リィリの花
次にエイジが目を覚ました時には、燦々と陽光が窓から射し込む朝だった。気を失ってから翌日まで眠ってしまったらしい。
ゲーム内で睡眠がとれることでは驚かない。脳と体を休めるのが睡眠なら、体を特殊なカプセルに収容して休養状態に維持し、意識だけをゲームに接続しているのだから、その接続を切ってしまえば睡眠と変わらない。目を覚ますと同時に再接続したというだけだろう。
「……ぅぷ」
冷静に思考している最中、突然の吐き気に襲われる。起こそうとしていた上半身を再び横たえ、吐き気を抑え込む。
「これは、まさか……」
激しい頭痛と吐き気。昨日の最後に行った行為を思い起こせば、答えは火を見るより明らかだ。
ステータス画面を開き、確認する。案の定、ステータス異常が示されている。
「状態異常で『二日酔い』というのは、どうなんだ?」
呆れたような声を出してはみたものの、その細かい設定の被害を受けている側としてはたまったものでは無い。
「本当なら一時的にログアウトするつもりだったが……このまま戻ると酷い目に合いそうだ」
街などの安全圏にある建物内であれば、基本的にログアウトは自由だ。それについてNPCが不思議に思うことも無い。だが、意識が二日酔いのままログアウトするとどうなるのか。
ゲーム内の状態異常は、本当の肉体に何か影響を及ぼしているわけではない。傷ついても、最悪死んでしまったとしても、肉体そのものには何ら影響は無い。
だがそれはゲームシステムの仕様での話だ。
人間というのは、往々にして意識が現実を凌駕する。と言えば格好良いが、ようは思い込みが肉体に影響してしまうということだ。焼きゴテを当てられていると思い込めば、冷えたスプーンでも火傷する。病気だと思い込めば本当に病気に罹る。ならば、二日酔いとしてここまでリアルな感覚をもってしまっている今、果たしてログアウトしても無事でいられるだろうか。
「…………」
おそらく、何も問題ないはずだ。ないはずだが、あまりに感覚がリアル過ぎた。ここは最悪の場合を想定しておいた方がいい。
結局、エイジはログアウトを諦め、今日は街での情報収集をすることに決めた。
「別に、慌ててログアウトする理由があるわけでもない」
ゲームの連続接続時間だけは気にする必要があるが、ゲーム内での体感時間は現実のそれよりも遥かに早いはずである。肉体の制約が無い、精神だけの世界であるためそう感じる。
ならば、あと丸一日はログアウトの必要も無い。そう自分を納得させ、エイジは部屋を出る。
そもそもこの部屋がどこにあるものなのかわからなかったが、おおよその予想はつく。倒れた場所が場所だけに助かったというところか。
「目を覚まされましたか」
階段を下り、見知った酒場のカウンターに出た。声をかけたのはこの酒場の女主人だ。
「すまん、世話をかけたか」
「いいえ、此方こそお酒に弱い可能性を考えていませんでした。平にお詫び申し上げます」
無駄に丁寧な物腰は、本当に悪いと思って謝っているのか社交辞令なのか判断し難い。どちらにせよ、エイジが迷惑をかけたのは事実ではあるが。
「いや、油断した。今後は一切飲まんと誓う」
「ふふ、それがよろしいかと」
さりげなく水を差し出しつつ、出された飲み物が酒ではないかと微妙に警戒する新人を見て笑う。その姿は、出来の悪い弟を見守る姉のようでもある。
「本日はどうされるつもりですか?」
「依頼を受けるのは控えておく。このザマじゃ、ゴブリン相手にすら苦戦しそうだ」
負けるとは言わないところが、この男らしいところである。それが面白いのか、プラーネがコロコロと笑う。
「二日酔いの辛さを緩和したければ、『リィスの花』をお探しになってはいかがですか?」
「『リィスの花』?」
聞きなれない花である。すぐにゲームないにしか存在しない、オリジナルの花だと直感する。
この場面で名前を出すということは、状態異常である『二日酔い』に有効なアイテムということだろうか。
「その香りは頭痛を和らげ、蜜を白湯に溶かして花びらを浮かべれば酔いをたちまちに覚ましてしまうそうです」
「そんな便利な花があるなら、ここに常備したらどうだ?」
「確かに。一考いたしましょう」
朝っぱらから酒盛りをして騒いでいるおっさん連中を横目にしての冗談と、それを軽く受け流す女主人。
ひとしきり二人で意地の悪い笑いを向け合った後、エイジが立ち上がる。
「もう出られるのですか?」
「ああ。ここにいると、頭痛に響く」
