稜秩の年末年始
十二月二十九日。
昨年末に自身で決めた通り、稜秩は家族が渡露する中、単身で日本に残っていた。彼らが帰宅する日まで、咲季の家にお世話になっている。
「お風呂沸いたから、どちらか先に入りなさい」
「いっちーが先に入っていいよ!」
「え、いいのか?」
「うん!」
稜秩は言葉に甘えることにした。入浴の準備をするため、自身の荷物を置いた咲季の部屋へ行く。
下着やパジャマなどを手に取ったが、忘れ物に気付いた。
「シャンプー一式忘れてきてんじゃん……」
頭を抱え、苦笑いを浮かべる。自宅に取りに帰ることを考えたが、面倒なのでやめた。
(今日一日だけ咲季から借りるか。明日取りに行けばいいし)
リビングに戻り、咲季に声をかける。
「咲季、シャンプーとか忘れてきたから今日だけ借りていいか?」
「うん、いいよ! あたしのはピンク色の容器のだから」
「ありがとう」
稜秩は浴室に行き、入浴する。シャワーで髪や体を濡らして咲季のシャンプーを借りる。泡立てて髪を洗っていると、ほんのりと甘いフローラル系の香りが広がった。嗅ぎ慣れた匂い。
(咲季の匂いだ)
たった一瞬で心が浮き立ち、口元が緩む。ひとつの香りで幸せが全身に満ち溢れた。シャンプーを忘れてきて良かったとさえ思う。
同じ香りを纏う嬉しさに、いつもより長めに髪を洗った。
上機嫌に風呂から上がり、リビングへ行く。入浴の準備をする咲季の近くに、律弥の姿があった。今し方帰宅した様子。家族と話しながら室内を歩く彼に近づく。
「こんばんは」
「あ、稜秩くん。こんばんは」
「今日から一週間、お世話になります」
稜秩は姿勢正しく頭を下げる。すると、優しい声音が耳に届いた。
「そんなにかしこまらないで。自分の家だと思って過ごしていいから」
「はい」
にこやかな表情を見せる律弥からの言葉は、歩乃も言ってくれた言葉だった。
過去にこの家に一泊することはあったが、長期間お世話になるのは今回が初めて。それでも二人が同じように迎えてくれる。嬉しさと有り難さで胸が一杯になった。
夕食も済ませ、就寝時間が近づいてきた頃。
咲季の部屋で寝ることになった稜秩は、ベッドの横の床に床に布団を敷く。綺麗に整えた布団の上に座ると、後ろから覆い被さるように咲季が抱きついてきた。彼女の鼻がスンスン鳴る。髪の匂いを嗅いでいるらしい。
「な、何だよ……」
「あたしと同じ匂いだなーって思って」
耳元で聞こえる声は嬉しそう。また匂いを嗅ぐ音が聞こえる。稜秩は急に恥ずかしくなってきた。
「……寝るぞ」
「えー! まだ眠くないよ」
「間接照明だけ点けて喋ってたら眠くなるだろ」
「あ、それはそうだね」
背中から離れた咲季がヘッドボードに置いてある間接照明を点け、ベッドに入った。それを確認し、稜秩は壁に取り付けられた照明のスイッチを切る。オレンジ色の光を頼りに布団に潜り込んだ。
「こうやって咲季の部屋で一緒に寝るのは久しぶりだな」
「あたしがいっちーの家に泊まりに行くことが多いもんね」
ベッドに目をやると、にこにこと笑う目と視線が合った。
「楽しそうだな」
「うん、楽しい! 一週間いっちーと一緒にいられるし、今年は一緒に年越しも出来るし!」
弾んだ声は当時──小学三年生の時と変わらない。しかし、動作は少し落ち着いている。それもそうかと、稜秩は納得した。
「高校生活最後の年末年始だしな」
「高校生でいられるのもあと三ヶ月だね」
「咲季と連朱は社会人か」
「うん。ひと足先に」
既に就職活動を終わらせた咲季は図書館へ、連朱は市役所への就職が決まっている。
進学組の稜秩、天夏、瀬輝は共に専門学校の入試に合格し、四月から専門学生だ。
(もうすぐみんなとバラバラになるのか。全然実感ないな)
「いっちーにとって今年はどんな一年だった?」
ぼんやり思っていると、問いかけられた。
「良い一年だったよ。咲季と隣の席になれたし、学校も楽しかったし。部活引退してあんま剣道やらなくなって寂しいってのはあったけど」
