そして彼は色をなす
静かな校庭に水飛沫の音が響いている。校庭の隅にあるプールで、今日から水泳の授業が始まったからだ。
今は咲季たちのクラスと隣のクラスの女子生徒が合同で授業を受けている。
授業初日ということもあって、四泳法を終えた後は自由時間となった。泳ぐ人もいれば話に花を咲かせている人、プールサイドで日向ぼっこをしている人もいる。
皆、思い思いに過ごしていた。
咲季と天夏もプールの水に浸かりながら話をしている。
「こういう暑い日はプールだよねぇ」
「そうね」
頷く天夏は咲季に目を向ける。
咲季は空を見上げていた。そうかと思えば、頭に付けていたゴーグルを装着して息を目一杯吸ってから水の中へ潜っていった。
(何やってるのかしら?)
水中でじっとしている親友の姿を、天夏はただ見ていた。
間もなくして、咲季が水中から顔を出した。
「ねぇ、何してたの?」
ゴーグルをしたままの咲季に問う。
「水の中が綺麗だから見てたの」
「水の中?」
「うん。天夏もやってみなよ。すごく綺麗だよ!」
天夏は咲季に促されるままゴーグルを装着し、咲季の後に続いて潜る。
視界に広がる水の世界は煌々としている。クラスメイトたちの声も何となく聞こえきた。
隣にいる咲季が天を仰いでいる。天夏もつられて顔を上げると、波紋で揺らぐ青い空と太陽が見えた。不規則に光る水に、天夏は心を奪われる。
息を吐けば泡がゆらゆらと揺れながら水面へ上がり、波紋を作った。
(こうやって水中から空とか太陽とか見上げたことなかったなぁ)
思っていると咲季と目が合い、同時に笑った。
「女子はいいよなぁ……」
聞こえてくる女子たちの声を耳にした瀬輝は流れてくる汗を拭いながら言った。
男子は体育館でバレーボールをしており、今は休憩中だ。
「俺たちは明後日水泳だからそれまでの辛抱だよ」
隣にいる連朱がそう答えた。
「早く明後日になってほしいです……」
瀬輝は弱々しい声を発しながら周りに目を向ける。皆、暑さでグッタリしていた。
そんな中、ボールを弾く音だけが響いている。稜秩が壁に向かってサーブを打つ練習をしている音だ。
瀬輝は呆れたような顔で稜秩に声を掛ける。
「稜秩、元気だな……」
「これぐらいの暑さは平気だからな」
「何で平気なわけ……?」
「元々暑さにも寒さにも強いから」
「羨ましい限りで……」
そのやりとりの最中も、ボールを弾く音は響いている。
「というか、今からこの暑さでバテたら真夏はどうすんだよ」
「暑いんだからしょうがねぇじゃん……」
呟くように言った後、瀬輝は倒れるように横たわった。床のひんやりとした冷たさが頬に伝わってくる。しかし、それもすぐに温かくなる。
「……水泳の授業に乱入してこようかな……」
「変態扱いされるぞ」
「涼みたいだけだし……それ以外目的ねぇーし……」
「連朱だったらみんな歓迎するんじゃないか?」
「なっ……!?」
稜秩の言葉に連朱の顔は一気に赤くなった。
連朱は首をブンブンと横に振る。
「おっ、俺は行かないから……!」
「例え話だけで顔真っ赤だな」
「う、うるさい……!」
「先輩は純粋な人だからあたり前だろー……」
「……お願い……その話は、やめて……」
連朱は赤い顔を手で隠し、小さく言った。
程なくして集合の声が掛けられ、男子生徒たちは風も吹かぬ中、バレーボールを再開した。
二日後。
瀬輝は意気揚々と男子更衣室に入った。鼻歌を歌いながら制服を脱ぐ。
「どんだけプールに入りたかったんだよ」
「鼻歌を歌っちゃうくらい♪」
稜秩にそう言った後、瀬輝は隣にいる連朱をチラリと見た。
瞬間、胸が高鳴る。
連朱はワイシャツを脱いでいるところだった。それだけなのに妙に色気を感じる。露わになった腕や鎖骨。いつも部活の際に見ているそれらは今日も綺麗だ。
纏っていたインナーも脱ぐと、日々の筋力トレーニングで鍛えられた体が見えた。程よく筋肉がついたボディラインはとても美しく、本当に同じ歳なのかと思う程に瀬輝の心を魅了した。
思わず釘付けになる。
「……」
「……瀬輝」
「へっ……?」
「そんなに見られてると……着替えづらい……」
苦笑いで指摘された言葉に、瀬輝は顔を赤く染めた。
「すっ、すみません……!!」
慌てて瀬輝は外方を向いて自分の着替えを終わらせた。
そんな二人に目を配りながら、稜秩が「毎年こういうやり取りをしている気がする」と思っていた。
すると、いきなり更衣室のドアが開いた。
「悪い! 今日は水泳中止だ!」
「えっ……」
体育教師の瀧原の一言で室内は静まり返った。特に瀬輝は、言葉の意味を理解出来ずにいた。
生徒たちは皆、目を丸くする。
「先生、それどういうこと!?」
「配管が故障してるみたいで、プールに濁った水が流れてきてるんだ。業者に頼んで修理しないといけないから、今日はグラウンドでサッカーだ」
「えーっ!!」
「いつ終わんの!?」
「さあな……明日かもしれないし、明後日かもしれないし……」
「そんなぁ……」
「そういうわけだから、ジャージに着替えてグラウンドに集合だ。もう少し早めに分かれば良かったんだが……悪いな」
申し訳なさそうに告げると、瀧原はドアを閉めた。
密室となった空間に落胆の声が飛び交う。
そんな中、瀬輝はただ立ち尽くしていた。
(……先生は何て言って謝って、どんな指示をしたんだっけ……?)
