無理に忘れないこと
陽が傾き始めた頃、学校の教材が入ったリュックサックを背負った瀬輝は、1袋2kgのキャットフードを入れた大きな袋を携えながらペットショップから出て来た。
「母ちゃん人使い荒いよなー。学校帰りにキャットフード4袋って……今日部活ねぇから先輩とどっか行こうと思ってたのになぁ……」
ぼやいて歩いていると、いつものように野良猫たちが瀬輝に近寄って来る。
「今日も相変わらずだな。あ、これ、お前たちのじゃないから間違っても破くなよ。じゃないと母ちゃんに怒られるからさー」
野良猫たちに話し掛け、注意を払いながら歩く。
しばらくそうしていると、前方に見える橋の中央辺りに、川を見下ろしている朱李の後ろ姿があった。
瀬輝は足早に朱李に近寄る。
「朱李!」
その呼び声に少し鈍く反応した朱李と目が合う。
「……あぁ、瀬輝さん………」
力のない声に虚ろな表情。元気が無いのは一目瞭然だ。
「何してんの?」
瀬輝の問いに朱李はまた川を見下ろす。
「川に流されてるなーって……」
「……何が……?」
「……」
朱李は反応せず、川を見つめるだけ。そんな朱李に困惑する瀬輝はとりあえずまた言葉を掛ける。
「学校で何かあったのか? それとも、兄弟喧嘩でも──」
言葉の途中で、朱李はバッと顔を上げた。
瀬輝は肩をビクつかせる。
「瀬輝さん……!!」
「どっ、どうした!?」
二人の視線がぶつかったと思いきや、朱李の目から滝のような涙が溢れ出た。
「な、何で泣くんだよ!?」
「ゔぅ゛〜……」
朱李の口からは嗚咽しか聞こえない。
すると、瀬輝は周りの人の目が自分たちに集中していることに気付いた。
「一旦泣き止め! 俺が泣かしたみたいだろ……!?」
しかし、朱李は泣き止む気配もない。
狼狽する瀬輝は一つの決断を下した。
「はいよ」
朱李の目の前のテーブルに、オレンジジュースを注いだコップを置く。
「ありがとうございます……」
瀬輝の部屋に連れて来られた朱李は薄っすら涙を浮かべたままコップを手に取り、オレンジジュースを何口か飲んだ。
「で、どうした?」
テーブルを挟んだ向かいに座った瀬輝は、飼い猫たちに纏わり付かれながら朱李に問うた。
「……失恋、しました……」
「ああ、だからあんなに……」
頷く朱李の瞳から涙が零れ落ちる。
「告って玉砕?」
「……告る前に玉砕です……」
「何があったんだ?」
「……」
「……あ、悪い。言いたくなかったら言わなくていいから」
そう言って、瀬輝は体を擦り寄せてくる猫たちを撫でた。
すると、朱李のもとにも猫が寄って来た。アメという名前の三毛猫。彼は朱李の指先を舐め、膝の上に乗った。その時、ふわりと飴のような甘い匂いが香った。
その発生源が彼であること、飴みたいな匂いがするからアメという名前になったことを朱李は思い出した。
甘い匂いを漂わせる猫を撫でていると、自然と話そうという気になった。
「……俺……」
口を開いた朱李に瀬輝は何も言わず目を向ける。
「初めて女の子を好きになったんです……」
「うん」
「直接告るのはすごく恥ずかしいから、手紙にしたんです……」
(何、そのかわいい選択)
「手紙を下駄箱に入れようと生徒玄関に向かったんです……」
(王道だけど、かわいいシチュエーション)
「瀬輝さんも同じ中学だったからわかると思いますけど、生徒玄関の近くの階段の下ってスペースあるじゃないですか……」
「ああ、あるな。物置状態だけど」
「そこで好きな子と……三年の男子が……キスを──」
「ストップ!!」
「……えっ……?」
「もう、言わなくていいから」
瀬輝の優しい声音に、朱李は数時間前の出来事を思い出し、泣き噦る。
(初恋でそれはキツイな……つか学校でって、大胆だな……)
瀬輝は目の前の朱李を見つめる。
「……」
静かに立ち上がって朱李のそばへ腰掛けると、その頭を優しく撫でた。
「ツラかったな」
朱李は頷くだけの反応を見せ、声を上げて泣いた。
暫く、瀬輝は朱李の頭を撫で続けた。
朱李が落ち着きを取り戻し始めた頃、また問い掛ける。
「……手紙はどうしたんだ?」
「破って川に捨てました……」
「……」
あの時朱李が見ていたのは、流れていく手紙だったのだと瀬輝は理解した。一生懸命書いた手紙。でも渡せなくてビリビリに破って川に捨てた。その様子を想像するだけでも、胸が締め付けられた。
「……早く忘れたい……」
「……忘れたいよな。けど無理に忘れよう、忘れようって思うなよ」
「どうしてですか……?」
