身長
冬休みが明けると、学校の掲示板には卒業式までのカウントダウンが張り出されていた。しかし、その日まではまだ時間があるため、実感が湧かない生徒も少なくない。
そんな中、今日も通常授業が行われている。
三年三組の二時間目は化学。今回は授業中に実験があるため、瀬輝は教科書や筆記用具を手に、化学室へ向かっていた。
数歩先を歩いているのは、咲季と天夏。二人は昨日放送された音楽番組の話で盛り上がっている。好きなアーティストの最新曲をフルサイズで聴けたとかコラボ企画も良かったとか、話題は尽きない。
すると、咲季の筆箱に付けられたラバーキーホルダーがぽとりと落ちた。話に夢中になっているせいか、持ち主は気付かない。
床に落ちた黒うさぎのキーホルダーを瀬輝が拾う。
「チビッ子ー、落としたぞー」
「えっ?」
振り返った彼女は差し出されたキーホルダーを見た後、筆箱に視線を移す。教科書やノートと一緒にいる筆箱は、装飾品を身につけていなかった。
「ごめん、ありがとう!」
咲季は慌てて瀬輝からキーホルダーを受け取る。その時、二人の視線が交わった。
真っ直ぐな眼差しが、しばらく瀬輝に向けられる。
「……?」
視線を受けている瀬輝は小首を傾げた。何も言わない彼女にどうしたのか問おうと口を開こうとする。しかし、咲季は踵を返して天夏と歩き出した。
(え、今の時間は何……?)
遠ざかっていく小さな背中を呆然と見つめる。そんなことをしても答えは出てこない。
すると、後ろから稜秩の声が飛んできた。
「何で咲季と見つめ合ってたんだ?」
「いや、俺が理由知りたいんだけど」
「とりあえず行こうか」
疑問を残しつつ、連朱の言葉に従って目的の場所へ再度足を進める。
化学室に着いて机に荷物を置いた瀬輝は、咲季に話しかける。
「チビッ子、俺の顔に何か付いてるのか?」
「え、付いてないよ」
「じゃあ何でさっき俺の顔ガン見してたんだ?」
「あー、それね……」
咲季は視線を少し彷徨わせた後、ちらちらと瀬輝を見た。
「瀬輝くん、さらに身長高くなっている気がするなーって思って」
「えっ、そうか!? 四月の身体測定の時は166cmだったけど……というか、それならさっき言えばよかったじゃん」
「言おうとしたけど、違ってたら瀬輝くん傷つくだろうなって思って言うのやめたの」
最もな理由に、瀬輝は腑に落ちた。変な間が生じたのも頷ける。同時に、そこまで考えていたのかと心が和らいだ。
そして、自身の身長を知りたくなる。計りに行こうかとおもうが、確実に身長が伸びたと分かるものが欲しい。
ふと周りを見ると、天夏が視界に入った。
「天夏って、四月の身体測定の時は身長何cmだった?」
「167cmよ」
「ちょ、ちょっと俺と背比べしよ!」
「いいわよ」
突然のことだが快く受け入れてくれた彼女と背中合わせになる。二人の身長差を、連朱が見た。
「あ、瀬輝の方がちょっと高い」
「本当ですか!?」
「うん。これくらい」
連朱は親指と人差し指を使って、身長差を表す。3〜4cmはありそうだった。
「170cmあるかも! じゃあ身長測りに──」
化学室を出ようとした時、チャイムが鳴った。授業が始まる合図だ。
「測りに行くのは次の休み時間だね」
「そうですね……」
瀬輝は肩を落とし、大人しく席に着く。
程なくして教科担任がやって来て授業開始となった。化学の授業の中でも実験は特に好きな瀬輝だが、今回ばかりは時計に意識が向いてしまう。しかし、授業が始まってまだ五分しか経過していない。
