校外学習
途中、蜘蛛やバッタが出てきます。苦手な方はご注意を。
(かくいう私も蜘蛛が苦手です……笑)
木々の葉が緑色に染まった頃、咲季たちは小高い山の頂上にあるバーベキュー場を目指して、坂道ばかり続くハイキングコースを歩いていた。
今日は学校の行事で一年生だけ参加の校外学習の日。天気にも恵まれている。
「どっかに猫いないかなー」
猫じゃらしを片手に瀬輝は辺りを見回した。だが、中々その姿を見つけられない。
「家にいっぱいいるじゃない」
すぐ後ろで、天夏が呆れたように言った。
瀬輝は天夏を振り返る。
「家猫は家猫! こういうところはあまり来ないから新しい猫と出会えるかもじゃん!」
「新しい友達作って人脈広げるみたいな言い方ね」
「瀬輝くんの場合、人脈じゃなくて猫脈じゃないかな」
天夏の隣で咲季が思ったことを口にした。
「チビッ子、良いこと言うじゃん!」
瀬輝はニカッと笑ってまた周囲に目を向ける。
その様子を咲季たちの後ろから見ていた稜秩が「小学生の時、ああいう奴いたなー」と心の中で呟いた。
リュックサックを背負っているせいか、本当に小学生に見えた。
「でも、瀬輝は猫じゃらしを持たなくても猫から近寄ってくるだろ?」
「たしかにそうですが、気分的にです!」
隣にいる連朱に不思議そうに問われても、瀬輝は笑顔を絶やさずに応えた。
そのやり取りを後ろで楽しそうに見ていた咲季は、何気なく目の前にある連朱のリュックサックに目を向けた。
「……」
一瞬で背筋が凍った。
そして血の気が引いた顔で隣の天夏に抱き付く。
「どうしたの?」
「めっ、連朱くんの……リュック……」
咲季は震える声で天夏に伝えた。
「リュックって──」
促されるように天夏も連朱のリュックサックを見る。
咲季が嫌がった存在に瞬時に気付くと、悲鳴を上げるのも忘れて咲季と共に並んでいた列から素早く離れた。
その二人の行動に瀬輝が気付く。
「おい、列乱すなよ」
「瀬輝、連朱のリュック見てみろ」
「先輩の?」
稜秩に指示された通り、瀬輝はそこを見た。
「俺のリュックに何か──」
「蜘蛛っ!!」
「えっ!?」
瀬輝の一言により連朱は立ち止まり、周囲から悲鳴が上がる。3cm程の鬼蜘蛛が、連朱のリュックサックにへばりついていたのだ。
「く、蜘蛛って!?」
「結構デカイぞ」
「え゛っ!」
「稜秩、変なウソつくな!」
「それなりにデカイだろ」
「誰か取って!」
「リュック下ろせばいいだろ」
「見たくないんだ!」
連朱は強く目を瞑って言い張った。
見兼ねた稜秩が瀬輝に声を掛ける。
「瀬輝、お前の出番だ。その猫じゃらしで蜘蛛を追い払え」
「これじゃあムリだって!!」
言いながら瀬輝は辺りを見回す。足下に丁度良い太さの枝を見つけた。それを拾い、鬼蜘蛛に近付ける。
鬼蜘蛛は枝に足を掛けた。
「う゛〜……!」
近付いて来るそれに瀬輝の体中がゾワゾワとする。今すぐにでも逃げ出したいが、そうは行かない。
(先輩のため! 先輩のため!! 先輩のためっ!!)
自分に言い聞かせる瀬輝は、枝に乗った鬼蜘蛛を落とさないように慎重に近くの茂みへ歩み寄る。
あともう一歩。そう思った時、バランスを崩した鬼蜘蛛がコロリと手の甲に転がって来た。
「わ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っ!!」
我慢の限界に達した瀬輝は叫んで手を振り回した。握っていた枝も手に着地した鬼蜘蛛も、草の中に消えた。
「瀬輝、ありがとう……」
「い、いえ……! どうってこと、ないです……!」
息を切らした瀬輝は無理矢理笑顔を作った。
そして列に戻ろうとする。
「……」
咲季と天夏が、自分から距離を置いている気がした。
「……何で離れてんだよ」
「近くにいたくないから」
「瀬輝くん、ちゃんと手洗ってね」
「はぁっ!? 俺だって好きで蜘蛛に触ったわけじゃないんだぞ!」
「手を洗えば済む話じゃない」
「俺の苦労も知らないくせに!」
「ちょっ!?」
瀬輝は咲季と天夏に手を伸ばした。
その腕を稜秩が掴む。
「後で手洗えばいいだろ」
「だってさっ──!?」
瀬輝が言い掛けた時、腕に痛みが走った。
「な?」
稜秩の顔は笑っているのに、腕を掴んでいる手の力は尋常じゃないくらいに強い。その背後に鬼のような悪魔のようなものが見えた気がした。
「はい……! ごめんなさいっ……!」
瀬輝は怯え切った表情で謝った。
稜秩の手が離れる。
(骨折れるかと思った……!)
