消えた○○
連日に比べて気温が少し低い朝。冬服に身を包む天夏は紺色のニット帽を目深に被り、通学路を歩いていた。
同じ場所へ向かう周りの学生たちも、マフラーやジャンパーを着て防寒している。周囲と大差ない格好に安堵した。
(あー、でももうちょっとで学校に着いちゃう……どうしよう……)
ため息をつき、足元に目を落とす。自然と歩みが遅くなった。
「天夏!」
不意に、弾んだ声が前方から聞こえてきた。顔を上げる。満面の笑みを浮かべた咲季が手を振っていた。その隣には稜秩もいる。
二人との距離も徐々に近づく。
「おはよう!」
「おはよ」
「お、おはよう……!」
いつも通りに接しようと笑顔を作り、咲季と稜秩に挨拶を返した。
校門を潜り、昇降口へ続く道を歩く。
「そのニット帽、カッコいいね!」
「あぁ、これ、お兄ちゃんの帽子で、借りたっていうか貸してもらったっていうか……」
天夏は言葉を濁し、視線を彷徨わせる。
すると、隣を歩く咲季が顔を覗き込むように見てきた。
「今日は目深に帽子被ってるんだね。いつもならもう少し浅く被ってるのに」
その一言に肩をびくつかせた。よく気付いたわねと、弱々しく笑う。
「実は……前髪切ったんだけど、かなり短くなっちゃって……」
「え、どの辺まで?」
「……大体、生え際と眉毛の中間くらいの短さ」
「そうなんだ」
「……」
「短くした前髪、見てみたい」
静かな声は弾んでいた。
にこやかな笑顔が自分をみている。咲季ならいいかと、天夏は頷いた。
「……人目に付かないところなら」
すると、咲季がそっと手を握ってきた。
「じゃあ、校舎裏に行こう」
一緒に歩いていた稜秩と別れ、咲季に手を引かれるまま、誰もいない校舎裏に足を運んだ。
天夏は、おずおずとニット帽を脱ぐ。
露になった短い前髪を目にした咲季の瞳が、キラキラと輝いた。
「可愛いよ! すっごく似合ってるし!」
「あ、ありがとう」
お世辞ではないと分かる彼女の言葉と表情は、天夏の心を少し軽くさせた。咲季ならそういう反応をするというのは容易に想像出来ていたが、実際にそれを目の前で見ると安心した。
「この短さになったの、お兄ちゃんが切ったからなのよね」
「気合い入れすぎて?」
「……それがさぁ」
天夏は今朝起こったことをゆっくりと話し始める。
朝食を済ませた登校前。突然自身の前髪の長さが気になり、数ミリほど切ることにした。リビングの食卓テーブルとは別のローテーブルの上に新聞紙を広げる。折り畳み式の鏡と向かい合い、ハサミで前髪を切ろうとする。
すると、兄の冬也が近づいてきた。
「天夏、俺に切らせて!」
「えっ、何でよ」
「切りたいから! ね、いいでしょ?」
冬也が瞳を輝かせておねだりしてくる。可愛さなど微塵も感じない仕草。秋凪だったらすごく可愛いのになと思いながら、渋々ハサミを兄に渡す。
「ほんのちょっと切るだけだからね」
「任せなさい」
得意げにハサミを構えた冬也が、鼻歌を歌いながら前髪を切っていく。
天夏は、切った髪が目に入らないように目を閉じていた。上機嫌な歌が耳に入ってくる。
それが途切れた瞬間、目の前でくしゃみの音が聞こえた。同時に、ハサミが閉じた音が盛大に響き、何かが顔を撫でて落ちていく。
恐る恐る目を開くと、鏡に映る自分の前髪の一部がごっそりと消えていた。
「──それでお兄さんが帽子貸してくれたんだ」
「そう。怒る私に平謝りでね。別にわざとやったわけじゃないのは分かるけど、お兄ちゃんにやらせたのは後悔しかないわ…… 」
「前髪って結構大事だもんね」
「そうなのよ……! あー、他のみんなに笑われたら嫌だなぁ……」
天夏は両手で顔を覆い、壁にもたれかかるようにその場にしゃがみ込む。咲季も隣にしゃがんだ。
「誰も笑わないよ」
「だといいけど……」
顔を隠したまま項垂れる。時間を戻せるなら戻したいと思ってしまうほど。そんな中でも、咲季の偽りのない言葉は心を温かくさせた。素直に褒め、肯定してくれる。気を遣われている感じがしないのも嬉しかった。
包み込んでくれる温かさに浸っていると、何かを切っている音が聞こえてきた。
不思議に思い、顔を上げて隣を見る。結っていた髪を解き、ハサミで前髪を切っている咲季の姿が視界に映った。その前髪の一部は、自分と同じくらいの短さになっている。
彼女の行動にようやく頭が理解し、天夏は目を見開いた。
「ちょちょちょ!! 何してるの!?」
「あたしも天夏と同じ前髪になれば、天夏の恥ずかしいっていう気持ちも少し消えるかなって思って」
平然と答える咲季は、手を止めることなく前髪を切っていく。切られた髪たちは、膝の上に広げられたティッシュにパラパラと落ちていった。
「……そんなこと言われたら、何も言えないじゃないの」
「えへへ」
照れ笑いを浮かべる顔がこちらを向いた。その前髪の長さは均等ではない。
天夏は手を差し出す。
「長さ揃えるから、ハサミ貸して」
「うん」
ハサミを受け取り、慎重に切り揃える。兄と同じ失敗はするまいと、気を張った。
程なくして、咲季の前髪は綺麗に一直線になった。
「これで同じ前髪だね!」
屈託のない笑顔は、天夏の心を和ませた。もう、恥ずかしさなどない。すっと立ち上がる。
「そろそろ教室行こうか」
「そうだね。いっちー、びっくりするだろうなぁ」
「たった十数分でいきなり前髪が短くなったら、驚くのも無理ないわね」
その時のリアクションが早く見てみたいと、天夏は楽しみになった。
校庭を通り、昇降口で靴を履き替える。その間に何人かの視線を感じたが、何も気にならない。胸を張って教室へ向かう。
いつもの賑やかさが近づいてきた。
「おはよー」
咲季と同時に教室に入る。自分の席に向かいながら、ちらりと稜秩に視線を向けた。彼は咲季を凝視している。
(驚いても取り乱さないのが稜秩っぽいわ)
「おはよ。天夏、髪切ったんだね」
「チビッ子とお揃いじゃん!」
連朱と瀬輝が揃って声を掛けてきた。
天夏は自分の机に荷物を置き、二人を振り返る。
「さっき、同じ前髪にしたのよ」
「天夏は何でも似合うのな」
「ありがとう」
天夏は穏やかに笑う。その表情に曇りはなかった。