イヤなコ
体育館では、ボールの弾く音といくつもの足音が響いていた。
「先輩っ!!」
瀬輝からパスを受けた連朱は、ドリブルをしてバスケットゴールを目指す。スリーポイントラインの内側に来ると、そこからシュートを打った。
ボールは弧を描いてバスケットゴールに近付く。
シュートが決まる。誰もがそう思った中、高身長を生かして高く飛び上がった稜秩に妨害された。
ボールを手にした稜秩はドリブルをしながら敵を躱し、自チームのゴールへと向かう。
「城神くんすごーい!」
「湊琉くん頑張ってー!」
体育館の中央に引かれた間仕切りネット越しに、女子生徒たちが二人を応援していた。
女子は体育館の半分を使ってバレーボールの授業を受けている。今は4チームに分かれて15点ゲームをしているところ。ゲームの順番待ちの生徒たちは、男子のバスケを観戦中なのだ。
「わあ、いっちースリーポイント入れた!」
壁に凭れて座っている咲季は笑顔で拍手する。
「連朱はもちろんだけど、稜秩も結構人気あるわよね」
咲季の隣に座る天夏が言った。
「いっちーは、カッコ良くて優しくて頭良いし、運動も出来るから当たり前だよ!」
咲季は誇らしげに笑った。
すると天夏は、ふと思ったことを口にする。
「そういえば、咲季って全然ヤキモチ焼かないわよね。あんなにキャーキャー言われてるのに」
「いっちーは昔からモテてるからヤキモチ焼いてたらキリないし、みんなに好かれてるのは良いことだよ」
「でも、誰かに取られないか心配になったりしない?」
「うーん……考えたことない」
咲季は思い詰める様子もなく答えた。その様子から、あまり独占欲がないように思える。
すると咲季が不思議そうな顔をした。
「ヤキモチ焼かないのは、変なの?」
「変じゃないわよ。そういう人だっているし」
言いながら、天夏は初めて咲季とこういう話をしたと思った。
普段、咲季は稜秩とのことを話すが「あの店に行った」とか「映画を観に行った」とかそういう話だけ。それは、仲の良い幼馴染みとの話にしか聞こえない。
それなりに恋人らしいことはしているとは思うが、天夏は二人に対してあまり〝恋人〟という雰囲気を感じたことがなかった。
それに、二人が手を繋いでいるところも滅多に見ない。稜秩が恥ずかしがってそうしない可能性もあるが。
「……咲季と稜秩ってキスしたことあるの?」
「あるよ。幼稚園の時に一回」
「……」
思わず、天夏は黙ってしまった。幼稚園なんてもう十年ほど前の話だ。
「……それっきり……?」
「うん!」
暫くの無言の末、天夏は眉根を寄せて問うと、咲季が明るく笑って頷いた。
天夏の胸に疑問が湧き上がってくる。
「……咲季たち、本当に付き合ってる?」
「付き合ってるよ」
「っていうか、いつから付き合ってるの?」
「3歳の頃かな」
「恋人らしいことしてる?」
「してるよ。二人で買い物行ったり、お互いの家に遊びに行ったり、プリクラ撮ったり。将来、結婚する約束もしてるし」
「……」
咲季の話を聞く天夏は何とも言えない気持ちになった。たしかに恋人同士でもそういうことはする。だけど好きになったらしたいことも増えるはず。
「……もっとキスしたいとか、思わないの?」
「今は思わないなぁ」
「そうなの!?」
天夏は目を見開いた。彼氏がいてもこの年齢でキスをしたいとは思わないのはどういうことか。天夏には理解し難かった。
そして、二人が熟年夫婦の領域に達している気がした。
「……」
天夏は楽しそうに男子のバスケを観戦する咲季を見た後、その視線を辿るように稜秩を見た。稜秩の考えが気になる。
「で、何で俺を呼び出したわけ?」
週末の昼過ぎ。客も疎らになったカフェの一角に設けられた席でコーヒーを一口飲んだ後、稜秩が問い掛けた。
「咲季のことで……」
天夏は少し緊張気味に答える。
「……ケンカでもしたのか?」
「違うわよ。正確に言うと、咲季と稜秩のこと」
「俺らがどうかしたのか?」