「瀬輝、残念だね、楽しみにしてたのに」
(……あ、そっか。プールが壊れたんだ……)
連朱の言葉で理解した瀬輝は力なく息を吐いた。
「……そう……ですね……」
そして弱々しく返事をし、徐に着替え始める。
「あれ? 男子って今日水泳のはずよね?」
「そうだけど、何かあったのかな?」
天夏と咲季は体育館の窓から、グラウンドでサッカーをする男子生徒たちを見る。
その中に一人だけぽつんと立っている人がいた。
「瀬輝くん、ショックだったのかな?」
「結構楽しみにしてたもの。落ち込むわよ」
二人は微動だにしない瀬輝を見つめた。
そんな瀬輝の頭の中はプールのことでいっぱいだった。
(何で今日プールが故障すんだよ。明日でいいじゃん。俺らがプール使った後でいいじゃん……)
「瀬輝、ボール!!」
クラスメイトの声に瀬輝は目線を上げ、転がってくるボールをロックオンする。
そして、踏み出した。
「プールの……バカヤローーーーッ!!!!」
そう叫びながら渾身の力を込めてボールを蹴った。
ボールは勢いをつけてゴールへ飛んだ。しかしゴールポストにぶつかり、跳ね返る。
それは連朱の横顔に当たった。
「──っ!!」
「連朱!!」
ボールが当たった反動で倒れた連朱の周りに皆が集まる。
「……」
瀬輝は目の前の光景に我に返った。
(俺、何やってるんだろ……)
青ざめた顔で急いで連朱に駆け寄る。
保健室で手当てを受け、椅子に座って休む連朱に向かって土下座をする瀬輝は微動だにしない。
それを見ている連朱は苦笑いを浮かべる。
「瀬輝──」
「申し訳ありません!!」
「気にしなくていいよ。というか、もう顔上げて? ね?」
連朱に促され、瀬輝は少しずつ顔を上げる。その顔は涙と鼻水でグシャグシャだった。
それを見た連朱は、近くに置いてあったティッシュの箱を手に取る。
「まず、涙と鼻水を……」
「……ありがとうございます……」
瀬輝はティッシュを何枚か取って鼻をかみ、涙を拭く。
そうしていると、授業終了のチャイムが鳴った。静かだった校舎内も、少しずつ賑やかになっていく。
チャイムが鳴り終わる頃には瀬輝の涙も鼻水も治まっていた。
「先輩……ごめんなさい……」
「謝らないで。避けなかった俺も悪いんだからさ」
「いえ! 俺が怒りに任せてボールを蹴ったせいで先輩の綺麗な顔に傷を付けてしまったんです! いっそのこと、このボールを俺にぶつけてください! 気の済むまで、どうぞ!!」
瀬輝は跪きながら、どこからともなく現れたボールを差し出した。
突然のことに連朱は困惑する。
「いや、そういうのは出来ないよ……!!」
「ですがぁ〜……」
瀬輝の目からまた涙が溢れてきた。涙は手元にあるボールにボタボタと落ちていく。
すると、保健室のドアが開いた。
「お前ら何してんの……?」
連朱と瀬輝が作り出す異様な光景を目にした稜秩が呆れたような声音で言った。
「先輩に……ボールをぶつけてもらおうと……」
「連朱はそんなことする奴じゃねぇだろ。俺がやってやる」
「ヤダッ……!!」
即答した瀬輝はボールを大事そうに抱えて稜秩を睨んだ。
「冗談だっつーの。とりあえず早く着替えろ」
稜秩は二人の制服が入ったカバンをそれぞれ渡した。
「ありがとう」
瀬輝と連朱は制服に着替えようと、ベッドが置かれている方へ向かう。
「あ、そういや、プール直ったって」
「え?」
稜秩の話を聞いた瞬間、瀬輝は体の動きを止めた。
(……今、何て……?)
「業者に連絡したらすぐ来て修理してくれたんだと。だからこの後の授業で他のクラスがプール使うってさ」
「そうなんだ。すぐ直って良かったね、瀬輝──ってどこ行くの!?」
制服を置いて保健室を出て行こうとする瀬輝に連朱が声を掛けた。
瀬輝はピタリと歩みを止める。
「……プールです」
「プールに、何しに行くの……?」
「ちょっと……修理しに行くだけです」
引き攣った笑顔で瀬輝が振り返った。
その表情に連朱は焦りを感じた。咄嗟に瀬輝を羽交い締めにし、引き止める。
「ダ、ダメだよ!」
「止めないでください……!!」
眉間にシワを寄せる瀬輝は連朱の腕の中でジタバタと暴れる。
「何で今直るんだよ!! 元通りの状態にしてやる!! 寧ろ、もっと酷くしてやるっ!!!!」
「ダメだよ……!」
「停学か退学になるぞ」
「んなの今はどーでもいいっ!!!!」
「どうでもよくないから……!!」
連朱の制止の言葉は瀬輝には届かなかった。
そんな珍しい光景を見ながら、稜秩は「たかがプールでこれだけ怒れるのってすごいな」と思っていた。