「瀬輝、手拭く?」
「はい! ありがとうございます!」
連朱からウェットティッシュを受け取り、瀬輝は念入りに手を拭いた。
一同は無事にバーベキュー場に辿り着いた。そこで各グループごとに分かれてバーベキューを始める。
連朱と瀬輝は先生たちが用意してくれた野菜や肉などの食材を食べやすいように切るため、洗い場へ向かった。
野外炉がある場所では、着火剤と炭をコンロにセットした稜秩が着火ライターで着火剤に火を付けた。
その近くにいる咲季と天夏は、炭に火がつくように団扇で優しく風を送る。
「これ結構腕疲れるわね」
「うん。でも腕の運動になるよ」
「そうね」
二人で話していると少し強い風が吹いた。それに煽られた煙を咲季が思い切り吸い込んでしまった。
「ゲホッ、ゲホッ」
「咲季大丈夫!?」
「うんっ……ゲホッ、ゲホッ」
「こっちなら煙来ないぞ」
咲季は風上にいる稜秩の近くへ行く。
「団扇」
「はい……」
手を伸ばしてきた稜秩に団扇を渡し、時折咳き込みながら様子を眺める。
稜秩は火加減を見ながら天夏と一緒に団扇で風を送っている。
その横顔を、咲季はじっと見つめた。
「咲季、どうしたの?」
手を止めて天夏が問うた。
咲季は頰を緩ませる。
「いっちー、カッコイイなって思って」
その言葉に稜秩が一瞬だけ手を止めた。
「直球ね……」
「咲季、そういうのは誰もいない時に言え」
咲季を見ずに団扇で火元を扇ぎながら稜秩が言った。
咲季は不思議そうな顔をする。
「何で?」
「何でもだ」
「稜秩、恥ずかしがってんの? めっずらしー」
切った食材を持って来た瀬輝がニヤニヤしつつ聞いてきた。その隣では連朱が興味深そうに稜秩の表情を窺っている。
それでも稜秩は手を止めずに火起こしに専念する。
「そりゃあ、面と向かって言われたら恥ずかしいのはわかるぜ? でもノリよく『ありがとう』とか『そうだろ?』とか言っ──ゴホッ、ゴホッ、ゲホッ」
瀬輝が話している最中に煙が流れてきた。もちろんそうしたのは稜秩だ。瀬輝のもとに煙が行くように、団扇で扇いでいる。
「……」
「悪かったって……! ゴホッ、ゲホッ」
無言の圧力と煙に耐えられず、瀬輝はその場から避難する。
咄嗟に連朱が止めに入る。
「稜秩、やり過ぎじゃないのか……!?」
「自業自得」
そう答えた稜秩の顔は真顔だった。
この三人のやり取りがおかしく思え、咲季は天夏と一緒にクスクスと笑っていた。
暫くして、炭に満遍なく火が通った。その上に網を置いて食材を焼いていく。香ばしい匂いが辺りに漂う。
「先輩は食べられないもの、ありますか?」
「この中にはないから大丈夫だよ」
それを聞き、瀬輝は皿に肉や野菜をバランス良く盛り付けて連朱に渡す。
「どうぞ!」
「ありがとう」
「咲季と天夏も食え」
そう言って、稜秩が肉や野菜を盛り付けた皿を渡してきた。二人はお礼を言って食べ始める。
「いい焼き加減ね」
「いっちーは料理も上手だからね!」
「俺も肉焼いてたんだけど!?」
「瀬輝は連朱の分ばっかりやってたでしょ」
「瀬輝が焼いてくれた肉も野菜も美味しいよ」
「ありがとうございます!」
こうして和気藹々と話すみんなを見て、咲季は心を弾ませた。いつも学校で見ている光景だが、野外活動だとさらに楽しく感じる。
不思議だなと思いながら見上げた空には、小さな雲がゆっくりと流れていた。
満腹になってきた頃、クラスメイトの男子が「向こうに広場があるからサッカーしようぜ!」と誘ってきた。その誘いに稜秩、瀬輝、連朱が乗った。
残った咲季と天夏はイスに座ったままのんびりと過ごす。
咲季はテーブルに突っ伏して気持ち良さそうな表情をした。
「あったかいねぇ」
「そうね」
優しく応えてくれた天夏を見る。天夏は遠くに見える町や山を見つめていた。穏やかな風が天夏の髪を靡かせる。