馬鹿にして笑ってはいたものの、やはり二日酔いに酒場の騒がしさは辛かったらしい。
さっさと街にでて二日酔いに効く花でも探してこようとしたエイジに前に、数字の書かれた紙が差し出される。
何の紙だかわからずに差し出した女の方を見るも笑みを返されただけで、仕方なく文面を読む。
見知らぬ言語で書かれているが、その文字の横に日本語で訳が浮かんでいるため読むことが出来た。
「……宿泊代、だと?」
「ええ。当ギルドは酒場と宿を兼業しておりますので」
「昨夜のことは其方にも非が合ったとの謝罪を聞いたはずだが、聞き間違いか?」
「当方にも非がありました。ですので、昨夜の介抱については代金をいただきません」
ただ酔って寝てしまっただけならばさらに介抱代金が加算されていたらしい。強かというか、商売上手というか。油断ならない女である。
とはいえ、宿泊代だけでも今のエイジにはギリギリだ。昨日の依頼料を含め、全財産を根こそぎ持って行かれることになる。
「これは、今日中に二日酔いを治すのは諦めた方が良さそうだな」
軽く絶望的な気持ちになりながら、腰袋をそのままカウンターに置いてギルドを出た。
街に出て太陽の光を浴びている内に、二日酔いの辛さは無視できる程度になっていた。
「状態異常とはいっても、大したことはないな」
などと言ってはいるが、そもそもワイン一口で昏倒したあげく二日酔いになるほどアルコールに弱い方がおかしいのであって、普通の人ならば悠々と一日を過ごすことが出来ただろう。
本人はそれ程重要視していないが、状態異常に対する耐性は重要な項目である。基本の耐性値こそジョブと初めのランダム値によって決定されるものの、動作と同じく生身の肉体に関係した補正も関係してくる。たった一口で状態異常『二日酔い』になってしまう耐性の弱さが、今後のプレイに響かないとも限らない。それこそ、飲酒必須のイベントでもあれば最悪である。
その辺りの問題を、気付いていないのではなく考えないところは、大物の器ととれなくもない。ただ神経が図太いだけという見方も出来るが。
「いらっしゃい、今日は近海で取れた新鮮な魚が安いよ!」
「隣国から仕入れた最高級の絹だ。今日を逃すと二度と手に入らないかもしれないぜ」
「野菜から果物まで、農作物はウチに任せな!」
太陽を眺めるようにして歩いていくと、活気ある声が聞こえてくる。都市でも最大級の市場で、品揃えも王国屈指との触れ込みだっただけはある活気だ。
とはいえ、目的は豊富な食料品でも、美しい調度品でもない。状態異常を回復するアイテム、『リィスの花』である。
「お、そこの兄ちゃん。ウチで防具を揃えていかないか?」
「いやいや、買うなら武器さ。敵を倒せなけりゃ意味がねぇ」
「……は……すか……」
「防具で生存率上昇を!」
「武器で殲滅力向上を!」
「…………です、よー」
巨大市場らしい大きな声で客引きが行われている。冒険者向けの露天は特に大きな金を落としていってくれる客を捕まえようと必死だ。
その中でエイジの目に留まったのは、武器や防具ではなく、ましてや食料品や調度品でもなく、周囲に声を掻き消されながらも懸命に声を張り上げている少女の店だった。
もちろん少女が魅力的だとか、そんな下心からではない。一般的な観点から見れば、派手さはないものの素朴な可愛らしさはあるが、そういった外見的な要素をこの男は一切気にしていない。
「お前、花屋か?」
少女の前には色とりどりの花が並んでおり、一目で花屋であることがわかった。目当てのものが売っていると思っての声かけである。
「あ、えっと……は、はい! 『エルー生花店』へようこそ」
目を閉じて声を張り上げていたため、接近に気付かなかったらしい。
突然の質問形式に驚きながらも、満面の笑みで出迎える。よほど客が来たことが嬉しいらしい。
「『リィリの花』ってのは置いてあるか?」
「あ、はい御座います。奥から持ってきますので、少々お待ちください」
そう言って商店の奥に入っていく少女店主。市場とはいえ、店の多くは店舗の前にテントを張って売り出しをしているだけで、別に普段は別の場所で商売している人間ばかりが集まっているわけではない。月に数回、このような市場としての売り出しが都市政府から認可されているだけ。ようは、祭りに近い。
「…………」
店の中で注文の花を探す後ろ姿を眺める新米冒険者。その目は細められ、眼光は観察と言っていいほど鋭い。
