~ 4 ~
「姉様……わたし、死ぬのが怖いの……」
ある日、ウェスリンは見舞いに訪れたフェンネルにそう呟いた。
妹はこれまで、ほとんど弱音を吐いた事が無かった。病床にあっても本を読み、音楽を聴き、思い描いた空想の世界を紙に走らせてはフェンネルに話して聞かせていた。
けれど、日に日に衰えていく体力と部屋から出る事の叶わぬ悲しみが、彼女の心を蝕まないわけがないのだ。
むしろ、これまでよくぞ辛抱強くあったものだとフェンネルは思う。
「何を言っているの、きちんとお薬を飲んで養生すれば、きっと」
「きっと、何? 元気になれるとでも? 姉様……わたし、もう分かっているのよ……」
げっそりと痩せた頬に流れた涙が、ぽたりとシーツに染みを作る。いくら豪奢な寝具に愛らしい寝間着を着せていても、彼女の衰弱ぶりは隠せない。
もっと、何か他に彼女が安らぐような事をしてやれないだろうか。
そう考えたフェンネルは、とある事を思い付いた。
「こんにちは、ローゼス・ブラッジと申します。小さな教会の牧師をしております」
数日後、ウェスリンの部屋にやって来たのは、背の高い詰襟服を着た男性だった。
フェンネルは、驚いて目を丸くするウェスリンの手を取り微笑んだ。
「今日は、いつもお世話になっている牧師様にお話をしていただこうと思ってお呼びしたの。
以前、貴女が持つ教本の中にいろいろと深く知りたい話があると言っていたでしょう? せっかくですから、この機にお尋ねしてみたらどうかしら」
いつも同じ環境にある妹へ、フェンネルなりに考えた彼女への新しい刺激だった。
ローゼスは病床のウェスリンに普段と変わらぬ穏やかな笑顔で接した。教本を共に持ち、開いたページを共に声に出して読みながら、ウェスリンが知りたがっていたより深い物語を話して聞かせる。
初めて出会った異性に最初こそ身を固くして緊張していたウェスリンだったが、終いには声を立てて笑うほど、楽しいひとときを過ごせたようだった。
「牧師様、またすぐに来て下さるって約束してくださったわ。
次はいつになるのかしら……」
翌日、屋敷を訪れたフェンネルは頬を染めたウェスリンの瞳が恋に落ちた者のそれだと気付いた。
病弱な妹はこれまで家族以外の誰かと知り合う機会などほとんど無かったのだ。
そこに真面目で誠実な男性が現れた。惹かれてしまうのは自然な流れだといえよう。
――彼女が出会ったのが、自分のように40も離れたような相手でなくて良かった。
ふいに結婚当時を思い出し、ウェスリンの手を握りながらもフェンネルの心に影が差す。
夫に先立たれた後も欲深な男ばかりに言い寄られ疲弊していた彼女の心は、教会とローゼス・ブラッジによって救われた。
彼なら、きっと妹に幸福な時間を与えてくれるだろう。
ウェスリンに約束した通り、ローゼスは翌々日の夕刻になるとフェンネルが用意した馬車に乗り屋敷へと向かってくれた。今度は小さく可憐な花束を渡し、短い面談時間の間に教本を読み聞かせ談笑して帰ってくれたらしい。
本当はフェンネルも付き添う予定だったが、都合が悪いと嘘をつき、二人きりで過ごさせた。
「本当に素敵な方だわ……」
ウェスリンがうっとりと呟き、フェンネルは彼女がその時の様子を話してくれるのを聞いていた。
薔薇色のジェリーをすくって口に運んでやる間も、ウェスリンは頬を染めて花瓶に生けられた小さな花をずっと眺めて過ごしていた。
そうやって、屋敷にて午後を過ごした帰り道。
フェンネルはローゼスのいる教会に寄り、本堂の表扉を開いた。
中にいた牧師と数人の信者に会釈をし、長椅子の一つに腰かけると祈りをしつつ一人の時を待つ。やがて、誰もいなくなった頃合いを見計らい、彼はローゼスの元へと近付いた。
「こんにちは、牧師様。昨日はどうもありがとうございました。
本日は図々しくもお願いしたい事があり伺いました」
「こんにちは、ハイザーさん。何でしょうか。私にできることがありましたら、喜んで」
牧師は、いつもと変わらぬ笑みを浮かべていた。
フェンネルは辺りを見回し、他に誰にいないことを確認してから切り出した。
「牧師様がお時間ある時で構いません。どうか、妹の元へできるだけ頻繁に通って教えを説いていただけませんでしょうか。勿論、馬車はこちらから出しますし、相応の謝礼もいたします」
