第一章 【襲来】 4.
「何か言いましたか、茅野中隊長?」
×の増えていく地図を睨みながら、ペンを回していた右手が止まった。まっすぐな黒髪を涼しげに刈り込んだ頭が、こちらを振り返る。片山の部隊から派遣された滝軍曹だ。
部屋の中には、他にも通信担当の兵士が六名いて、外で動いている部隊と、綿密に連絡を取り合っている。
第六中隊に割り振られた部屋を、そのまま作戦本部にしたが、こうやって人がいて忙しく動いていると、この部屋も、長閑な田舎の『反省室』でなく、普通に軍の司令室に見える。
実戦よりも諜報活動に向いている生島は、昔の職場――首府の第四大隊本部に出向かせて、情報収集をさせている。鴻上司令は信じているが、何処かから入るかもしれない、妨害に対する予防措置だ。
各地から報告されてくる印波の移動経路は、多少の横道はあるものの、確実にこの駐屯地に向かっていた。あまりにも真っ直ぐ過ぎて、誰か先導でもしてるんじゃないのか?と疑いたくなるほどだ。
「目的地がこれだけ、はっきりしてるのに、中々網に掛からないと思ってな」
「あはは。そんな簡単に捕捉できたら、包囲網を簡単に突破された石背郷の連中の立場ないじゃないっスかー」
滝は、お堅い片山よりも、かなりくだけた明るい性格で、尚且つ、生島ほど、オレに対して責任を感じなくていい立場だから、気が楽だった。
「それよか、本当にいいんですか? この基地の部隊、ほとんど民間警備に回しちゃっても」
柚木司令には、最初っからそのつもりで話してあった。一応この第六中隊の人間だけは使っているが、主に、呼び寄せた土地鑑のない連中に対するガイドと、伝令に回している。
「構わん。あの狂犬相手に、人数で押し切るほど愚策はない」
「……そうですね。周囲に人間が多ければ多いほど、アノ方も喜びそうですし」
滝も、以前の印波捕縛の際、知恵を絞らされた一人である。
「たとえ発見しても、腕に覚えのある士官が傍にいない場合は、無線を入れるだけにさせろよ。絶対の自信があっても、銃は撃つな。外れたら間違いなく斬りに来る」
「了解してます。基本的には前回……と言っても、最後の頃に徹底させた、警告文を流しました」
「それでいい」
前回は途中まで、銃の使用を許可していたが、何人かの射手の命と引き換えに、リスクが大きいことが判明して、禁止した経路がある。
「いっそ、落とし穴でも掘っといて、落ちたところに集中砲火できればなぁ……」
滝はまたペンを回しながら、ぼやいた。
「そんだけ抜けててくれりゃあ、オレたちもアレと、こんな長い付き合いしないで済んだんだろうな」
実際そんな場面が作れるとしても、印波なら、その爆炎の中から立ち上がってきそうで怖い。
やっぱり、止めは手で刺さないとダメだな、と思ったところで、高い警告音が部屋に響いた。
「指定範囲内での発見第一報、入電!」
インカムを付けた通信担当の若い兵士が、オレを振り向いて叫んだ。
「二の五地点で、手配人物らしき相手と三班が遭遇!」
滝がスイッチを押しながらマイクを握り、口を開く。
「防衛線東寄りに修整。六班は三の四地点で待機」
マイクから手を離すと、滝はオレを見てにっと笑った。
「今のところ、予想の範囲内ですね」
「奴の行動基準は単純明快で、その上、前回は特定するのに苦労した、呼び寄せ用の『標的』も、今回ははっきりしているからな」
その『標的』を目の前にして、流石に「そうですね」とは言いづらかったのだろう。滝は笑って返事をにごしながら、地図に新たな×の書き込みを入れる。オレは腰を上げた。
「それじゃ、行くか」
「はい」
滝も机の脇に立て掛けておいた、自分の刀を掴んで、立ち上がった。
オレはふと、印波は今どんな刀を使っているんだろうかと思った。
奴が二年前に使っていた刀は、母星から持ち込んだ貴重品の一つで、名のある刀匠による最上物だったが、捕縛の後、印波の首の代わりとして、オレが水捌けの悪い土の中へ埋めた。今では、赤サビだらけだろう。折れていれば尚良い。刀には罪がないなんて、あれ程の屍を前に、オレは言えなかった。
案の定、印波の身柄を引き渡して数日後、石背側から、あれは『印波タケシ』の個人所有でなく、郷の財産だから返せ、という要求が来た。オレは、現場は混乱していて見つからなかったと、突っぱねた。
印波を血塗れで返還した以上、少しくらい石背の機嫌を取っても、砂漠にコップで水を撒くようなものだ。それくらいなら、感情を優先させたほうがマシである。
本部を離れ約十五分後、手狭になったため現在は滅多に使われていない第一演習場に到着した。既に日が傾きかけている。
周囲を囲んでいた外壁は、大部分が欠けたり崩れたりしている。
何とか原形を留めている一角の、外に伸びた影の中に、滝と同じく片山の下で働いている須賀が、部下十人と詰めていた。
「茅野中隊長、ご苦労様です!」
「元気そうだな、須賀軍曹」
「はい! お陰さまで。中隊長はどうされてまし……」
謹慎くらって僻地にとばされた相手に、それはないだろうと思い至ったのか、須賀は途中で口を噤んだ。
オレは、にやっと笑って、須賀の頑丈そうな肩を叩いた。
「元気だよ。早速だが状況を報告してくれ」
「はい!」
須賀の告げる情報は、オレが本部にいた時点と、ほぼ変わらなかった。あれから、ほんの二十分も経っていない事実を考えれば、それ程おかしくもないような気もする。
だが、張り巡らした包囲網に、一度は引っ掛かった人間が、それ以降どこへも現れていないのは不自然に思えた。
印波はたとえ罠だと分かっていても、目標を前にして、安全圏に留まっていられるタイプではない。
(……それとも二年間で性根が座った?)
