スイッチ
さあ、困った。
今、俺はよくわからない場所で立ち尽くし、よくわからない状況に首を傾げている。目の前には小さなスイッチが一つ。当たり前のようにそこにある。
別に隔離されていることでも無いわけで、そこに壁があるはずでもないわけで。なのにそのスイッチは壁にへばりついているように浮かんでいる。
ここはどこだ。俺は何をしている? 俺は何をすればいいのだ。ここを立ち去れば良いことなのだが、どうもそれは納得がいかない。
スイッチは押されることを催促するわけでも無く、押さないでくれと哀願するわけでもなく、ただ、俺を見つめている。そのことが余計に俺を悩ませる。
周りは白とも取れるが、黒とも思える。いや、赤かもしれない。青と言うこともあり得る。そしてスイッチ。
「なんだ。お前は」
自分で言ったはずの言葉は、どこか遠くから飛んでくる。
「何がしたい?」
また言葉が飛んできた。俺が言ったはずなのに。誰だ。俺を隠すのは。
スイッチは答えずに、俺を憎いほどに見つめてくる。
「何が言いたいんだ」
俺は苛立ちを覚えた。こんな物に。そして、俺を隠す正体に。
「答えろ!」
むきになる自分にも苛立つ。
「答えろよ!」
こんなただの個体が、俺の言葉に返事をすることなど、当たり前のように出来ることもなく、俺には叫んだ後の空白感だけが残った。
「なんなんだよ……」
呟きさえもが、自分のものではないようだ。
俺は手持ち無沙汰に、その場に崩れた。俺の体が粉々になる気がした。そしてそれは“気”だけではすまない予感がした。
いや、すんだのかもしれない。この崩れる音は、どうやら彼方から聞こえてくるようだ。しかし一体なんなのだ? ここ、スイッチ、崩れる音。謎は増えるばかりだ。
俺はせめて一つでも解決しようと、大きくなりつつある、その音に耳を傾けた。
微かにする。しかし、耳の奥底から聞こえる。異様な感覚に飽き、耳を塞ごうとする。しかし、何かが耳を叩いた。
“押さないと、始まらない”
それは確かにその音の中からはい出て来た。もう一度耳を叩かれる。
“始まらないと、押せない”
それはさっきとは似ても似つかぬ言葉。押せば始まると思いきや、今度は始まらないと押せないではないか。
“押さないと、始まらない”
また聞こえた。
「っせえよ!」
苛立ち、地面を力任せに殴った。が、響くはずの鈍い音は何かに吸収され、空白感がまた、俺を襲った。
この空白感だけでもどうにかしよう。しかし、こんな状況ではどうにもできない。
とにかく、空いてしまった何かを取り戻すため、俺は記憶をまさぐった。そして気付いた。俺には記憶が無い。未来の想像図ならあるのだが、俺の中には過去がない。
謎は増え続ける。
俺は誰なんだ? なぜここにいる? 未来には何がある?
とにかくこの状況を脱出しよう。俺はスイッチに指をかざした。その時、遠くで何かが聞こえた。本来、聞こえるはずがない、何かが。そして近くからも、何かが届く。
遠くで聞こえる断末魔。断定は出来ないが、それとしか取れない。聞こえる。俺に何かを求めるように聞こえる。
そして近くで聞こえるは……激しく、歓喜する、産声。
これは産声だ。誰かが今、命を吹き出した。なぜ聞こえるのか。もはやそれは問題ではない。
俺は考える。
遠くで聞こえる断末魔。近くで聞こえる産声。
その瞬間。俺は全てを悟った。
……そう言うことか。全ての答えがつながる。
俺のいる意味。ここ。
そうだったのか。
小さな悲しみと苦しみ、そして怒りを感じながら、俺は立ち上がり、スイッチと向き合った。
“押さないと、始まらない”
では、始めよう。始めないと、押せないのなら。
俺はスイッチに、震える指をかざした。
完