色々スケッチ
遠くから聞こえる騒がしい声を耳にしながら、咲季は美術室のドアを開けた。室内は静まり返っている。
(まだ誰も来てないんだ)
思いながら電気も点けずに足を踏み入れ、自分のロッカーを開ける。そこからスケッチブックを取り出して、美術室を後にした。
美術部は週五日の活動日のうち二日だけ美術室に部員全員が集まり、活動をしている。それ以外は教室外で絵を描いたり兼部している部活動に参加している人もいる。
廊下を歩き、ふと窓の外を見た。
風が青々とした葉を揺らし、黒いアゲハ蝶を連れて来た。蝶はヒラヒラと舞っているかと思えば、窓の近くに咲く花に止まった。その羽は太陽の光に照らされ、青緑色に輝いている。
「……」
咲季は蝶から目を放さずにスクールバッグの中を漁り、携帯電話を取り出した。カメラ機能を作動させる。レンズ越しでも変わらない美しさに見惚れつつ、シャッターを切った。
夢中になって何枚か写真を撮っていると、蝶は飛び立っていった。
しばらく目で追い掛けたが、風に煽られて不安定に舞う姿もやがて見えなくなった。
視界に残る青空を見続ける咲季は唐突に思い立つ。
(天夏のところに行こう)
携帯電話をスクールバッグに仕舞い、三階にある特別教室へ向かうため、階段を上り始める。
特別教室は演劇部の活動場所だ。
三階にやって来た咲季は廊下を少し歩き、複数の声が聞こえてくる教室の前に足を運ぶ。窓の外からちょこんと顔を出して、室内を覗く。
演劇部の部員たちは発声練習をしていた。天夏もそのうちの一人だ。真面目に練習に取り組んでいる。それを見る限り、咲季には気付いていない様子。
(今、裏方をやってるって聞いてたけど、発声練習はみんなでやるんだ)
意外に思いながら咲季はスケッチブックを開き、真っ白な紙に天夏の姿をスケッチする。
天夏の髪は黒く、艶があってサラサラしている。目は大きくて睫毛が長くて肌も綺麗で、毎日手入れをしているのがわかる。
バーベキューの時は落ち着いた表情だったが、真剣な顔をする天夏も良いなと咲季は思った。
(……出来た!)
描き上げた絵と天夏を交互に見、咲季はその出来栄えに満足する。
(次は、連朱くんたちのところに行こう)
そっと特別教室から離れ、先程の階段を使って一階へ下りた。
真っ直ぐ続く長い廊下を歩き、弓道場の方へ向かう。近付くごとに、女の子たちの声が聞こえてくる。
(やっぱり、沢山いるなぁ)
弓道場が見える廊下の窓辺に並ぶ女子生徒たちを見て、咲季は思う。皆の目当てはもちろん連朱だ。同学年の子や先輩たちは、彼に熱い視線を送っている。
咲季も、向かって左側にいる弓道部員たちを窓越しから見る。
(あ、瀬輝くんこれからやるんだ)
瀬輝はぎこちなさが残る動作で射位に立ち、射法八節の一つ一つの行程を丁寧に行っている。真剣な面持ちで的を見つめるその表情を咲季は初めて見た。
瀬輝が矢を放つ。
放たれた矢は的の中心に程近い場所を射抜いた。
「すごい……」
咲季は小さな声を洩らして、思わず拍手した。
続いて本座で待機していた連朱の番だ。
連朱も弓矢を構えた。その横顔は全ての者を魅了する。
咲季は迷わずその姿をスケッチブックに描く。
連朱の顔のパーツは、バランスが良い上にそれぞれが整っている。キリッとした眉に、程よく吊り上がった目とそれを縁取るように目尻まで続く二重はとても絵になる。
さらに、筋が通った鼻と健康的な血色をしている唇。そして太陽に映える金色の髪は鮮やかで、描くのが楽しいとさえ思えた。
咲季は連朱から瀬輝に視線を移した。彼も、食い入るように連朱を見ている。
(連朱くんを見てる瀬輝くんの顔、すごく良いな)
新しいページに、瀬輝の姿を描き始める。
瀬輝は大きな垂れ目と赤い髪が特徴的だ。その顔は幼く、女の子っぽいと咲季は思っている。連朱や稜秩と比べて体が細いせいか、余計にそう見えてしまうのだ。以前、面と向かって瀬輝に言ったら複雑そうな表情をしていた。
スカートとかワンピースとか着たらきっと似合うだろうなと、咲季は一人で頷く。
二人をスケッチし終え、その場を後にして稜秩のもとへ行こうと武道館を目指す。
丁度、武道館と体育館の分岐点に来た時だ。
「ヤベッ!!」
そんな声と共に開け放されていた体育館のドアから、バスケットボールが飛んで来た。ボールは壁に当たり、小さくバウンドしながら咲季の足下へ転がって来た。
咲季はボールを拾い上げ、体育館へ近寄る。
