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~ 5 ~



 加湿用ケトルの先から蒸気が立ち、しっとりと暖かな香りを部屋に運ぶ。

 上質で柔らかな掛け布にくるまれ、ウェスリンは窓の外を見ていた。

 今日は今年最初の雪が曇天の中降り続けている。朝からずっとこの調子だ。止んでくれないだろうかと気にしていたものの、緩む気配は無さそうだ。


 控えめなノック音が聞こえ、待機していた召使が扉に立って出迎える。


「――こんにちは、ウェスリンさん」


 外套を手にしたローゼスの姿を認め、ウェスリンの青白い顔が輝く。

 身を起こそうとしたところに小間使いが駆け寄ったのを、彼女は首を振って制した。


「……自分で起きられるわ」


 では、と小間使いはローゼスに会釈をして退出した。もともとウェスリン・ハイザーから、牧師が訪れた時だけは部屋から出ていくようにと言いつけられている。


「降雪により遅れてしまいました。申し訳ありません」

「……今日は来られないのではと思っておりました」

「例え嵐が来ても這いつくばってお伺いします」


 ローゼスの答えに、まあ、とウェスリンは笑った。

 ローゼスはシネラリアの小さな花束を土産に渡し、二人はしばし他愛もない話をして過ごした。


「――それでは始めましょうか」


 シネラリアを窓辺の花瓶に挿し足すと、ローゼスは教本と帳面を取り出した。


 ここでの滞在時間の半分は教本を元に授業をする。ウェスリンは元々読書家であったため、基本の教本だけではなく専門教本も所有していた。彼女はそこから想像を膨らませつつ、幾つかの質問を提示する。彼はそれに答える際、ちょっとした物語も加えてウェスリンの興味を引き出し、より深い話へと繋げていく。それらのまとめをローゼスが記帳し、最後にウェスリンの手元へと渡り授業は終わるのだ。


 ローゼスの前でウェスリンは明るく振舞う。

 少しずつ痩せ衰えていく顔は時折苦しげに歪めども、せめて笑顔をと努力をしているのだろう。

 気の利いた事も陽気な冗談も飛ばせない。だが、自分と共に過ごすひとときを彼女は何よりも楽しみにしてくれているのだと分かる。

 その事がローゼスには嬉しくもあり、また心苦しくもあった。


 授業を終え、別れの時までのひと時を、二人は窓辺から見える雪とシネラリアの混じった花を眺めて過ごした。


「ブラッジ様は……お好きな方がいらっしゃいますよね……?」


 窓の方を向いたまま、ふいにウェスリンが尋ねてきた。


 ローゼスは何も答えなかった。

 

「……姉、ですよね」


 吐息と共にウェスリンは俯いた。


「……ごめんなさい。薄々気付いてはいたのです。

 わたしの我侭のせいで、お二人に迷惑をかけてしまった……」

「我侭など一度も」

「いいえ……我侭です。気付いていたにも関わらず……わたし……わたし、どうしても、あなたに会いにきてほしかった……」


 俯いた顔にかかる髪の隙間から、ぽたり、と一粒涙が落ちる。


「……あなた方お二人はよく似ていらっしゃる。互いを思いやるあまりすぐに自身を咎めてしまわれる」

「……ブラッジ様」


 神の彫像が付いた首飾りを外すと、ローゼスはウェスリンに握らせ、そっと両手を被せた。


「ウェスリンさん、あなたは心優しく聡明な、素晴らしい女性です。貴女のおかげで私は多くの発見を得る事ができました。こうしてこちらへ招いていただけるひとときを、毎回楽しみにしているのです。