「ふ、二人、ちゃんと付き合ってるのかなーって思って……」
そわそわしつつ、天夏は目の前にあるミルクティーを飲んだ。
「付き合ってる」
稜秩は真顔でさらっと答えた。しかも即答。
「俺らが付き合ってないように見えんの?」
「正直言って、咲季と稜秩って恋人同士らしくないっていうか、仲の良い幼馴染みにしか見えなくて」
天夏はミルクティーに砂糖を加えつつ話した。
すると稜秩が笑みを見せながら答える。
「そういうのもいいんじゃないか?」
「そうだけど……何かもう、熟年夫婦の領域に行ってる気がする」
それを聞いた稜秩は思わず笑った。
「熟年夫婦って……!」
「だって、高校生同士のカップルには見えないのよ」
「まあ、熟年夫婦っていう表現はあながち間違いではないかもな」
くすくす笑った後、稜秩はまたコーヒーに口を付けた。咲季とは生まれてからずっと一緒にいる。そういう風に言われても仕方ないのだろうと思った。
それに、恋人同士らしくない理由も何となくわかる。
「咲季はキス以上のことには疎いからな」
「本当よね。保健の授業で何を習ったんだかっていうくらい、何も知らないからね……」
「だからそれ以上のことは結婚してからって決めてるんだ」
「どうして?」
「まだ何も知らない咲季を見ていたいっていうのもあるけど、仮に何かあっても今の俺じゃ責任を取れないのが一番の理由だな」
稜秩の表情は真剣そのもの。彼女のことを大切に思っているのだと伝わってくる。
「しっかり考えているのね」
「まあな」
「ちなみに、稜秩は咲季とキスしたいって思うことあるの?」
「……随分掘り下げるな」
「この際にと思って」
「まあ、いいけど。たしかにそう思うことはある」
「でもしないの?」
「しばらくはしないだろうな。咲季もそんな雰囲気じゃねぇし、咲季の気持ちを無視したら傷つけるだけだし」
天夏は彼の考えに何度か小さく頷いた。気持ちを無視されるのは、誰だって嫌に決まっている。
咲季の隣には素敵な人がいるのだと改めて実感し、嬉しくなった。
書店で目当ての漫画を購入した咲季は、上機嫌に歩いていた。
すると目の前に、一羽のカラスが舞い降りた。光沢のある綺麗な毛並み。カラスは辺りを見回した後、歩き出した。
「……」
しっぽを振りながらぽてぽてと歩く様子が、何とも可愛らしい。
咲季はカラスを驚かさないように、静かに後をついていく。
カラスの行く先には、横断歩道があった。今は赤信号。このまま進めば赤信号を渡ってしまう。
「危ないよ」
声を掛けたのも束の間、信号は青に変わった。咲季は胸を撫で下ろす。
カラスは横断歩道を渡る。
ここで咲季はその姿を動画に残そうと携帯電話を取り出すため、道端に立ち止まってカバンに手を入れた。
瞬間、カラスは羽を広げて飛び立った。
「あっ……」
咲季は落胆の表情でカラスを目で追い掛ける。
カラスは反対側の歩道に向かって飛んだ。
カラスを追っていた咲季の目は、近くのカフェに視線を移す。
「いっちーと天夏だ!」
窓に程近い席に座る二人を見つけ、咲季は明るい表情をする。
稜秩と天夏は話し込んでいるようで、咲季には気付いていない。
「……」
窓を隔てた向こう側の稜秩と天夏は楽しそうに笑ったり、真剣な顔をしたりしている。
それを見ている咲季の胸がズキンと痛んだ。
(何で二人で会っているんだろう……すごく楽しそう……)
思いながら、咲季は止めていた足をゆっくりと動かした。
『誰かに取られないか心配になったりしない?』
不意に、天夏に言われた言葉が脳裏を過る。でも天夏はそんな人じゃないと首を横に振る。
(でも二人だけで会ってるのってイヤだな。何もないって思ってるけど、あんなに楽しそうにしなくていいじゃん。二人だけで会わなくていいじゃん。天夏には哉斗くんがいるじゃん。いっちーは、あたしの──)
咲季は静かに立ち止まった。
「……」
服の胸元をぎゅっと掴む。
(あたしイヤなコだ。ヤキモチ焼いてそれを天夏に向けて。こんな気持ちイヤだ)
