一人きりの放課後ののち
「咲季、また明日な」
「うん、バイバイ!」
席から立ち上がり、声を掛けてきた稜秩に笑顔で手を振る。今日は稜秩とは別々に帰る日。これから家族と車で出掛ける彼が教室から立ち去ると、咲季は机の中からスケッチブックを取り出した。
(何描こうかなー)
「チビッ子はまだ帰らねぇの?」
リュックサックを背負った瀬輝が問うてきた。咲季は頷く。
「うん。ちょっと絵を描いてから帰ろうって思ってて」
「そっか。俺たちは先に帰るから」
「また明日ね」
「バイバイ」
瀬輝と連朱とも別れの挨拶を交わす。すると、それに続くように、天夏も席を立った。
「私も行くね」
「うん。いってらっしゃい!」
「いってきます」
恋人の哉斗と放課後に会う約束をしている彼女を笑顔で見送る。そうした後、机の上に置いたスケッチブックの表紙に目を落とした。
美術部に所属していた時から使っていたそれには、細かい傷がいくつも付いていた。それと共に、沢山の思い出も詰まっている。
そこに新たに描き足そうと、スケッチブックの真っ新なページを開いた。ペンケースから鉛筆を取り出して、描く体勢になる。
「……」
しかし、気持ちがついてこない。心や頭がぼんやりしている、そんな感じだった。
とりあえず、適当に何か描いてみる。手始めに、黒板の上に設置された時計を模写していく。だが、すぐに手が止まった。
(……違う)
違和感を感じ、描いた線を消しゴムで消す。
そして、白くなったページをぼーっと眺めた。
「……」
咲季は不思議に思う。
(急に描きたいって気持ちがなくなってきたなぁ……何でだろ)
考えるが、答えは出ない。そういうこともあるだろうと小さく頷く。
そんな時は描かなければいいとスケッチブックを閉じ、鉛筆と消しゴムをペンケースに戻した。
荷物をまとめて帰る支度をしていると、携帯電話がメールの受信を知らせてきた。制服の上着のポケットから携帯電話を取り出し、液晶画面に表示された送信者の名前を見る。稜秩だった。
咲季は胸を弾ませてメールを開く。
《母さんがまた絵を描いてほしいって言ってる。》
思ってもみない話に自然と頬が緩んだ。すぐに返信する。
《えっ、本当!? いつでも描くよ!》
《母さんが楽しみにしてるって。》
《私も楽しみ!》
短いやり取りではあったが、それだけでも心が躍る。その気持ちのまま荷物をスクールバッグに詰め、教室を後にした。
昇降口で靴を履き替えて校門に向かって歩き出す。すると、部活動の一環として学校の外周を走っている生徒たちの姿が見えた。その中に、父の律弥のファンである志保もいる。
彼女は、部活動仲間と思われる女子生徒と声を掛け合いながら走っていた。
その姿は、キラキラと輝いて見える。
(楽しそうだなぁ)
咲季は微笑み、遠ざかっていく彼女の様子を見ていた。
校門を出て、通い慣れた道を歩く。これからどうしようかと考え、少し寄り道をすることにした。
しばらく歩いてやって来たのが商店街。道の左右に建ち並ぶ様々な店は賑わっていた。
ゆっくりと歩きながら、店先に置かれた商品を見ていく。
すると、雑貨屋に置いてあるオオカミのぬいぐるみに目が留まった。それはキリッとした顔つきでお座りをしていた。
「いっちー、これ可愛い──」
声を発して隣を見る。しかし、そこには誰もいない。
「……」
空気に話しかけたことに恥ずかしくなったが、それ以上に寂しさが大きかった。咲季は小さくため息をつく。
(……帰ろ)
重い足取りで歩き出し、商店街を抜ける。
(いっちーと下校しない日なんて今まで何回もあったのに、何で今日は寂しくなるんだろ……)
家路につきながらぼんやりと思う。
