小さなモヤモヤ
連朱は空になった二つのコップを手にしながら、自分の部屋を出て階段を下りる。
一階に着いたのと同時に、玄関のドアが開いた。そこから、朱李とその彼女のちすずが入って来る。
「お、兄ちゃん。ただいま」
「おかえり」
「お邪魔します……!」
「こんにちは。ゆっくりしていってください」
軽く会話をし、階段を上っていく二人を見送る。二階へ向かう後ろ姿を、連朱は微笑ましく思った。
しかし、その表情は少し曇る。
(彼女かぁ……)
心の中で呟き、キッチンへ足を運んだ。冷蔵庫の中からピッチャーを取り出し、空になったコップにお茶を注ぐ。二つとも同じ分量になるように入れ、ピッチャーを元に戻した。
コップを両手に持ち、自分の部屋へ戻る。
部屋では、瀬輝が漫画を読んでいた。
「はい」
「ありがとうございます!」
コップを部屋の中央にあるテーブルの上に置くと、漫画を閉じた瀬輝がそれに手を伸ばした。
お茶を飲む彼の向かいに座る。
「朱李の友達来てるんですか? さっき、ドアの向こうから話し声がちらっと聞こえたんですけど」
「ううん。彼女さん」
「ああ、彼女ですか。いいな」
連朱は、羨む声を耳にしながらお茶を一口飲む。喉に冷たさが伝わってくるが、スッキリしない。静かに深呼吸をしても変わらなかった。
「……先輩、何かあったんですか?」
「え、何で?」
「浮かない顔してるので」
「あぁ……」
小さく声を漏らした連朱の脳裏に、朱李とちすずの姿がよぎった。二人を見ていると幸せな気持ちになって思わず笑みが溢れるのに、心には小さなモヤモヤが顔を出す。
それは、ここ最近現れた気持ち。
「一回も恋とか恋愛とかしたことがない俺って、変なのかなってちょっと思ってて」
連朱は頭を掻く。周りにカップルがいても誰かの恋の話を聞いても、今までそんなことを感じたことはなかった。しかし、朱李に恋人が出来て二人が一緒にいるところを何度か見ているうちに、そういう思いが出てきた。
「そんなことないですよ! そういう人だって絶対いるはずです! 誰かに何か言われたんですか!?」
前のめりになって瀬輝が問うてきた。あまりの力強さに、連朱は少し仰け反る。
「別に誰にも何も言われてないよ……! ただ、俺がそう感じてるだけ」
「それなら、いいんですけど」
落ち着いた瀬輝は座り直した。
連朱は一つ息を吐いて話し出す。
「朱李とその彼女さんを見てると、たまーにそう思うんだよね。咲季と稜秩、天夏と哉斗の二組を見ててもそうは思わなかったんだけど」
「焦りみたいな感じですかね?」
「そうなのかなぁ……」
連朱は腕を組み、小さく唸った。一番近くにいる弟だからこその感情なのだろうかと考える。
「先輩は恋とかしたいって思ってるんですか?」
「いや、特に。そもそも、あまり興味を持てないっていうか、想像出来ないっていうか……」
組んでいた腕を解き、お茶を口にする。そうしながら、告白をしてくれた人たち全員に申し訳なく思った。恋愛に無関心な人間でごめんと心で謝る。
しかし、少しは興味を持ってみようかと思い立つ。
「……ねぇ、瀬輝」
「はい」
「恋ってどんな感じ?」
「えっ……! えぇっと……」
真剣に問われ、瀬輝はどぎまぎする。姿勢を正し、言葉を探した。
「俺の場合ですけど……その人のことをずっと考えるし、思い浮かべるだけで胸がドキドキしたり、目で追ったり、会いたいとか近くにいたいとか思ったり、その人のことを色々知りたくなったりします」
話しを聞いている連朱は、似たような感覚を知っていた。その人が頭に浮かぶ。
(神昌さんへの気持ち……? いやでもな……)
「あと、他の異性と話してたらちょっと嫉妬もしちゃいますね。付き合いたいって思ったりとか」
(ああ、それはないか)
否定しつつ、〝恋〟と似ている感情に戸惑った。目を伏せて、目の前のコップに視線を向ける。
(ある程度当て嵌まってるってことは、俺は恋をしているのか? でも神昌さんが誰といても嫉妬したことないし……)
連朱は、ふと顔を上げる。〝恋〟を一生懸命説明してくれている瀬輝と目が合った。じっと、大きな瞳を見つめる。そうしていると、彼は言葉を発しなくなり、顔を赤らめた。
自分に対する瀬輝の気持ちは、何というものなのだろうか。訊きたくなる。
「……瀬輝は、俺に恋してる?」
「へぇっ!?」
静かに問うと、瀬輝は上擦った声を上げてさらに顔を赤くさせた。背筋を伸ばし、硬直している。
「こっ、恋とはまた違います……! 〝恋〟ではなくて〝憧れ〟です!」
「憧れ……」
瀬輝の言葉が腹に落ちた。胸にあった疑問が解ける。
「あ、なるほど。そういうことか」
「どういうことですか……?」
「瀬輝の話を聞いてて、『神昌さんに対する気持ちがよく当て嵌まるけど、違う気がする』って思ってたら、〝憧れ〟っていう答えが腑に落ちたってこと」
「あ、ああ、そういうことでしたか……! でもいきなり『俺に恋してる?』はびっくりしますよ!」
「ごめん、ごめん。瀬輝が俺に向けてる気持ちって何だろうなって思ったら、つい」
「別にいいですけど……」
続けて瀬輝は「真っ直ぐな目で破壊力ヤバかったけど」と呟いたが、連朱の耳に届くことはなかった。
一方連朱は、澄み切った笑顔を見せる。
「あのさ、もしよかったらなんだけど、瀬輝がしてきた恋の話を聴かせてもらえないかな。ちゃんと聴いたことないし」
「……キラキラしたものばかりじゃないですよ?」
「全部聴かせて。知りたいんだ」
穏やかな笑みは、瀬輝の胸をギュンッとさせるのに充分だった。冗談で「知りたいって、先輩、俺に恋してます?」と言いたかったが、そんな余裕はない。瀬輝は姿勢を崩すさずに話し始めた。
連朱は、一つ一つ丁寧に語られる話に耳を傾ける。そして、いつか自分も恋をする時が来るのだろうかと、ぼんやり思っていた。