いつも通りな日
「行ってきまーす!」
「行ってらっしゃーい」
母の声を聞いてから、采之宮咲季は玄関のドアを開けた。
「雨だ」
外は、雨が降り始めていた。
咲季は踏み出しかけた足を戻し、玄関の端に置かれた傘立てから自分の傘を取り出す。
傘を差して家を後にした。
急に降ってきた雨だが、咲季は全く気にしていない。むしろ楽しんでいる。雨の匂い。傘や地面に打ち付けられる雨の音。それらが心を楽しませてくれる。
(何でか分からないけど、雨や雪の日って楽しいんだよねぇ)
にこにこと笑いながら空を見上げる。一面灰色。それでも楽しい気持ちのまま。
見知った道を歩いていけば、前方には自分を待ってくれている大好きな人の姿が見えた。走らずにはいられない。
「いっちー、おはよ!」
駆け寄りながら満面の笑みで声をかけた。
幼馴染みでもあり恋人でもある城神稜秩と視線が交わる。
「おはよ。朝から元気だな」
「うん! あれ? 今日は八保喜さんいないの?」
咲季は稜秩の家へと続く十段ほどの石段を見上げる。
八保喜とは、稜秩の家にお手伝いさんとして住み込みで働く男性のこと。仕事の一環として、毎朝大体この時間帯に石段を掃き掃除している。
「八保喜なら、雨が降ってきたからってさっさと掃除して家の中に入ってった」
「そうなんだ。雨の中掃除すると風邪引いちゃうもんね」
話をしながら、二人は隣り合って歩き出す。
咲季は自分の頭よりも遥か上にある稜秩の顔を、傘越しに見上げた。歩く度に揺れる銀色の髪は、いつ見ても綺麗で見惚れてしまう。
彼は日本とロシアのハーフだ。それと因果関係があるのか、稜秩の身長は198cmと高い。高校一年生の時点でそのくらいだと、2mに到達するのは時間の問題かもしれない。咲季はそんなことをぼんやりと思った。
「……俺の顔に何かついてるか?」
稜秩の青い瞳がこちらを向いた。
咲季は首を横に振る。
「ううん。ただ、いっちーの身長はもうすぐ2m越しちゃうかもって思ってただけ」
思ったままを口にすると、稜秩がふっと笑った。
「確かに。そのくらいになってるかもな」
「いっちー身長伸びるの早いね」
「もう伸びなくていいんだけどな」
「伸びた分、瀬輝くんに分けられたらいいのにね」
咲季は仲の良いグループ内で、自分の次に背が低い男友達のことを口にした。彼は、低身長であることにコンプレックスを抱いている。
「分けられるなら分けてやりたいよ」
「瀬輝くん、身長を伸ばすために朝晩牛乳を沢山飲んでるみたいだけどね」
「らしいな。その割に全然伸びてないけど」
「世の中上手くいかないねぇ」
他愛もない話をしているうちに、二人は学校に到着した。
校門をくぐり、生徒玄関へ向かう。
そこでは、親友の憂浠天夏が靴を履き替えているところだった。
「天夏、おはよ!」
「おはよ」
挨拶を返してくれたものの、彼女の顔は少し憂鬱そうだった。
「天夏、元気ないね」
「雨だからよ。湿気で髪が広がって言うこと聞かなくて……」
天夏は髪にそっと触れ、ため息混じりに話した。確かに、その髪はいつもより広がっている。
「大変だね」
「まぁね。咲季は……今日も元気ね」
「うん!」
「昔から雨とか雪とか、悪天候が好きだからな」
「変わらないわね」
他愛ない話をしながら、二階へ続く階段を上っていく。
廊下を少し歩いたところにある一年三組の教室には、既に数人のクラスメイトがいた。
「ねぇ、咲季。哉斗から貰ったカフェのクーポンがあるんだけど、部活が終わったら一緒に行かない?」
自席に荷物を置いた時、後ろの席の天夏から誘いの言葉をかけられた。振り返ると、彼女のスクールバッグからクーポン券が姿を現した。
「行く!」
咲季は満面の笑みで誘いに乗った。しかし、ふと思ったことを口にする。
「でも、哉斗くんと二人で行かないの?」
「哉斗はお洒落な店が苦手だから」
「あー、そっか」
咲季は納得して何度か頷く。そうしながら、他校に通う天夏の恋人に心でお礼を言った。