帰宅して自室の机に向かっていても、咲季は心ここに在らずの状態だった。
宿題を中断して机から離れ、静かにベッドに横たわる。ふと、枕元に置いているウサギのぬいぐるみが視界に入った。それを、両手で包み込むように持つ。
ぬいぐるみは、小学生の時に稜秩が作ってくれたもの。貰った当時からお気に入りの一つで、ずっと枕元に置いている。
「いっちー、今何してるかなぁ……」
横向きに寝ながら、ぬいぐるみに話しかけるように呟く。稜秩に連絡をする手段もあるが、用事もないのにそうすることには気が引けた。家族水入らずの時間を過ごしているのなら尚のこと。
ぬいぐるみを元の場所に戻し、ゆっくり伸びをする。
「……勉強しよう」
気持ちを切り替え、ベッドから立ち上がる。机に向い、やりかけの宿題に取り掛かった。
夕飯の時間が近づく頃。咲季はリビングで母の手伝いをしていた。
もうすぐ夕飯が出来上がる。
そんな時、呼び鈴が鳴った。
「あ、あたし出るー」
「うん、お願い」
手に持っていた食器を食卓の上に置き、咲季は壁に取り付けられたインターホンのモニターを確認する。そこに映る人を見た瞬間、胸が高鳴った。
「いっちーだ!」
小走りで玄関へ向かう。鍵を解錠し、ドアを開けた。玄関先に稜秩が立っている。そこへ駆け寄った。
「どうしたの?」
「あー……やっぱり、メール見てないか」
納得したような表情で発せられた言葉に咲季は慌てる。
「えっ、メールくれたの!? ごめん、お母さんの手伝いしてて見てなかった……!」
「いや、いいんだ」
優しく微笑んだ稜秩は深呼吸をし、真剣な表情を見せた。
「これ、渡したくて」
その言葉と共に差し出されたのは、カーネーションの花束。三本の花は、鮮やかなオレンジ色をしていた。咲季は花に釘付けになる。
「綺麗……」
呟くように言った後、稜秩からそれを受け取った。明るい笑顔で彼を見上げる。
「ありがとう!」
「おう」
どこか照れ臭そうに笑う稜秩の顔は満足げだった。
「それじゃ、また明日な」
「うん! また明日!」
自宅へ戻る背中を見送り、咲季は家の中へ入る。
夕飯の支度を済ませた母に花束を見せた。
「あら、素敵なカーネーションね」
「うん! いっちーがくれたんだ!」
「すぐに花瓶に生けないとね」
そう言うと、母は花瓶や水切りの準備をし始めた。
一方咲季は花束の写真を撮ろうと、リビングのソファーに置いていた携帯電話を手に取る。その前に、稜秩からのメールを見てみる。
《渡したいものがあるから、咲季の家にちょっと寄る。》
たった一言だけだが、花束を持ってこのメールを打っていたのだろうと思うと、胸の辺りがじんわりと温かくなった。静かに笑い、リビングの白い壁を背景に花束の写真を撮る。
それを終えると、ラッピングを丁寧に解いていった。
ボウルに張った水に茎の先を浸し、数cmほどを花鋏で切り落とす。水切りをした後、カーネーションを花瓶に生けた。
細長く透明な花瓶が、カーネーションをより引き立たせている。それを眺める二人は感嘆の溜息を漏らした。
「三本っていうのも含めて、素敵な贈り物ね」
「本数に意味ってあるの?」
「もちろん。ちなみに三本は『愛している』っていう意味があるの」
「えっ」
初めて知る花束の意味に、咲季の胸が高鳴る。顔に熱が集まるのが分かった。意味もなく手をもじもじとさせる。
「直接言われるより恥ずかしいかも……嬉しいけど」
「さすが稜秩くんね」
「だね」
咲季は照れ笑いを浮かべる。同時に、カーネーションの綺麗な姿を稜秩にも見てほしくなった。携帯電話でその様子を写真に収める。
だが、これから夕食の時間になるため、後でメールで送ろうと写真を保存した。