すると、男子バスケットボール部の一人が出て来た。雰囲気的に、年上。
「ボール……」
ボールを持つ咲季を見た男子生徒は、思わず立ち止まった。そして直ぐ様、血相を変える。
「采之宮さん、ボール、当たってない!?」
「足下に転がってきただけなので当たってないですよ」
「そっか、良かった。びっくりしたよね。ごめんね!」
「いえ」
咲季は笑顔で答えてボールを差し出した。
「部活、頑張ってください」
「……あっ……うん……ありがと……」
ボールを受け取った男子生徒は体育館へと戻っていった。
その背中を見つつ、咲季は「バスケ部はハードで大変なのかな?」と思った。何故なら、彼の顔が赤かったから。
(……あれ? でも何であの人、あたしの名前知ってたんだろ?……ま、いっか)
特に気にすることなく、咲季は武道館へ行く。
武道館では剣道部と柔道部が活動をしている。出入り口に近い場所で練習をする柔道部の邪魔にならないように壁際を歩き、剣道部の方へ向かう。そこに、稜秩の姿を見つけた。今は部員全員で素振りをしている。
咲季は壁に凭れかかって座り、稜秩をスケッチする。動く度に揺れる銀色の髪はとても綺麗で、そこだけ別世界のように思えた。
竹刀を手に、素振りのメニューを着々と熟していく姿は実物も絵も、どちらも凛々しい。
描き上げた絵を満足げに見た後はスケッチブックを傍らに置き、面打ちを始める稜秩を見つめる。面の物見から見える瞳には、他の誰よりも熱意が籠もっている。
「城神くんって剣道強いよねー」
「そういう才能の持ち主なんだって!」
「きっと元から強いのよ!」
近くで楽しそうに話す女子生徒たちを、咲季はちらっと見た。その胸の内は少し複雑だった。
というのも、稜秩の剣道の強さは元からではないことを知っているからだ。
稜秩は小さい頃から剣道をやってきたが、最初はずっと負け続けていた。それでも毎日沢山練習をして体を鍛えて、勝ち負けを繰り返してきたからこそ、今の──誰にも負けないくらいの強さになったのだ。もちろん、そこに才能もあってのことだ。
「……」
咲季は女子生徒たちにそう伝えたいが、きっと「だから何?」と冷たく返されるだけだと思った。実際、小学生の時がそうだった。
(いっちーは努力家なんだ。何に対しても)
掛かり稽古をする稜秩を見つめる咲季は心の中で呟きながら、小さい頃のことを一つ一つ思い出していた。
「──き……咲季」
「……へっ……?」
名前を呼ばれ顔を上げると、しゃがんで此方を見ている稜秩が目の前にいた。
「……いっちー、部活は?」
「もう終わった」
気付けば稜秩は防具ではなく制服を身に付けている。
「ぼーっとしてたのか?」
「昔のこと思い出してた」
答えた後、咲季は立ち上がった。稜秩も立ち上がる。
「行くか」
「うん。あ、その前に美術室に寄ってスケッチブック戻さないと」
咲季は床に置いていたスケッチブックを手に取るり、稜秩と一緒に美術室へ向かう。
「今日は何スケッチしてたんだ?」
「部活をしてる天夏と連朱くんと瀬輝くんといっちー」
「随分転々としたんだな」
「今日はみんなを描きたい気分だったんだー」
話している途中、窓の外に咲く花を目にした咲季は蝶の写真のことを思い出した。
「そういえばさっき、この花に綺麗な蝶が止まってたんだよ!」
咲季は立ち止まってスクールバッグから携帯電話を取り出すと、その写真を稜秩に見せた。
「すげー綺麗だな。アゲハ蝶か?」
「うん。何て言うアゲハ蝶かわかんないけど」
「咲季ってこういう写真撮るの好きだよな」
「うん!」
咲季は笑顔で頷いた。
その携帯電話の写真フォルダの中にはもちろん稜秩や天夏たちと撮った写真も保存されているが、動植物や昆虫などの写真の割合が圧倒的に多い。本人曰く、撮りたいから撮っているだけ。
そんな話をしていると美術室に辿り着いた。美術室は先程と同様、電気は点いていない。
ドアを開ける音だけが響く。
咲季は電気も点けず、スケッチブックを元の場所へ仕舞う。
「美術部って自由だよな」
ドア付近に立つ稜秩の声はそこまで大きいものではなかったが、しっかり咲季の耳に届いた。
「先生がそれをモットーにしてるからね。おかげで色んなもの描けるから楽しいよ!」
咲季はにこやかに笑ってロッカーのドアを閉めた。軽やかな足音を響かせて稜秩に駆け寄り、ドアを閉める。
二人の足音と話し声は次第に遠くなり、美術室はまた静寂に包まれた。