 フェンネルさんも私も、あなたの事が大好きですよ。

 ――共に祈り、出会えた喜びを分かちあいましょう」


 ウェスリンは涙混じりの顔でローゼスを見上げてはにかんだ。


 そうしてそのまま帰るまで、二人は手を重ねたまま穏やかに過ごしたのだった。






 日の曜日の集会を終え、祭壇から離れたローゼスは、帰宅する人々の波の奥に見知った顔を見付けた。目が合った事に気付いた初老の男性が片手を上げる。


「タイター先生」


 ローゼスは早足で近寄ると頭を垂れた。


「お久しぶりです。わざわざお越しいただきありがとうございます」


 ふっくらした身体に立派な口髭を蓄えたタイターは、ローゼスの父親と親交のある人物である。


「手紙は読ませてもらいました。書斎に」


 タイターは帽子を脱ぐと立ち上がって促した。



「――こちらがその記録になります」


 ローゼスが持ってきた革張りの分厚い帳面を受け取り、タイターは鳥羽根栞が挟んであるページを開いた。


「これはまたブラッジ君らしい、実に細やかな記録だ」

「お役に立ちますでしょうか」

「申し分ないですな。聖職者による二年分の詳細記録、審問会でもそのまま証拠として通る筈。

 是非、協力させてもらいましょう」

「ありがとうございます」


 ローゼスは両手でタイターの手を握り締めた。 


「――彼女の事を、好いていらっしゃるのですね」


 一通り記録に目を通し終え、出された紅茶を飲みながらタイターはローゼスに言った。


「力になれたら、と思っております」


 噛み締めるようなその言葉にタイターは頷いた。


「だが私が動いてしまえば、あなたが少々厄介な立場になるのでは」

「構いません。叱責や制裁は受けるつもりでいます。先日彼女が懐妊したと聞きました。猶予がありませんので、先生には早急に動いていただきたいのです」

「尽力を尽くしましょう。しかしまあ」


 タイターは口髭をさすりつつ微笑んだ。


「あなたは私が思っていた以上に情熱的な方だったようだ」





 ハイザー商会代表としてではなく『フェンネル』個人宛に二通の書簡が届いたのは、それからしばらくたっての事だった。


 一通はギリアム・タイターという見知らぬ相手からで、もう一通はローゼス・ブラッジからだ。


 封を開けてみると、タイターという人物は弁護士であるらしかった。

『つきましては同封の書類数点に御署名いただきたく存じます』

 分厚い書類に目を通したフェンネルは、目を見開いた。慌ててローゼスからの書簡も開く。


 読み終わったフェンネルは、すぐに馬車を呼んだ。



「――どういう事ですの」


 カツカツと教会の中を音を立てて歩き、フェンネルはローゼスに詰め寄った。訪れていた数人の信者達が驚いたように牧師につっかかるハイザー夫人を見る。


「手紙にて説明をした通りです」


 ローゼスはいつもと変わらぬ穏やかな顔で答えた。


「これは私一人の問題ですわ。何故貴方が審問会に出頭する必要があるのです。ヴォルケイドと争うなど」

「――貴女が好きだからです」


 ローゼスの言葉に、フェンネルは息を呑んだ。


「私はただの牧師で、何の権力もありません。

 ですがフェンネルさん、私は貴女が欲しい。

 だから戦います。リシュリーからもハイザー商会からも貴女を奪い、手に入れてみせます。

 私を信頼してくださり告白してくださった事を晒す事なってしまうのが、大変に申し訳ないのですが」


「……で……ですが、そんな事をすれば……貴方は聖職者ですのに……」


「牧師を罷免されても生きていくことはできますよ」


 フェンネルは真っ青になり後ずさった。


「……私のせいで……あの時、あんな事を言わなければ……」


「いいえ。貴女の『おかげ』で私は一つの愛の形を知ることができたのです。

そうして、もし可能であればこの先も、貴女と別の形の愛を育めたらと思っております」


 受け入れてくださいますか。


 ローゼスは腰を落とすとフェンネルと同じ目線になり、優しい瞳でそう問うた。




 妹の顔が浮かんだ。