その瞬間、雷に打たれたような衝撃を受けた咲季は静かにリュックサックから小さなスケッチブックと鉛筆を取り出した。
この行動に気付いていない天夏を見ながら咲季は楽しそうに筆を走らせた。次第に、天夏の綺麗な顔がスケッチブックに浮かび上がる。
「……出来た!」
咲季は書き上げたそれを満足そうに見つめる。
「天夏ありがとう! 良い絵が描けたよ!」
「えっ、何が?」
状況を飲み込めていない天夏に絵を見せる。そこに描かれた天夏は、穏やかな表情で遠くを見つめていた。どこか物思いにふけている様子が感じられる横顔。
「すごい……私じゃないみたい……」
いつの間にか描かれていた絵の出来栄えに、天夏は感嘆の声を上げた。
「さすが美術部だな」
背後からそんな声が聞こえ、咲季と天夏は振り返る。
声をかけて来たのは雪村。咲季たちのクラスの担任である男性教諭だ。三十二歳という実年齢より少し若く見られる容姿だが、その目はいつも眠そうにしている。
「ありがとうございます」
咲季は照れ笑いを見せる。こうやって絵を褒められるのは嬉しいことこの上ない。
「みんなに聞いて回ってるけど、アイス食べるか?」
「食べます!」
「先生太っ腹!」
咲季と天夏は、クーラーボックスに入っていた二人分のアイスを雪村から受け取った。
「ありがとうございます!」
「どういたしまして」
穏やかな笑顔を見せた雪村はクーラーボックスを担いでまた別の生徒たちのもとへ向かった。
それを見送った二人はアイスの袋の封を開ける。一口食べると、一瞬で口内が冷たいバニラの味に染まった。肉を食べ過ぎたのか、やけに美味しく感じる。
「あっ」
すると、何かを見つけた咲季は小さな声を出してしゃがみ、それを優しく掴む。
「何かあったの?」
問い掛けてきた天夏に向き直り、握った手を開いた。
「バッタ」
「いやぁぁぁぁっ!?」
咲季が満面の笑みで手の中いるバッタを見せると、天夏は勢いよく遠ざかった。
「小さい子だよー」
「小さいのも大きいのも関係ないの!! 早く逃して!!」
「かわいいのになぁ」
中々離れて行かないバッタを連れて、咲季は人がいない場所へ向かう。そうしながら「あたしが蜘蛛を嫌がったのと同じかー」と思った。
咲季がバッタをかわいいと思うように、蜘蛛をかわいいと思う人は実際にいる。世の中、分かり合えないこともある。
「捕まえちゃってごめんね」
声を掛けて雑草が生い茂る場所に近付くと、バッタは飛んで姿を消した。
それを見届けた後、洗い場で手を洗い、天夏のもとに戻る。
「驚かせてごめんね」
「別にいいわよ。でも心臓に悪いからああいうやり方はやめてね……」
「うん」
咲季は申し訳なさそうに頷いた。
間もなくして、片付けが始まった。
それを終えて下山し、山の麓の駐車場に停めていたバスに乗車した。
バスが走り出して少し経つと、車内は静かになりつつあった。たまに誰かの小さな話し声が聞こえたかと思うと、それもすぐに終わってしまう。今朝の車内とは真逆の静かさだった。
咲季は隣に座る天夏をちらりと見る。天夏は目を閉じて眠っているようだった。
特に眠くない咲季は何をしようか考えた。
「……」
徐にリュックサックからスケッチブックを取り出し、今日描いた絵のページを開く。
今見ても、良い出来だと思える。
「良い絵描けたの?」
通路を挟んだ隣の席から小さな声が聞こえた。
連朱と目が合う。
「うん。天夏の横顔」
咲季は絵を見せ、満足げな表情をする。
「すごくリアル……」
「天夏がイチゴ食べてたとき『この表情いいな』ってピーンと来て描いたんだ」
「咲季は絵が上手いね」
「ありがとう。連朱くんはサッカー楽しかった?」
「うん。後半はサッカーのようなサッカーじゃないような遊びになったけどね」
連朱の柔らかい笑顔が、どれくらい楽しかったのかを教えてくれた。
バスに揺られながら話し込んでいると、窓の外は見慣れた風景に戻りつつあった。