「ありえないな」
いくら軍刑務所よりも警備の緩い地方の刑務所とはいえ、移された途端に脱獄した事実を思い出し、オレは小さくつぶやいた。
こちらの疑問を察したのか、滝が口を開いた。
「基本的に、奴が人里を離れている分には引っ掛かりませんから、取りあえずは現状維持でいいんじゃないですか?」
山にでも入られたら、かなり面倒なので、一概に『いい』とも言えない。だが、街中で民間人の犠牲が出るよりは、確かにマシだ。
「まぁ、あっちには片山がいるから抜かりはないだろうが」
片山には、印波を此処へ追い込む側に回ってもらった。刀の腕が立つので、捕獲に回すことも考えたが、そうした場合に、印波が、此処に辿り着くまでに出るであろう、味方の被害予想が立たなかった。
「中隊長、ワイヤーや手榴弾の手持ちがあるんですが、簡単な罠を仕掛けてはいけませんか?」
須賀がおずおずと切り出した。確かに周囲には、仕掛けに使えそうな草むらや、打ち捨てられた石材があるが……オレは須賀の顔を見て、すぐに思い当って頷いた。
「……前回の印波戦では須賀はいなかったな、そういえば」
「須賀が来たのは、ちょうどその後でしたね」
滝が記憶を手繰るように言った。印波戦で出た死傷者の補充要員だったとは、どちらも口に出さなかった。
「須賀、印波に罠は効かない。前も試したが、逆に利用されて、味方が嵌るのがオチだった」
須賀は、不可解そうに眉を寄せた。
「罠が効かないというのは、勘がいいってことですか?」
「勘もいいんだろうが、視覚や嗅覚がいいってことだと思う」
火薬の匂いや人の気配、そんなものが普通の人間よりも敏感に感じ取れる。奴の先祖返りの能力だ。
「おかげで追い詰めても、結局のところ最後は刀での勝負になったんだよ。前回は」
滝が、うんうん頷きながら説明すると、須賀は、腰に下げた自分の刀に、心許なげな視線を向けた。その様子を見て、オレは軽く言った。
「お前に、印波の相手をさせようってんじゃない。そいつを下手に振って、味方に怪我させなきゃいいさ」
「申し訳ありません。出身地が田舎だったもんで、道場とかは、あまりなくて……」
小隊長の配下、班は通常八人~十人でなる。班長には、どんなに不得手であろうとも、複数の人数相手に刀を振るえることが条件に入っている。通常の相手なら、須賀は充分渡り合える。
「お前さんは、本来なら銃火器の専門だ。こんな場所に連れて来て、悪かったな」
何気なく謝ると、今まで申し訳なさそうに俯いていた顔がぱっと上がり、「とんでもない!」との声が返ってきた。
「オレは、片山小隊長の下に入れたのも幸運だったと思いますが、茅野中隊長の下で働けるのは本当に嬉しかったですし、この度も自分から志願して、この任務に連れて来ていただきました!」
成程。だから、前回の印波戦にいなかった須賀が、派遣されて来ていたのか。
それにしても『幸運』というのは、認識に誤りがあるだろう。まぁ、この三年近くオレの下にいたなら、退屈だけはしなかっただろうが。
一応、礼でも言うべきかと顔を上げると、七メートルくらい先にある草むらに小さな光が瞬くのが目に入った。
次の瞬間、叫んでいたのは条件反射だ。
「伏せろっ!」
軍にいると、現場の状況に関わらず、とっさの号令に従って行動できない者は長生きが難しいと思う事例がよくある。
オレが叫び、屈みながら腰の刀を抜くまでの動作の間に伏せられなかった兵士が二人。一人は物も言わず倒れ、もう一人は「班長」と言ったところで、言葉の代わりに血が吐かれた。
「戸倉、楠田ぁ!」
同じように屈んだ姿勢で抜刀している須賀が叫んだ。その身体が前に飛び出すのを、オレは手で制した。
「全員下がれっ!」
叫ぶと、オレは立ち上がって前方にある闇を睨む。
「滝、須賀! 防御を徹底しろ。他班にも伝令を飛ばし、この周囲一キロから蟻一匹たりとも出すなっ!」
返事を聞く前に、オレは前屈みのまま走り出していた。
二つの死体が視界の隅に入って、苦い後悔が過ぎる。
「本っ当に、あの時、叩っ斬っとくべきだったなっ……印波!」
刀を構えて名を呼ぶと、人の形をした逆光の中、引き上げられた口元、そこだけ白い歯が、はっきりと見えた。