 ハイザー商会という資金源が無くなってしまえば、今のような贅沢をさせてやれなくなる。

 彼女の想い人であるこの人の手を取れば、どれだけ彼女を傷付ける事になるだろうか。


 それから、彼から聖職を剥奪してしまう可能性への恐怖も。




 けれどもこの瞬間、フェンネルは開放された。




 ふらふらと愛する人に近付き、間近で見つめ合う。


「あ、愛して……くださるのですか?」


 いつか懺悔室にて尋ねたのと同じ震える言葉に、


「愛しています。貴女を」


 揺るぎない返事が返ってきた。



 ぼろぼろと涙を零してしがみつく寡婦とその背を抱きしめる牧師に、周りの人々は皆驚いて顔を見合わせあったのだった。





 その後、ローゼスは審問会に出頭してヴォルケイド・リシュリーを相手に争った。


 争点はハイザー商会現代表であり寡婦であるフェンネル・ハイザーが身篭っている子供がどちらのものかという事だ。


 リシュリーが「自分の子だ!」と声を荒げるのに対し、ローゼスは以前から彼女と相愛の仲であり結婚を前提とした付き合いがある事、万が一リシュリーとの間にできた子だとしても親権は自分のものであることを主張した。


 証拠として、彼が長年記帳していたフェンネルの懺悔の内容が公開された。


 そこに書かれていたのは、寡婦となった彼女が男性から受ける誘いや罠に苦しみ悩んでいた日々であった。彼女がリシュリーと関係を持ったのは、断り無く襲われた一夜のみであったということ、またその内容が愛ある営みではなく性欲の捌け口とおぞましい恐怖を与えるような一方的なものであった事実も明らかになった。


 審議員達の決断はそう長くはかからなかった。

 あらかじめ弁護人であるギリアム・タイターがリシュリーの事を調べあげていたため、彼の姉が生前から弟に商会の金を流していたこと、姉が亡くなった後も関係者を脅して流し続けていたこと、愛人が幾人もいて奔放に遊び歩き、ハイザー夫人に何の労りもしていない事などが挙げられたからである。

 対して、ローゼス・ブラッジという牧師からはどこを叩いても埃一つ出ない。


 どちらが父親としてふさわしい人物であるかは明白だった。





* * *





 冷たい箒の柄を持ちながら、ローゼスは白い空を見上げた。 


 あれから3年近くが経つ。



 聖職者でありながら審議会に出頭し、あまつさえその内容は女性関係に関するものであったにも関わらず、彼は罷免されることなく今でも牧師を続けている。


 罷免の話が出なかったわけではない。だが、言い渡されるより先に事情を知った信者達が、ローゼスを教会に留めるべく署名や抗議運動をしてくれたのだ。


 おかげで今でもこうして掃き掃除ができている。



「ぱぱ」


 たどたどしい呼び声に振り返る。


 幼ない娘がよちよち歩きで自分の元へ寄ろうとして、ころりと転んだ。屈み込み優しく抱き起こしてやると、笑いながら「だっこー」としがみつかれた。


「はっぱぁ」


 転んだ時に握ったらしい赤い葉を見せると、幼女は楽しげに笑った。その顔を愛おしそうに見つめてローゼスも微笑む。


 彼らの後ろから枯葉を踏みしめながら近付いてきた女性は、ゆったりとした質素な服を着ていた。

 穏やかなその顔にはほとんど化粧が施されていない。



 フェンネル・ブラッジは今では牧師の妻として彼の傍にいる。ハイザー商会からは籍を外し、一銭も持たずにローゼスの元に嫁いできた。

 彼女の妹であるウェスリンはフェンネルがローゼスと結ばれたのを待っていたかのように、二人に見守られながら穏やかに息をひきとった。彼女の遺髪は今でもフェンネルの胸のロケットに大切にしまってある。



 ひゅうっ、と一際強い風が吹いた。


「あなた、そんな薄着では風邪を引いてしまいますよ。

 いったん戻って」

「――おちゃしまそ?」


 母の言葉尻を取ってしまった娘に、夫婦は顔を見合わせ、そうして穏やかに微笑みあったのだった。




        <寡婦と牧師・おわり>


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