夢のために
昼下がり。
盛り上がった花見も終わり、咲季と稜秩は帰路についていた。楽しかった時間を思い返すように歩きながら、ゲームをしている。今は、一文ずつ交代で物語を作っていく物語作成ゲームの最中。
「『──こうして、うさぎ村は平和を取り戻しましたとさ。』」
「『めでたし、めでたし。』……すごく素敵なストーリーになったね!」
咲季は屈託のない笑顔で、小さく拍手をする。
「ゼルくんがビームで村を破壊し始めた時はどうなることかと思ったけど」
「あいつも改心してうさぎたちと仲良くやってるから大丈夫だ」
「よかった、よかった」
「もしかしたらこの後、空からゼルが飛んでくるかもな」
「えっ、そんなことになったら大変だよ」
咲季は反射的に空を見る。いつもと変わらない平穏な空だった。そこに、少し欠けた月が浮かんでいる。その姿は周囲の雲に溶け込むように、微かに見える程度。
「月が綺麗だな」
「うん」
稜秩も月を見ていたようで、隣から穏やかな声がした。
咲季は頷きながら返事をする。同時に、以前稜秩から借りた本のことを思い出していた。奥手な男女のラブストーリーを描いた小説。その中で主人公が口にした言葉が、稜秩の言葉と重なる。
故に、どちらの意味か分からなくなった。愛の告白か、月に対してか。
「いっちーと見る月だからだよ」
咲季は咄嗟にヒロインのセリフを口にした。
稜秩の顔がこちらを向く。彼と視線を交わらせると、意外そうな表情が見えた。
「その返答が来るとは思わなかったな」
「……あたし、深読みしちゃったね」
「まあ、そうだな。でも嬉しい。それ『6月の月』に出てくる言葉だろ?」
「うん。急に思い出して」
「瞬時に出てくるのはすごいな」
「印象に残ってたシーンだからだと思う」
二人は言葉を交わしながら、どちらからともなく手を繋ぐ。右手から伝わる安心感が、咲季の表情を緩ませる。
「あ、そうだ。卒アルの寄せ書きを書きたいから、この後、咲季の家に行っていいか?」
「うん、いいよ」
脈絡もなく出てきた言葉を、咲季はすんなり受け入れた。稜秩が寄せ書きのメッセージを誰にも見られたくないということで、卒業の日以降に書き合う約束をしていたからだ。
家に寄って卒業アルバムを持ってきた稜秩とともに、自宅へ戻る。
咲季は部屋の本棚に置いていたアルバムを取り出し、稜秩のと交換する。真っ新だった寄せ書きのページは、ほぼ埋まっていた。さすがだと思いつつ、左のページの中央、綺麗に空けられたスペースに書き始める。メッセージの内容は既に決めていたので、迷いはない。
『夢、実現させようね!』
たった一言。だが、咲季にとっては大きくて大切な言葉。書いた文字を改めて見て、微笑む。
しばらくそうしていると、ページが開かれたアルバムが返ってきた。咲季も持ち主にアルバムを渡す。
そして、新しく増えたメッセージに目を落とした。
『咲季とは生まれた時からずっと一緒だったから別々の進路になるのは寂しいけど、その分たくさん会おうな。夢を実現させるのを、隣で見ていてください。』
顔を上げると、真剣な眼差しと視線が交差する。
少しの間見つめあった後、咲季は立ち上がって稜秩の隣に移動した。そのまま、肩に寄り掛かる。
「隣で見てるし、お手伝いもするよ」
そっと伝えると、頭を優しく撫でられた。真上から「うん」と穏やかな声が聞こえる。咲季はふにゃっと表情を緩め、稜秩にしばらく身を委ねた。
四月一日。
朝食を済ませた咲季は、自室でメイクをしていた。テーブルの上に置いたメイクポーチからアイブロウペンシルを取り出し、眉を描いていく。手慣れたもので、数秒で納得のいく形になった。アイブロウペンシルを、元の場所へ戻す。
メイク道具を入れている半円型のポーチは、先日稜秩が買ってくれたもの。二人で商品を選びに行った際、一目惚れした。特に気に入っているのは、オレンジと白のツートンカラーのデザイン。これだけで「欲しい」と思ったほどだ。
メイクを終わらせ、白のブラウスと黒のスラックスに着替える。袖を通すのは試着の時以来。
ブラウスの上に、オレンジ色のカーディガンを羽織る。これは、卒業祝いとして志保がプレゼントしてくれたうちの一つだ。