「無理に忘れようとすると中々忘れられないものなんだよ。だからそうしないで、好きなことに没頭したり、友達と沢山遊んだり、ツライけど自分の気持ちと向き合ったり、いっそのこと告るのもアリだし。そうすればいつか、あんなことあったなとか思えるし、この状況も笑い話になると思う。せっかく芽生えた気持ちなんだから大切にしないとさ」
「……」
朱李はにっこりと笑う瀬輝の顔をじっと見つめる。
「……じゃあ、瀬輝さんはどうやって元カノさんのこと吹っ切ったんですか?」
「えっ、俺?」
不意を突かれた瀬輝は目を丸くした。
ここへ引っ越して来る前、瀬輝には五歳年上の彼女がいた。近所に住む高校生で、瀬輝は小学校高学年の頃から彼女に好意を抱いていた。瀬輝から何度も何度もアタックをして、付き合うことになった。
「俺の場合は、状況が状況だったからな」
「どういうことですか?」
「相手が『遠距離恋愛なんて無理』って言ったから渋々別れたんだけど、俺がこっちに来て一週間もしないうちに新しい彼氏が出来たんだとさ」
「え……それって……」
朱李は言葉を失った。
その様子を見ながら瀬輝が続ける。
「向こうの友達からその話聞いた時はすげーショックでさ、本気で好きだったのって俺だけなのかーって思った。でもクヨクヨしてんのも面倒だから好きなことに熱中したりみんなで遊びに行ったりして、考えないようにした。そしたら自然と吹っ切れた」
「……瀬輝さんにも、そんなことがあったんですね……」
瀬輝の話に耳を傾けていた朱李は絞り出すような声を発した。
すると瀬輝は優しく笑った。
「まあな。やっぱ、片想いでも両想いでも、傷付かない恋なんてないんだよ」
「そういうものですか?」
「そういうもんだ。傷付いた方がいいけどさ」
「どうして?」
「傷付くから他人の痛みがわかるし、思いやりも持てるし、心から人を好きになれるんだって、思ってるから。恋愛だけじゃないけどさ。とにかく、傷付くことを恐れるなって感じかな」
次から次へと出てくる言葉に、朱李は心を打たれた。
「……瀬輝さんに恋しちゃうかも」
「断る!!」
「冗談ですよ!」
瀬輝の反応に朱李は笑って返した。気持ちの整理にも色々やり方があるのだと教えられた。
「あー、それから、これからは川に物捨てるなよ。不法投棄だからな」
「すみません、気を付けます……」
瀬輝から注意を受け、朱李は反省した面持ちで姿勢を正した。
「……?」
そうした時、どこからか視線を感じた。ふと、テーブルの下に視線を落とす。
「うおぉっ!?」
「な、何だよ!?」
いきなり大声を出して仰け反る朱李に瀬輝も驚く。そして朱李と同じようにテーブルの下を見る。瀬輝は納得した。
「そりゃあ、びっくりするよな」
正座をする朱李の足下で、テーブルの下から朱李を見上げる猫がいた。
「いっ、いつからここにっ……!?」
「さあ? ユーは気配消して近付くからいつの間にか間近にいるんだよな。ユー、おいで」
瀬輝がそう呼ぶと、ユーはゆるりと瀬輝の元に向かった。
朱李の心臓はまだ激しく脈を打っている。
「ユーはさ、人を驚かせるのが好きなんだよな」
(何ていう悪趣味……!!)
朱李は心臓を落ち着かせつつ、ちらりとユーを見た。紫色に近い毛色に、細身でキリッとした顔立ち。一見、プライドが高そうな印象がある。
「ユーって、たまに笑うんだぜ」
「えっ、猫って笑うんですか!?」
「猫、っていうかユーだけかな? ニヤリって感じで。でも俺の前だけでしか笑わないんだ」
「……」
朱李はユーを見つめた。しかしユーは表情を変えず、朱李から目を背けた。
ユーの後ろ姿を視界に入れながら朱李は、その笑った顔を見てみたいと思った。
丁度その時、瀬輝の携帯電話がメールの受信を知らせた。
「先輩からだ」
瀬輝は迷わずメールを開いた。
《朱李、そっちにいる?》
それは弟の所在を確認するメールだった。
「朱李、先輩が心配してるからもう帰れ」
「はーい」
朱李の返事を聞いてから、瀬輝は連朱に返信する。
《いますよ。でも、もう家に帰らせますのでご安心を!》
《ありがとう》
短いメールのやり取りをしてから、朱李を見送る為に玄関へ行く。
「瀬輝さん、今日はありがとうございました! また相談に乗ってくださいね!」
「はい、はい」
少し苦笑いを浮かべる瀬輝に、朱李はニカッと笑ってみせた。
その表情に瀬輝は胸を撫で下ろす。
「気を付けて帰れよ」
「はい! お邪魔しました!」
朱李は頭を下げ、笑顔のまま瀬輝の家を出た。
すっかり暗くなった道を歩く。その足元を照らす仄かな明かりを見上げた。半月に近い形の月が空に浮かんでいる。
頼りない光に向かって微笑む。
「明日から、部活にもっと集中しよ!」
弾んだ声で言い、朱李は走り出した。