咲季は溢れ出てくる涙を拭いながら、足早にその場を離れる。
足下を見つめながら歩いていると、いつの間にか稜秩の家の前に辿り着いていた。石段を見上げる。
「……」
咲季は石段に足を掛け、登る。
門の脇の呼び鈴を鳴らせば、八保喜の声がインターホンから聞こえる。『咲季です』と伝えると、八保喜が門を開けて出てきた。
「やあ、咲季ちゃん。稜秩なら今日は出掛けとるよ」
「いいの。部屋で待ってる」
「……そうか」
咲季は精一杯笑顔を作って言った。
笑顔に若干違和感を覚えつつも八保喜は何も言わず、咲季を家へ上がらせた。
廊下を進んで襖を開ければ、稜秩の部屋が目の前に広がる。咲季は広い12畳の和室に足を踏み入れた。部屋中、稜秩の匂いに溢れている。
咲季は何をするでもなく、畳の上に座った。
本棚に並べられている本や、今日自分が買った漫画を読む気にもなれず、ただぼーっとするだけ。
近くにあったクッションに手を伸ばし、抱き締めた。
(何で天夏にヤキモチ焼いたんだろ? いつもは何とも思わないのに……)
咲季は何気なく、普段の見慣れた光景を思い返す。稜秩に対してキャーキャーと騒ぐ女子たち。いつものメンバーで行動しているとき。そして、先ほどの天夏と稜秩が話している光景。
そこまで来ると、咲季は理解した。
(あたし以外の女の子といっちーが二人っきりでいるの、見たことがないからだ)
答えを導き出した時、胸のモヤモヤが晴れた気がした。
力なく横たわる。
(いっちー、早く帰ってこないかな)
思いながら、咲季は目を閉じた。
次に目を開けた時、大好きな横顔が見えた。
(……いっちーだ……)
寝転んで本を読んでいる彼を寝惚け眼で見つめる。
すると、その視線に気付いた稜秩が此方を向いた。
「起きたか」
稜秩は優しく微笑んだ。
それを見た咲季の胸がきゅんとなる。上手く言葉が出ず、頷くだけ。
「咲季、部屋に来るのはいいけど寝るならちゃんと布団掛けて寝ろよ。風邪引くだろ」
言いながら稜秩は起き上がって胡座をかいた。
そう聞かされて、咲季は初めて自分の体に布団が掛けられていることに気付く。
「……うん、ありがと……」
咲季は口元まで布団に顔を埋め、元気のない声を出した。
その顔を覗き込むように稜秩が見つめてくる。
「……何かあった?」
稜秩の優しい声音が、胸を苦しくさせる。
「……」
咲季は何も言わず起き上がったかと思うと、立ち上がって稜秩の背中に寄り添うように抱き付いた。
「……」
稜秩は意図的に黙った。何か言いたいことがあれば言ってくるはずだと。
その時が来るまで、何度も読み返した本に目を通す。
「……天夏と、何話してたの?」
稜秩が本を何ページか読み進めた時、咲季は口を開いた。
「え?」
「天夏とカフェにいたでしょ? 何話してたの?」
咲季は再び問い、振り向いた顔を視界に入れる。稜秩は少し驚いたような表情をしていた。
「俺と咲季のことを話してたんだ。ちゃんと付き合ってるのかって聞かれたり、恋人同士に見えないって言われたり。俺と天夏が会ってるの見てたのか?」
「漫画買いに行った帰りにたまたま見かけただけ」
「そっか。来れば良かったのに」
「二人とも楽しそうにしてたし、見たくなかったから」
「見たくなかった?」
稜秩は少し目を見開いた。
その瞳を、今にも泣き出しそうな表情で咲季が見つめる。
「二人だけで会って楽しそうに話してるの、見たくなかった。天夏にいっちーを取られた気持ちになった。天夏はそんな人じゃないってわかってるのに変にヤキモチ焼いて辛くて、ヤキモチ焼いてる気持ちがイヤで、それを天夏に向けてるのもイヤで……」
涙声の言葉に耳を傾けながら、稜秩は腹部に巻きついている咲季の腕にそっと触れる。
「イヤな気持ちでいっぱいで頭の中ぐちゃぐちゃで、きっとあのまま二人のところに行ってたらあたし、二人を傷付けてたかもしれない……」
「ごめん。嫌な思いさせて」