髪をうなじに近い場所で一つに纏め、部屋に置いてある姿見に自身を映す。皺のない服は、気持ちを引き締めてくれた。自然と背筋が伸びる。
咲季は携帯電話を手に取り、カメラ機能で鏡に映る自分を撮影した。撮った写真を文章とともに志保に送る。
《志保ちゃんがくれたカーディガン、可愛いしすごく着心地がいいよ! ありがとうね!》
数分もしないうちに、返信が来た。
《喜んでもらえて嬉しいです! とても似合っています! お仕事頑張ってください!》
返ってきたメッセージを読む咲季は、笑みを絶やさずにいた。
必需品等を入れたレザートートバッグを持ち、一階のリビングへ行く。
「どうかな?」
「うん、すごく似合ってるわよ」
問いかけると、微笑む母が答えてくれた。
その隣で頷く父は顔を逸らす。鼻を啜る音が聞こえた。
「……お父さん、泣いてる?」
「ちょっとね……こんなに成長したんだなぁとか色んな感情が出てきて……」
話している間に、涙声に変わった。父はメガネをずらし、溢れてくる涙を手で拭う。
今日でここまで泣くのなら、結婚式はどうなってしまうのだろう。母と娘は、そんなことを思わずにはいられない。
父の涙が止まった頃、そろそろ家を出る時間となった。咲季は忘れ物はないか確かめ、トートバッグを手にして玄関へ向かう。
パンプスを履き、見送ってくれる両親と向かい合う。
「じゃあ、行ってきます!」
「行ってらっしゃい!」
二人の明るい表情と声を背に、家を出る。
ひと呼吸置き、高校三年間の通学路だった道を進んだ。見知った場所を着慣れない服装で歩くのは、心なしか緊張してしまう。右肩に掛けたバッグの持ち手を両手で掴み、それとなく周囲を見た。
スーツやコートに身を包んだ人たちが、忙しなく行き交っている。仕事へ向かっている大人たちも、初出勤の時は緊張していたのだろうか。そんなことを考える。
すると、前方に稜秩の姿が見えた。自身の家の前で立っている。驚く咲季は、彼のもとへ駆け寄った。
「おはよ」
「おはよう! いっちー、ここで何してるの?」
「出勤する咲季を見送りたいから待ってた」
思ってもみない理由に、咲季は照れ笑いを浮かべる。直後、ちょっとした疑問が出てきた。
「でも何でこの時間に家を出るって分かったの? あたし何も言ってないのに」
「ん? 直感」
「直感なんだ」
「そう、直感」
一瞬見つめ合った二人は、同時に笑い出す。
おかげで、咲季の緊張はどこかへ行った。
「いっちーに会えて嬉しい」
「俺も」
満面の笑みを浮かべる咲季だが、ハッとして腕時計を見る。
「あ、もうすぐバスが来るからそろそろ行かなくちゃ……!」
「引き留めて悪い……」
「ううん、気にしないで。行ってきます!」
「気を付けろよ」
「うん!」
稜秩に手を振り、小走りでバス停へ向かう。
角を曲がると、バスを待っている数人が列をなしていた。咲季は最後尾に並ぶ。
程なくしてバスが到着した。車体の中央にある扉から乗り込み、整理券を取る。車内は既に満席で、一緒に乗車した何人かは立っていた。咲季も座席近くの手すりに掴まる。
扉が閉まり、バスが発車した。
バスに揺られること約十五分。咲季は図書館の最寄りのバス停で降りた。図書館は車道を挟んだ反対側にある。横断歩道の手前で、青信号になるのを待つ。
すると、向かいの歩道で同じく信号待ちをしている人の中に、連朱と章弛の姿を見つけた。
図書館と市役所は徒歩五分圏内の場所にある。それなら会うよねと、咲季は納得した。
(二人ともスーツだ。カッコいい)
新鮮な装いに釘付けになっていると、信号が青になった。自分に気付いてくれるだろうかと彼らに視線を送りながら、横断歩道を渡る。
徐々に距離が縮まる。もうじきすれ違う、というところで、二人と目が合った。驚いた表情が二つ並んでいる。
咲季が笑顔を見せると、驚きが笑みに変わった。
横断歩道を渡り終え、道の端で振り返る。
連朱は小さく、章弛は大きく手を振っている様子が見えた。
咲季は顔の近くで手を振り、二人を見送る。
「……あたしも頑張ろ」
ぽつりと呟き、歩き出す。
ふと見上げた空は、青く澄んでいた。