ゲーム内では二日目。その感覚には早くも慣れてきているとはいえ、キャラクターについては酒場の人間と門番、あとはナビゲーター役しか見ていない。より多くのキャラクターの観察と情報収集が、彼の目的には必要だった。
「しかし……想像以上、だな。ホネが折れそうだ」
「はい?」
目当てのものをやっと見つけ、店から出てこようとしたものの店先に置いてあった商品棚に躓くという間抜けさからは人間らしさしか感じない。周りの同じような人間臭いキャラクター達がいなければ、NPCではなくプレイヤーだと判断してもおかしくなかった。
NPCに紛れ込んだプレイヤー。それを探すことが、目的の第一段階。とはいえ、それが容易でないことをエイジは十分理解していた。
「いくらだ?」
値段を聞いて支払う。代金を受け取った時の嬉しそうな表情も、およそコンピュータとは思えないものだったが、それは他のキャラクターも同じ。その上で、プレイヤーとNPCを見分けられる点を探ることが目下の目標。
「本日はご来店くださってありがとうございます。よろしければ、今後もご贔屓にしてくださいね」
そんな客の思惑など知らずに、破顔しながら来店の礼を言う店主。大した売上ではないのに、よほど客が来たことが嬉しかったらしい。
「客、少ないのか?」
あまりに喜ばれるので、呆れたように質問する。
「えっと……市場が開かれている間は、やっぱり他の物珍しいお店にお客さんが集中しますから。私、声も小さいし、冒険者がメインのお客さんの市場じゃ花を買われていく方も少なくて……」
「あれと同じだけの声量を出せってのも、酷な話だとは思うがな」
隣の武器屋と防具やを見やる。花屋との遣り取りの最中にも聞こえ続けているバカでかい声は、客引きも店を訪れた客に説明するのも同じ大きさだ。客もその大きさに顔をしかめながら買い物をしている。見た目からしてまだ十代の少女にあの声量を求めるのは無理がある。
そうもいっていられないのが商売、ということもわかっているのだろう。少女は愛想笑いを浮かべるだけに留めた。
「冒険者っていっても、この『リィリの花』みたいに特殊な効力のある花もあるだろう。それを買いに来ることは無いのか?」
「確かに他にも体の不調を治す用途に使えるものはあります。でも、やっぱり冒険者の方はお金持ちが多いですから、多少高価でも即効性のあるお薬をお求めになるんです」
「なに? なら、『リィリの花』と同じ効力の薬もあるのか?」
「あるにはありますが……お薬を買われるだけのお金を持っている方は貴族か冒険者の方くらいです。たいていはお酒に強いですから、酔われて体調を崩すことはありませんし、需要が少なくて他のお薬よりも高いんです」
「…………そうか」
この花を『二日酔い』の治療に使うつもりだということは黙っていた方が良さそうだ。身なりからして冒険者ということは丸わかりだし、かなり情けない男だと思われることになる。
余計なことを聞かれる前にと、そそくさと花屋を後にする。
「くそ……酒に弱くて悪いか」
プラーネといい、花屋の少女といい、酒に酔うことが珍しく情けないことだと思わせるようなことばかり立て続けに言われ、軽く愚痴る。
この世界に来る前から、酒に弱い体質については色々と言われてきた。過去の仕事仲間などは、それこそ冒険者のように仕事終わりには酒盛りして騒ぎ、次の日には大量に飲み干したアルコールが無かったかのような態度で仕事に戻っていた。
「酒に弱い人種が悪い、俺は悪くない」
とうとう人種まで否定し始める。本人にとっては、数少ない弱点であると自覚しているこの体質は受け入れがたいものであるらしい。
そんな外から見れば酒に弱い云々以前に十分情けないエイジだったが、緩んでいた表情が瞬時に引き締まる。
「…………」
多くの人が行き交う市場の往来。その中に居る集団を視界の端で意識しながらすれ違う。
顔にド派手な刺青をした大柄な男と、左目に傷のある長身の男。どう見ても堅気の人間ではない。現実世界でいうなら、暴力団かマフィアである。
周囲の店には目もくれずに歩いていくところを見ると、目的はすでに定まっているということだろう。
「……追うか」
確実に何かが起こる。そんな確信を持って後を追う。
人ごみをかき分け、男達を追って元来た道を戻る。心配は無いだろうが、念を入れて気配は消して――ゲームの世界で、「気配を消す」という行為に意味があるか、実行可能かは定かではないが――周囲の客に紛れながら慎重に後を追う。