すると、教室の外が騒がしくなってきたことに気付いた。特に女子生徒の黄色い声が聞こえてくる。それだけで誰が登校してきたのかが分かった。咲季たちは一斉に教室のドアを見る。
程なくして、女子生徒から黄色い声を受けていた人物が教室へ入ってきた。
「おはよ」
彼の姿が見えた瞬間、三人の声が重なる。
「お、おはよう……何でみんなこっちを見てるの……?」
整った顔に戸惑いの色を見せる湊琉連朱は、恐る恐る席に着いた。目の前の席に座る稜秩と視線が合う。
「連朱が来たなーと思って見ただけ」
「ああ、そう」
「あれ、瀬輝はどうしたの? 一緒じゃなかったの?」
いつも彼のそばにいるはずの友人の姿がないことに気付いた天夏が、周囲を見ながら問うた。
「あ、瀬輝なら──」
「へっくしょんっ!!」
連朱が答えようとした時、廊下から盛大なくしゃみが聞こえた。驚いてその方向へ視線を向ける。
「おはよー……」
鼻を啜りながら、雫月麗瀬輝が教室に足を踏み入れた。その彼が身に纏っているのは制服ではなく、ジャージだ。
「傘を忘れて雨に濡れちゃったからジャージに着替えてたんだ」
瀬輝の姿を見ながら、連朱は続けて言った。
「連朱は濡れなかったのか?」
「俺は折り畳み傘持ってたから」
「連朱と一緒に傘差さなかったの?」
天夏は、自分の後ろの席に荷物を置いた瀬輝に声を掛けた。
「俺も傘の中に入ると先輩の肩とか濡れちゃうからな」
瀬輝は濡れた髪をタオルで拭きながら答える。
赤い髪から水分が取り除かれていくのを見ている咲季は「瀬輝くんらしいなぁ」と心の中で呟いた。
憧れの存在に対する彼の気遣いは常に見られる。登校時の様子が容易に想像できた。
「へっくしゅんっ!!」
先ほどよりも大きな瀬輝のくしゃみは、教室内に響いた。
「連朱に遠慮して濡れて来るからよ」
「しょうがねぇだろ」
髪の水気を取ってくれたタオルを畳みつつ、天夏と話す瀬輝。その右隣から、ポケットティッシュが差し出された。持ち主の連朱が、心配そうな表情をしている。
「瀬輝、これ使って」
「えっ、ありがとうございます……!」
素直にそれを受け取った瀬輝は、礼を言ってからティッシュを一枚取り出し、鼻をかむ。
「瀬輝が風邪引いたら元も子もないんだから、これからは折り畳み傘を常備しておきなよ」
「以後、気を付けます……」
「連朱に余計な心配掛けてんじゃん」
「……」
連朱から軽く注意を受けた瀬輝はしゅんとしたが、それも一瞬。右斜め前の席に座る稜秩の言葉にムッとした。言い返そうにも図星のため何も言えない。
そんな見慣れた光景に、咲季は楽しさを感じていた。
(いつも通りだなぁ)
にこやかに目の前の様子を見る。
不意に、鼻を赤くさせた瀬輝と目が合った。
「……チビッ子、何ニヤニヤしてんだよ」
〝チビッ子〟というのは瀬輝だけが使う咲季のあだ名。咲季の見た目が小学生ぽいからという理由で付けられた。
「楽しいなーって思って」
「楽しいって、どこにそんな要素が……っくしょんっ!!」
瀬輝のくしゃみは中々治らない。天夏が心配そうな表情を見せる。
「体冷えてるんじゃないの?」
「確かに少し寒い……」
「自業自得だろ」
「……」
瀬輝は身震いしながら、意地悪な笑みで言い放つ稜秩を睨みつけた。すると、その肩にジャージの上着がふわりと掛けられた。それは連朱の物だと、匂いで瞬時に判断する。
「温かくなるまで俺のジャージ着てていいよ」
案の定、ジャージを貸してくれたのは連朱だった。その優しさが身に染みる。
「ありがとうございます!!」
彼の優しさを感じながら、瀬輝は喜びを噛み締めた。
みんなのいつもと変わらないやり取りを黙って見ている咲季の心は、とても穏やかだった。ずっとこういうのが続けばいいなと思う。
そうしていると、窓に打ち付けられる雨の音と重なって、ホームルームの始まりを告げるチャイムの音が聞こえ始めた。