第一章 【襲来】 5.
まったく、人生も戦場も計算通りに行きゃしない。
今此処に印波がいるということは、片山たちには遭遇していないわけで、そちらに被害がないことは喜ばしい。だが、無傷の印波を渡されたオレとしては、空に文句の一つも言いたくなる。
前回と違い、今回は綾部がいないのだ。此処に辿り着かせるまでに、体力だけでも削ぎ落としてもらわないと、オレには荷が重過ぎる。
こちらが刀を抜く前に、踏み込んできた印波の刃が、大上段から振り下ろされる。勢いを殺して踏み留まった目の前、数センチの距離に白い線が見えた。
身体を起こしたところへ、もう一度、今度は左から心臓目がけて入ってきた刃に、少し後ずさって刀の鞘を叩きつけた。
キレイに斜めに切断され、落ちていく鞘と、刃こぼれ一つしていない、奴の刀を見て疑問が湧いた。刑務所暮らしだったくせに、腕が落ちてないことにもこだわりたかったが、何よりも持っている刀が上等すぎる。
オレの刀も、代々家に伝わっている母星からの持ち込み品で、結構な上物のはずなのだが、それに負けていないように見える。
奴の今の刀の出所を追及したいような、したくないような気分だった。
(単純に、誰かから奪ったと考えればいいのか?)
自分がこうして戦場に持ち込んでいるように、他の、例えば石背系の士官が持っていた刀を、逃亡中の印波に奪われたとしても、おかしくはない――が、奴が突然、この場所に現れたことを考えても、奴に『都合の良い』ことが多過ぎる。
そもそも、オレが首府の大隊本部の中でなく、こんな地方の田舎町にいることすら、襲撃には都合が良いだろう。
横薙ぎに入ってきた刃を危うく避け、バランスを崩しかけたところに踏み込まれ、後退する。のんびり考えている場合では絶対にない。
前回の経験からすれば、オレと奴の間に、剣の腕の差はほとんどない。印波の太刀筋は綾部に比べれば、まだしも普通だった。上、右、左、下、いずれからの打ち込みにも反応できる。
印波と立ち合う場合、一番の問題は、腕よりもむしろ、印波自身から発せられる、禍々しい『気』だろう。一般の被害者だけでなく、軍属の被害者にも、ほとんど抵抗の跡がない殺害現場は幾つもあった。
人が人を斬る時に出る本能的なためらいと、印波はどういうわけか無縁だ。迷いのない動きや、全身から発せられる異常な殺気――というか、ある種の情熱に当てられて、身体と精神が蝕まれていく錯覚を覚える。
オレはと言えば、誰にも増して、こういう暑苦しい相手が苦手だったりする。負ける気はさらさらないが、勝つ気も薄れてくるのだ。
道場で印可を貰った時も、師匠は困ったように笑った。
『お前は、とりあえずオレより強いから免状はやる。だが、争い事には向かんよ。軍人も似合わんと思うが、実際に戦うのは下っ端だからな。お前はどうせ指揮官だろ? 命は大切にできるから、案外向いているかもなぁ』
あの頃、まだ中尉だった鴻上司令は、傍で複雑な顔をして聞いていたが、オレ自身は、成る程なぁと思っていた。
オレには、何が何でも勝ちたいという気概が欠けている。
昔はそれでも、真剣な相手に対する礼儀を考え人並みに振る舞っていたが、今では闘争心を丸出しで挑みかかってくる奴がいれば、それだけで気分が冷めてくる。
幸いというか、気分が冷めると頭も冷めるので、師匠の言ったとおり、指揮をする上では都合が良かった。ところが、気迫と気迫の勝負なんかになると、当たり前だが、気圧される。現在のように。
そんな、オレの気持ちを見透かしたのか、ますます印波の剣戟は激しくなった。
(冗談じゃないな)
部下を失った怒りと、ここでオレが負ければ、被害は此処にいる全ての人間に広がる、という枷を自分自身に掛け、刀を握り直す。
印波の口の端が上がった。
こいつもよく分からない。ただ斬れれば満足じゃないのか?