そうやって辿り着いたのは、なんと先程の花屋だった。
「何をするつもりだ……?」
あんないかにもな連中が花を買うつもりだろうか。
「……ないな」
似合わな過ぎて気味が悪い。人を外見で判断するとか、そういう問題では無い。あの二人が花束を持って歩く姿を想像しただけで頬が引きつる。
となれば他に理由があるはず。少し興味を引かれて、花屋に再び入る。
「とっとと金払えって言ってんだよ、俺らはよぉ!」
「きゃあ!」
中ではなんともテンプレートな状況が繰り広げられていた。
男の内刺青の方が少女を恫喝し、もう一人は腰の打棒で商品を薙ぎ払っている。
「花が……! 止めて、止めてください!」
「うるせぇ、文句言う前に金を払ってりゃいいんだよ!」
腕に縋りつく少女を振り払い、男達は暴れ続ける。突き飛ばされた少女は、ヨロヨロと這って地面に落ちて踏み潰された花へ近づいていく。
「こんな……酷い……!」
花を抱くようにして涙を流す少女と店内を荒らしながら喚き立てる男は、新たに来店した第三者には気が付かない。
この光景を目にして、エイジは助けに入るでもなく、かといってその場を立ち去るでもなく冷静に観察を続けていた。”この場において重要なのは、少女が悲しんでいることでも男達の事情でも無い”。そう考えていたからだ。
エイジは判断しかねていた。これが、イベントか否かを。
イベントであるのならば、参加していいのかどうかを改めて考える必要がある。戦闘技能がいくら高くても、所詮プレイヤー「エイジ」は冒険者になったばかりの新米で、キャラクターレベルが低い。レベルが低いということはそれだけHPが低く、使用できる魔法も特技も限られているということだ。
今の段階ではイベントに参加するのはリスクが大きい。一般のプレイヤーと違い、リスクとメリットだけを冷静に判断できるエイジにとっては、少女がどうなろうがどうでもいいことであり、リスクを考えれば助ける必要が無いと判断するのは十分だった。
「帰るか」
すでに目当ての花は買った。どんな理由があるか知らないが、この程度の問題は現実でも当たり前のように存在する。同情するまでも無い。――そう、判断を下した。
「……助けて、お姉ちゃん」
「――――」
踵を返したエイジの耳に、か細い呟きが聞こえる。
助けを求める少女の声。たった一言だけで冷淡な判断を下した足を止めた。
「――おい」
「あぁ?」
突然かけられた声に、暴漢が手を止めて振り返る。その横顔を、鞘に入ったままの剣が勢いよく殴りつけた。
殴られた男は悲鳴を上げることもなく、剣の勢いそのままに吹き飛んで壁に激突する。そのまま気を失って地面に倒れる相方に、もう一人が気付く。
「テメェ、何しやがる!」
「黙ってろ」
一度男を倒すと決めてしまってからは早かった。剣帯から鞘ごと剣を抜くと、即座に踏み込んで手前で花を蹴散らしていた男を殴りつける。それに反応した相方も、問答に応じるようなことはせず、真横に飛んで敵の視界から消える。
「なっ、消えた!?」
商品が乗っていた棚を足場にして壁を蹴り、驚いて足を止めた男へ躍り掛かる。
壁を蹴った勢いのまま空中を疾走し、男の背後を通り過ぎる時に剣を横薙ぎにする。側頭部を容赦なく殴打された男は声も無く卒倒し、地面に着地したエイジは何事も無かったかのように立ち上がって剣を剣帯に収めた。
「……ぁ」
魔の前で起こった出来事を理解できず、座り込んだまま呆けていた少女はパクパクと口を動かすだけで声を出せずにいた。
「怪我は」
「あ、りません……」
「ならいい」
それだけ言って店を立ち去る。性格上、というより信条から自分の選択に後悔こそしないものの、一度無視すると決めた事に首を突っ込んでしまった。助けを求められ、なし崩し的に関わることになる前に立ち去ろうとしたのだ。
そんな男の背中に少女がかけた言葉は、助けを求めるものでは無かった。
「あの! ありがとう、ございます」
深々と頭を下げ、礼を言っただけ。
事情がわからなくとも、今回男を打ち倒したせいで状況は悪化するだろう。金がどうのと言っていたのだから、金貸しか何かだろうと予想は出来る。ならば二人だけということはあるまい。
仲間か部下か、どちらせよこの手の連中が次に出る行動は「報復」だ。今日以上に少女は辛い状況に陥ることになるだろう。
「くそっ……!」
再び踵を返し、少女に頭を上げさせる。
「冒険者様……?」
「事情くらいは聞いてやる。助けるかどうかは、その後だ」