(今日は時間経つの遅い気がする……あー、早く何cmになったか知りたいー! 170cm超えてるといいな。理想の高さだし、先輩と同じ170cm台だし)
考えるだけで胸が高鳴った。自然と体がもぞもぞと動く。すると、同じ机に着いている稜秩が小声で話しかけてきた。
「瀬輝、これから火を使うんだから集中しろよ」
「お、おう……」
真剣な声音に瀬輝は苦笑いを浮かべた。気が散った状態で実験するのは確かにダメだと、気持ちを改める。
そうしていると、時間はあっという間に過ぎた。
授業が終るや否や、保健室に直行する。稜秩と連朱も一緒に来てくれた。
「先生、身長測っていいですか?」
「どうぞー」
保険医の柳河に声を掛け、靴を脱いでから身長計の起立板に乗る。稜秩が操作する横規が、頭頂部に軽く触れた。
「何cmだ?」
「169.5cm」
「は?」
「169.5cm」
二度も同じ数字が稜秩の口から出てきた。瀬輝は慌てて起立板から降り、目盛りを確認する。確かに言葉通りだった。
だが、納得がいかない。
「測り方が悪いんじゃねぇの!?」
「じゃあ今度は連朱に測ってもらえ」
「先輩、お願いします!」
「いいよ」
連朱は横規を上げ、瀬輝はもう一度起立板に乗る。降りてきた横規の感触が頭に伝わってきた。
「先輩、何cmですか?」
声を弾ませて問いかける。
すると、連朱は「あー……」と声を漏らした。
「えっと……169.5cm……」
「え?」
端麗な顔を見上げる。彼の笑みは引き攣っていた。
現実を突きつけられた瀬輝は、静かに身長計から離れる。
「あと0.5cmじゃん……!」
目に涙を浮かべ、頭を抱える。思い描いていたものに僅かに届いていない数字が、心に影を落とした。
「成人しても身長伸びる人もいるから心配すんな」
「0.5cm分けろ」
「それが人に頼む態度かよ」
稜秩の励ましの言葉に瀬輝は睨みを返す。
それを苦笑いで見ていた連朱が会話に入ってきた。
「でもさ、入学した時から見ると随分身長伸びたよね」
穏やかな声を耳にした瀬輝は、パッと声の主に視線を送る。優しい笑顔が自分を見ていた。
(ちょっと見上げるだけで先輩の顔が近くにある……!)
入学当時と比べて、彼との身長差が小さくなっていることを実感する。その頃は161cmだったが、それが今や169.5cm。連朱とは10cmほどの差だ。思わずニヤけてしまう。
「伸び、ましたね。へへっ」
「鼻の下も伸びてるぞ」
「は!?」
瀬輝は慌てて鼻と口を両手で覆い隠す。指摘してきた稜秩に目を向けると、彼の意地悪な笑みが見えた。
「……嘘か?」
「さあ、どっちかな?」
変わらぬ表情はどこか余裕があった。それが真実味を感じさせる。実際、瀬輝の鼻の下はまあまあ伸びていた。
しかし、瀬輝は「揶揄われているだけかもしれない」という気持ちも捨てきれずにいる。
「そろそろ教室戻るぞ」
真偽を確かめる術もなく、稜秩が動き出した。
保険医の柳河に「ありがとうございました」と一言添え、瀬輝と連朱も保健室を後にする。
教室へ行くと、咲季と天夏が待っていた。
「瀬輝くん、どうだった?」
「169.5cmだった」
さらりと言った笑顔は曇り一つない。予想より僅かに低い数字のはずなのに、明るい表情なのは何故なのか。二人は怪訝そうにする。
「170cmじゃなかったのに何か嬉しそうね」
「俺にしか分からない新たな発見があったからな」
「え、どんなこと?」
「ひみつ〜」
朗らかな口調の瀬輝は控えめに連朱に視線を送った。近くに感じられる彼の顔を見る度、喜びに心を擽られる。
その締まりのない表情と視線が、連朱以外の三人に「ひみつ」の内容を何となく勘付かせた。