時間を掛ければ、逃亡生活を続けていた印波より、オレが有利……とは言えない。日が完全に落ちたら、感覚だけで生きているような印波が有利だ。
仕掛けてきたのは、印波だった。
真っ直ぐ心臓を目がけてきた奴の刀を払い、オレはそれまで敢えて避けていた、髪で隠れている印波の左目の端、肩の上から胸を袈裟懸けに斬った。
血が吹き出てから肩を抑え、体勢を崩すまでにかなり間があった気がした。実際のところ二、三秒だろうが。
地面に片膝をつき、自分の手についた血を眺めている印波に、聞いてみた。
「その左目……オレ、潰してなかったよなぁ?」
髪の下から出てきた、印波の左目は落ち窪んでおり、上には、幾つものいびつな線の痕が走っていた。三年前、オレが斬ったのは、左の瞼の上までだったはずだ。
「……傷を、見るたび……触るたびに、腹が立ってなぁ。……目を、掻きむしった、んだよ」
『絶対に忘れない』と、有難くない名指しを受けて以来の、印波の声だったが、聞き覚えはなかった。ただ、あの時も掠れていたな、と思い出した。
「……ころっ……さ、ないのか?」
「気が変わった。お前には、聞きたいことが幾つかできた」
鼻先に突きつけられている、オレの刀の先端を見ながら、印波は笑ったようだった。
「話す……と、思う……のか?」
「心当たりは、あるみたいじゃないか?」
オレに隠していることがあると聞いただけでも、疑問がある程度まで肯定される。
「……か、茅野中隊長ー」
印波の後方、十四、五メートルほど離れた場所から、滝がこちらを窺うように呼び掛けて来た。他の兵士たちも、滝と同程度に離れて、周りを取り囲んでいる。
「まだ来るな!」
印波から目を離さず、オレは叫んだ。少し近づいて、落ちている刀を足で押え、咄嗟には拾えない場所まで蹴り飛ばす。
素手でも暴れかねないので、腕と足を拘束するまで、誰も近づける訳には行かない。
「……かやの」
「何だ?」
「し、りたく……ないかぁ……?」
俯き加減の顔は、不揃いに垂れた前髪に遮られて、残っているだろう右目もよく見えなかった。
それでも、口元は相変わらず笑いの形に歪んでいて、吐息のような声なのに、どこか楽しそうに聞こえる。
命が助かりそうだと喜んでる? ――印波が、そんなまともな反応を見せる相手とは思えず、オレは眉を顰めた。
「何をだ?」
「……っの、ことだ」
聞こえないと言おうとした時、ごぼっと印波が口から血を吐き出した。咳を何度か繰り返し、それでも何か言おうと口を動かしているのを見て、オレは近寄って少し屈んだ。
奴に向けた刀は下げていなかった。油断は全くしていないつもりだった。だが、手品のように、奴の右手に握られていた短刀を見た瞬間、身体が固まった。
毒気に中てられたんじゃない。
『やられる』と思ったと同時に、自分の中から声が聞こえて来たのだ。それの、どこが悪い?――と。
毎朝、自分がいる場所を確かめる、それがなくなるだけじゃないか、と。
オレの意識にできた空白。それを、印波が躊躇する理由もない。
心臓を目がけて、刃の光が走ってくるのを、オレは他人事のように感知していた。反応できず、避けようとさえしなかった光の線は、だが、なぜかオレに届かなかった。
束ねた草を薙ぐような鈍い音が、どこかから聞えた気がする。
ボトッと何かが、足元の草の上に落ちた。よく見ると人の腕だ、短刀を握ったままの指はあったが、肘から上は付いてない。
知らず地面に膝を付くオレと、何かを抱えるように地面にうつ伏せになっている印波の間には、オレのものでも、印波のものでもない白刃があった。
優美な刀身は二、三度びゅんと振られて、血糊を落とした後、ぴたっと印波に向かって突き付けられた。
ぼうっと、そんな光景を見ていると、冬の風のような、触れると切れそうに清冽な声がオレの耳に届いた。
「お怪我はありませんか?」
聞き覚えのある声だった。
のろのろと顔を上げると、どこか見覚えのある痩身の上には、久しぶりに見る、人形のように整った横顔があった。少しでもおかしな真似をしたら止めを刺そうというように、厳しい視線を印波に据えている。
「茅野中隊長……? 茅野さん!?」
苛立ったように何度か名を呼ばれ、ようやく、『今』が現実なのだと認識する。
「綾部……」
名を呼ぶと、表情の乏しい横顔が少しだけ、ほっとしたように見えた。
オレは何度か頭を振って靄を払う。寝呆けている場合では多分ない。立ち上がり、剣呑な目つきをした後輩を押しのけて前へ出る。
「茅野中隊長」
綾部の声は、不服そうだった。
「助けてもらったのに悪いな。これはオレの仕事だ」
この場所にいること自体が減点の対象なコイツに、これ以上手伝わせる訳にも行かない。オレは自分の刀を、印波の前に翳した。
「印波……」
声を掛けると、がくっと下げられている頭の、振り乱れた髪の下から、くぐもった声がした。
「……か……ぁやの」
「今更、恨むなとは言わない」
「……こ……ろすのか……」
だらだらと身体を伝って落ちる血が、下の地面を赤黒く染めていたが、印波の声はあまり悲しそうには聞こえない。さすがにもう、楽しそうにも聞こえないが。
「あぁ。お前もその腕じゃ、もう刀は握れないだろうしな」
綾部の一閃は、印波の右の二の腕から下を、見事に切断していた。
容赦なしの一撃だ。一応、コイツの剣の師匠には、オレの名前も入るんだが、遺伝子以前に、この思い切りのよさはオレにはない。だからいつまで経っても、コイツや鴻上さんと違って、オレは二流剣士なんだろう。
「なら、いいだろう?」
目の前の幽鬼が、剣を振るう以外に何かしたいことがあるとは、どう考えても思いつかない。
背後からは、『そんなヤツの意向は聞くな』と言いたげな、気配が濃厚に漂ってくる。
「……は、ハハ」
突然、印波が笑い出した時も、オレは別に驚かなかった。むしろ、命乞いでもされたほうが驚いただろう。
「ハハハ……茅野、オレはァキサマを、知って……るぞ」
何を今さらと思ったが、次の言葉にオレは硬直した。
「キサマ、と……キサマの、親父を……知ってる……ぞ」
一瞬、何の話をされたのか分からなかった。
「何を……」
言っているんだ、お前は……呟いたオレの言葉を遮る印波のしゃがれた声が、何故か明瞭に耳に響いた。
「キサマの親父が、いたからぁ……キサマらの村はあ、焼かれた」
瞬間、全身の血が逆流するかと思った。