で抱えていくことになる。
「咲季」
考えを巡らせていると、荷物をまとめた稜秩に声を掛けられた。声の主を見上げる。
「……」
目が合うと、稜秩の眉間に少し皺が寄ったのが分かった。
「……何かあったのか?」
「…………告白された」
隠すことはできないと、咲季は素直にそう話した。
すると稜秩は何も言わずに歩き出し、武道館から出て行った。咲季は自分の荷物を持って慌ててその後を追いかける。
稜秩が向かったのは体育館だ。
「いっちー……!」
体育館の扉の前まで来ると、部活仲間と話をしている虹色に近づく稜秩の姿が見えた。咲季は扉の陰に隠れるようにその様子を伺う。
無言で近づいたせいか、稜秩を見上げる虹色は怯えていた。周囲は騒ついている。
「もう、咲季に近づかないでもらえますか?」
稜秩は静かに且つ力強く言い放った。その威圧感は、騒ついていた周囲から音を奪うほどだった。
気圧された様子で顔を青くさせた虹色が、ぎこちなく頷いた。
それを見届けてから稜秩は踵を返して体育館を出た。
「行くぞ」
「うん……!」
扉の近くにいた咲季に声を掛けて廊下を進む。
ちょこちょこと隣を歩く咲季の速さに合わせてペースを落とし、ゆっくり歩く。
「……気分転換にどっか行きたいな」
「どこに?」
「うーん……海とか」
「今からは難しいねぇ」
「車がないとな」
「じゃあ〝小さな水族館〟行かない?」
〝小さな水族館〟とは、少し前に街に出来た小規模の水族館。そこにはクラゲや魚などの小さな海の生き物がいる場所だ。
その提案に稜秩は頷く。
「いいな。あそこなら近いし」
すると、咲季がそっと手を握ってきた。小さくて温かい手。
その手を優しく握り返し、小さな水族館へと向かった。