「でも、専門学校にも剣道部ってあるんでしょ?」
「あるある。すぐ入部する」
稜秩は即答した。それほど剣道も好きなのだと、ひしひしと感じる。
「咲季は? どんな一年だった?」
「あたしはねー、色々あったなぁっていう一年だった。志保ちゃんとも仲良くなれたし、雪村先生の絵をみんなに見てもらえて嬉しかったし。天夏がデザインした服を着てメイクもしてもらってランウェイを歩いて。すごく貴重な体験だったなぁ。それに、一年間いっちーの隣で勉強出来て嬉しかった!」
今年を振り返る表情は飛び切り明るい。楽しい思い出が沢山あるのだと見て取れる。
その後も一年間のことを語る咲季の話を、稜秩は飽きることなく聴いていた。
そして、あっという間に大晦日がやってきた。咲季の家では毎年年越しそばを食べているため、稜秩も一緒に食べた。
あと二時間もしないうちに年が明ける。小学三年生の時以来の日本での年越しに、体がそわそわし始めた。二十二時から始まった年越し番組の内容さえ、あまり頭に入らない。
落ち着きのない様子は、咲季も歩乃も感じていた。
あと数十秒。テレビに映る律弥たち芸人や、俳優、歌手といった様々な芸能人たちが慌ただしくなる。画面に表示された数字とともに、全員が声を合わせてカウントダウンを始めた。
午前0時になった瞬間、テレビから「明けましておめでとー!」という声がいくつも飛び交う。
「お母さん、いっちー。今年もよろしくお願いします!」
「よろしくお願いします」
咲季に新年の挨拶を返し、歩乃とも挨拶を交わした。そうして、テレビに視線を戻す。芸能人たちが新年の抱負を語っていた。今度は律弥の番だ。
《末長く家族と一緒にいたいので、健康に気を使って仕事もバリバリこなします!》
笑顔で抱負を述べると、相方の竜生が「いや、ボケろよ!」と突っ込んだ。会場も、テレビ前にいる稜秩たちも同時に笑う。
(八保喜、このシーン何回でも観そうだな)
今は両親とともに渡露している、弥生ファンの彼が取りそうな行動を予想する。帰国し、録画したこの番組を観る日が来るのが少し楽しみになった。
稜秩は目覚まし時計のアラームで目を覚ました。咲季がそれを止めている音を耳にしながら、ゆっくりと伸びをする。
布団から起き上がると、寝ぼけ眼と目が合った。
「おはよ」
「おはよう」
のんびりとした声が返ってきた。乱れた髪を直すことなく、咲季がカーテンをそっと開ける。外はまだ薄暗い。
二人は一階に下り、リビングへ行く。そこにはまだ誰の姿もない。
「歩乃さんはまだ寝てるみたいだな」
「うん。もうすぐ起きてくると思うけど」
稜秩も咲季も、声を顰めて話す。
「ねぇ、あたしたちで朝ご飯作ろう」
「いいけど、俺もキッチン使っていいのか?」
「大丈夫だよ。そういう決まりないし。あ、でもうちのキッチンだと腰痛くなるかな」
「まあ、そこは臨機応変に」
二人は準備を整え、朝食作りを始めた。
稜秩は三人分の目玉焼きを作りながら一緒にウインナーも焼く。ちらりと見た隣には、味噌汁用の野菜を切っている咲季の姿。無意識なのか、彼女は鼻歌を歌っていた。
(こうやって一緒にキッチンに立って料理作るっていいな。何か──)
「新婚生活みたいだね」
言葉の続きが、咲季の口から出てきた。驚いて彼女と目を合わせる。
「……」
「例え、変だった……?」
「あーいや、同じことを俺も考えてたからびっくりして……」
「そうなの? 嬉しいなぁ」
咲季は表情を緩め、止めていた手を動かす。その横顔から笑みが途絶えることはない。
つられて、稜秩も微笑んだ。朝から幸せな気持ちで満たされ、良い年明けだと噛み締める。
「あら、二人でご飯作ってたの?」
パジャマ姿の歩乃がリビングにやってきた。
咲季の明るい声が部屋に響く。
「うん! 準備は全部あたしたちでやるから、お母さんは座ってゆっくりしてて」
「ありがとう」
言葉に甘え、歩乃はリビングの食卓に着いた。そうして、キッチンに立つ二人を見る。和気藹々とした雰囲気が心を和ませてくれた。将来も、こんな風に料理を作っているのだろうかと楽しみになる。
