放課後の音楽室
九月に突入して数日が経ち、気温も落ち着いてきた。放課後の音楽室では、瀬輝が一人でピアノの練習をしている。『大きな栗の木の下で』を口ずさみながら、鍵盤を弾く。ゆっくりとしたテンポだが、閊えたり間違えたりはしていない。
そして、無事に弾き終えた。
「初めて最後まで弾けた……! 俺、やれば出来るんじゃん!」
喜びで瀬輝の目が輝く。この気持ちを今すぐ誰かと共有したいが、周りには人がいないためそれが出来ない。
歯痒さを感じつつも、もう一度最初から弾こうと鍵盤に指を置こうとした時。
音楽室のドアが開かれた。
「練習捗ってるかー?」
ドアからひょっこりと顔を覗かせたのは担任の雪村だった。
瀬輝の顔が明るくなる。
「さっき一曲間違わずに弾けたんですよ!」
「ほー。それは聴いてみたいな」
「いいですよ!」
意気揚々と返事をすると、雪村がドアを閉めて近くへやってきた。
瀬輝は気合を入れて鍵盤に触れる。
演奏を始めて五秒。音が外れた。
「……あれ……?」
顔を引き攣らせ、再度鍵盤を弾く。今度は別の箇所で躓いた。
「あれー……? さっきは出来たのになぁ……」
「まあそんな時もあるって。でも普通に弾けてるじゃん」
「ちゃんと弾けてるところを見せたかった……!」
雪村の励ましに嬉しさと情けなさを感じる。それとほぼ同時に、彼がなぜここにいるのかという疑問がやってきた。
「というか、俺に何か用ですか?」
「いや。たまたま近くを通ったからどうかなって見にきただけ。雫月麗は保育士を目指しているんだもんな」
「そうです!」
「何か嬉しいな」
「何がですか?」
「教育系の職種を目指していることがだよ。そういう生徒もいてくれて、嬉しいんだ」
雪村は微笑んでいる。
そんなに嬉しいことなのかと思いながら、瀬輝は聞いてみたくなった。
「先生は何で教師になろうと思ったんですか?」
「俺が高校二年生の時の担任だった先生に憧れたからだよ」
「憧れですか?」
「そう」
雪村の頷きに、瀬輝は興味深そうに彼の方へ体を向けた。自分に憧れの存在がいるように、先生にもいるんだと詳細を知りたくなる。
「その先生は普段からそうだったけど、一人一人とちゃんと向き合っててさ、悩みがあったらちゃんと聞いてくれたし、生徒同士で揉め事があっても解決するまで根気強く向き合ってくれてたんだ」
「いい先生ですね」
「だろ? 叱るところは叱って楽しむところは一緒に楽しんでって感じで、すごくカッコよかった。俺もそういう人になりたいって思ってさ」
当時のことを思い出しつつ話している雪村の表情は、とても穏やかだ。それだけで、どれほどの憧れを抱いているのか、すぐに分かる。
瀬輝は彼のそんな表情を見るのは初めてだった。自然と言葉が出る。
「雪村先生も、充分カッコいいですよ」
それはしっかりと彼に届いたようで、いつもの眠そうな目が大きく開かれた。しかし、すぐに普段の目に戻る。
「それ、本心……?」
「本心ですよ、失礼な」
「悪い、悪い。ありがとうな。じゃあ、練習頑張れよ」
「え、あ、はい」
雪村は照れくさそうに笑って、そそくさと音楽室から出ていった。足音が遠くなっていく。
「……そんな恥ずかしがらなくていいのに」
瀬輝は、また一人になった空間でそっと呟いた。無意識に綻ぶ表情でドアからピアノへ視線を移す。そうした時、窓の外から何かがちょこんと顔を出しているのが視界の端に見えた。
思い切って窓の方へ顔を向ける。咲季と目が合った。
「チビッ子……?」
瀬輝は不思議そうな面持ちで席を立ち、窓を開ける。
「そこで何してんの?」
「瀬輝くんどうしてるかなーって見に来たの。でも、雪村先生と二人で話してたからここで見てたんだ」
「見てたのかよ」
「うん。あ、話してる内容は全然聞こえなかったけどね」
「まあ、窓全部閉め切ってたからな」
「でもね、おかげで文化祭の絵が出来そうなんだ!」
咲季が満面の笑みでスケッチブックを見せてきた。その表紙を見ながら、彼女は何の絵を描こうとしていたのかを思い出す。文化祭で展示する絵。何を描こうと言っていただろうか。
「……あー、雪村先生か」
「うん! さっき瀬輝くんと話してた時、先生がすごくいい表情してたからそれを描くの!」
確かにいい表情してたよなと瀬輝も思う。出来上がりが楽しみになった。
「じゃああたし行くね!」
「おー」
小走りで去っていく咲季の背を見送る。そうしていると、彼女が雪村の絵を描くと言い出した時のことが鮮明に脳裏に浮かんだ。そしてその発言も、音楽室でだったと思い出す。
そんな偶然が面白く思えた。
「……というか、俺の様子を見にきたんじゃないのかよ……ま、いっか」
苦笑いから一転、微笑んでピアノのもとへ戻る。席に着くと、開け放された窓から心地よい風が入ってきた。
ゆっくりと深呼吸をする。
「さ、もうちょっと練習やろう」
気合を入れ、手元と楽譜を交互に見ながら静かに鍵盤に触れた。まだまだ拙さはあるものの、優しい音色は音楽室に響き渡る。
それは時折閊えながらも、しばらく続いた。