「ううん、あたしが勝手にヤキモチ焼いただけ……」
すると咲季は腕にぎゅっと力を込め、さらに稜秩に密着した。
「初めて、いっちーを独り占めしたいって思った」
小さい呟きの後、稜秩の鼓動が速まったのが伝わってきた。それに反応するように咲季の心拍数も上がる。
重なる二人の心音に嬉しさを感じていると、稜秩に優しく腕を解かれた。
大好きな人と向かい合ったかと思うと、突然抱き寄せられた。
「いっちー……!?」
咲季は稜秩の腕の中で戸惑う。心臓がさらに暴れ、体中が熱い。
すると、稜秩の腕の力が緩まった。
顔を上げると稜秩と目が合った。しかし、咲季は恥ずかしさのあまり顔を背けてしまった。
「咲季、こっち向け」
「……」
優しい命令口調に、咲季はゆっくりと従う。
稜秩と視線が交差する。
咲季の大きな瞳をじっと見つめる稜秩は「前言撤回だ」と心の中で呟き、口を開いた。
「目、閉じろ」
「……」
次に何が起こるのか理解した咲季は、稜秩の言葉通りに目を閉じる。稜秩がゆっくり近づいてくるのが気配で分かった。
静かに二人の唇が重なる。
その柔らかさが咲季の心も刺激した。今までにないほどに全身が脈を打ち、幸せな気持ちが胸いっぱいに広がる。子供の頃とは全く違うときめき。そして、稜秩への〝好き〟が溢れた。
稜秩の唇が離れたのを感じて目を開けると、赤く染まった顔が見えた。
「いっちーの顔、赤いよ……」
咲季は小さな声で言った。
その両頬を稜秩に軽く抓られる。
「ふへ……」
「咲季の顔も赤いぞ」
その指摘からか、咲季の顔の赤みがさらに増した。
「また赤くなった」
笑いながら稜秩は両手で咲季の顔を包み、また唇を重ねた。
稜秩の熱が唇を通してまた伝わってくる。咲季はその甘さに心地よさを感じた。
唇が離れると、惚けた顔で稜秩を見上げる。
それを目にした稜秩の気持ちが高ぶる。
「……誘ってんの?」
稜秩が口角を上げて冗談交じりに言う。
その問いに、咲季は惚けた顔のまま首を傾げた。
「どこかに行こうっていう話?」
「んー、それとはまた別の意味」
「どういう意味?」
「咲季はまだ知らなくていい意味」
そう言った稜秩に優しく抱き締められた。
包み込んでくれる存在に、咲季は安心感を覚えた。
「いっちー、大好き」
「俺も、咲季が大好きだ」
耳元で囁かれた言葉に嬉しさを感じ、ぎゅっと稜秩を抱き締め返す。
ずっとずっとこうしていられたらいいのに。
互いにそう思った。
週が明け、今日からまた学校が始まる。咲季はいつも通りに稜秩の家に向かった。
「いっちー、おはよ!」
「おはよ」
挨拶を交わして歩き出す。
すると、優しく手を握られた。驚いた咲季は思いがけない行動をした稜秩を見上げる。
視線がぶつかった。
目のやり場に困った咲季は足下を見る。その顔は真っ赤に染まっている。
咲季の反応が可愛く思え、稜秩はフッと笑った。もう少し他の表情も見たいけどそれはまた今度だな、と思いながら咲季と足並みを揃える。
学校が見えてきた頃、前方から歩いて来る天夏の姿が見えた。
咲季は稜秩の手を放し、親友に駆け寄る。
「天夏!」
名前を呼んだのも束の間、彼女に抱き付く。
「おはよ! ごめんね! 大好き!!」
「お、おはよ……朝からどうしたの……?」
咲季の唐突な言動に天夏はまごついた。
それでも咲季はお構いなし。
「なんとなく!」
「なんとなくって……あ、稜秩おはよ」
「おはよ」
「ねぇ、咲季どうしたの?」
天夏の問い掛けに稜秩は意味深な笑みを浮かべた。
「さあ?」
それだけ言い残して、稜秩はさっさと門を潜った。
「〝さあ?〟って何よ……」
「何だろうね」
「咲季が一番わかってることでしょ」
「えへへ」
笑顔を見せた後、咲季は天夏の手を引いて歩き出した。門を潜って、整備された道を辿る。
道の脇に設けられた花壇の彩り鮮やかな花が静かに揺れ、蝶が穏やかな風に乗って、ヒラヒラと快晴の空へと舞い上がった。
それを見ていた咲季は笑みを零し、心を躍らせた。