微笑みを浮かべ、テレビのリモコンに手を伸ばした。ボタンを押して電源を入れる。全国の各所から、初日の出の中継を行なっている番組が放送されていた。
「こっちもあとちょっとで日の出だね」
「そうね」
二人の会話を聞きながら、稜秩は正面のテレビを一瞥する。ヘリコプターから撮影しているらしく、画面には富士山上空が映っていた。まもなく、地上線から太陽が顔を出すらしい。
(そういや、初日の出見るのって久しぶりな気がする。毎年日が昇ってから起きてたし)
その瞬間を待ち遠しく思いながら、目玉焼きとウインナー、ミニトマトなどを皿に盛り付ける。
《あっ! 見えてきました!》
実況をしている女性アナウンサーの声に、またテレビに目を向ける。地平線からゆっくりと太陽が昇ってきた。オレンジ色の光が、富士山のシルエットを浮かび上がらせる。息を呑むほど美しい。
「綺麗だね」
「あぁ」
日の出に見惚れるあまり、吐息に近い返事になった。しかし稜秩は気にしない。手を止めてしばらくの間、テレビ越しの初日の出を楽しんだ。
それから間もなく別の番組が始まった。律弥と竜生のコンビ──弥生を含む大勢の芸人の漫才やコントが繰り広げられるお笑い番組だ。
稜秩も毎年帰国してから録画したこの番組を観ている。リアルタイムで視聴するのは小学三年生ぶり。朝から笑いの絶えない朝食は新鮮だった。
食後は食器洗いを担当した。自分が使ったコンロ周りも綺麗に掃除をする。
空いた時間には、瀬輝たちからの新年の挨拶メールに返信をし、家族とはテレビ電話で話しをした。ひとつひとつのことが、稜秩にとって楽しいものだった。
日が傾き始めた頃。
律弥も含めて四人で初詣へ向かった。神社は歩きづらいとまではいかないが、それなりに参拝者で賑わっている。
(はぐれそうだな)
稜秩は何の気なしに、隣を歩く咲季の手を握ろうとする。しかし、既の所で動きを止めた。前を歩く律弥の後ろ姿に目がいく。
(どうしよ……)
人前で手を繋ぐことにそれほど抵抗はない。しかし、両親──特に彼女の父の前だと躊躇してしまう。小さい頃ならまだしも、今は十代後半。稜秩にも恥ずかしさはあるし、気を遣う。
(でも咲季とはぐれたら嫌だしなぁ……)
すると、右手をそっと握られる感触がした。視線を下に向ける。咲季の明るい笑顔が目に映った。
「人多いね」
「お、おぅ……」
「どうしたの?」
「いや、何でも……」
不思議そうに見上げてくる咲季は、握った手を離そうとはしない。少々戸惑う稜秩だが、嬉しさも感じていた。手を握り返す。
「あとで屋台で何か食べ物買おうかなって思うけど、どうかな?」
不意に律弥が振り向いた。
「さんせーい!」
「俺も賛成、です」
問いに答えている途中、メガネ越しの視線が繋がれた手に注がれたのが分かった。少し緊張する。
「うん」
頷きと共に、微笑みが返ってきた。笑っているが、どこか寂しそうな雰囲気のある笑み。その反応は、稜秩にとって意外だった。
(動揺するかと思ってた……)
「ねぇ、たまにはお父さんとお母さんも手を繋いでみたら?」
「えぇ!?」
愛娘の提案は律弥を動揺させた。慌てふためく様は、まさに稜秩が想像していた姿だ。ずれたメガネを掛け直す手が下ろされると、歩乃がそっとその手を握った。
「たまにはいいじゃない」
柔らかい声と表情は、彼の動揺ぶりを鎮めた。
「あぁえ、うん……」
律弥の反応はぎこちないが、拒むことはない。ただ恥ずかしいだけ。彼の赤くなった耳を見た稜秩は、何度か小さく頷いた。
(歩乃さんも積極的だなぁ……)
少し驚きつつ、何気なく咲季を見る。同じようなタイミングで彼女もこちらに顔を向けた。視線だけを絡ませ、微笑み合う。
また前方を向くと、手を繋いだ二人の後ろ姿が視界に入った。滅多に見られない様子が、稜秩の心を和ませる。
(いいな。こういうの)
心地よさを感じながら空を仰ぐ。綺麗に晴れ渡った青空には、小さな雲がゆっくりと流れていた。