ローゼスは穏やかに頷いた。
「妹さんのお身体では最寄りの教会への移動もままならぬ事と思います。微力ながらお手伝い致しましょう」
「ありがとうございます、大変助かりますわ。
それからあの、更に図々しいお願いだと分かってはいるのですが……。
牧師様に、妹に特別親身になって付き添っていただけないでしょうか。
彼女は――、貴方の事を慕っておりますの」
ローゼスの顔が僅かに強張った。
フェンネルはすがるように彼の淡い瞳を見つめた。どれだけ自分が厚かましい事を言っているかは分かっている。それでも、彼女はどうしても妹の想いを成就させてやりたかった。
「――分かりました」
やがて、フェンネルの顔を見つめたままローゼスが静かに答えた。
「私は嘘を付いたり恋人の真似事などはできません。ですが、傍らで手を取り親身になって話をする事は可能です。
協力致しましょう」
「ああ、ありがとうございます牧師様! 謝礼はいくらでも致します!」
「礼など結構です。では、連日は無理ですが二日おきに伺いましょう。馬車の方をよろしくお願いします」
急に態度も口調もよそよそしくなった気がしたが仕方がない、厚かましい願いをした事を考えれば当然のことだ。
フェンネルは深々と一礼すると、教会を後にした。
夜。
広く冷たい寝台の上で、フェンネルは一人膝を抱えていた。
今夜も寝室の扉には二重に鍵をかけている。あのおぞましい一夜以来、ヴォルケイドを受け入れた事は一度もない。それでもしょちゅう屋敷を訪れる彼は、今日も二人きりになるのを狙って後を付け回していた。今日は妹の元へ向かう馬車にすら乗り込んでこようとしたため、無理やり突き飛ばして出発させたのだ。
彼のあの傲慢さと貪欲さぶりには、ほとほと疲れさせられる。
「俺の子種をたっぷり注いでやったからなぁ、そろそろ孕んでいたら分かる頃合いだろ? 分かったらすぐに教えてくれよ」
別れ際、腰に手を回しながら不愉快な台詞を囁かれた。おまけに胸に手を差し入れられ、いやらしくまさぐられた。
思い返すだけで具合が悪くなる。
首を振ったフェンネルがぼんやりと振り返るのは、昼間訪れた教会でのやり取りだった。
彼、ローゼス・ブラッジの顔を昼間見たのは初めてだった。
自分を出迎えてくれた時の穏やかな笑顔。淡い瞳。
姿が見えない夜にそっと抱いてくれた温もりと、心洗われるような幸福感を思い返し、同時に教会で見せた彼の強張った表情に、胸がじくりと切なく痛む。
認めざるを得なかった。
憧れの域などとうに超え、ローゼス・ブラッジを愛してしまっている。
――だが、気付くのがあまりにも遅すぎた。
もしヴォルケイドの子を身籠ったのであれば、次期ハイザー商会の跡取りとして彼を夫に迎え入れなければならない。
それに、妹の淡い恋心を自ら進んで壊すなど絶対にしたくはなかった。
(教会での懺悔も止めた方がいいでしょうね……)
フェンネルは、自身がどこまでも孤独になった事を実感していた。
ヴォルケイドと夫婦になれば寝室で自分に戻る時間もなくなり、妹の前では姉として温かく恋を応援し。
その上、懺悔もできなくなれば。私は。
「……た……助けて……」
フェンネルはシーツをたぐり寄せてわなないた。
「たすけて……ください……」
淀んだ未来しか見えない絶望。
「ローゼス……様……」
泣きながら、彼女は愛しい人の名を呼んだ。
* * *
ローゼス・ブラッジは祭壇の前にて祈りを捧げていた。
真夜中の教会に訪れる者など、もう誰もいないだろう。湯を使い身を清め終え、荒れた心を静めようと彼は祈りに没頭していた。
やがて一通り唱え終わると、ローゼスは立ち上がり、教会内の燭台の火を一つ一つ消して回った。入口の最後の燭台を消す前に大扉の施錠をしていると、懺悔室の方から呼び鈴が鳴る音が聞こえた。
(このような時間に……)
夜更けの懺悔は時折あれど、ここまで遅い時間は初めての事だった。よほど切羽詰まっているのだろうか。
ローゼスは最後の燭台を消し終わると、移動用の燭台を持ち早足で懺悔室の裏へと回った。扉を叩いて入室し、衝立の向こうへと呼びかける。
「お待たせ致しました。ようこそいらっしゃいました」
返事は無い。だが、人の気配はする。
緊張しているのだろうか、とローゼスが向かいに座り燭台を棚に置いていると、
「――懺悔します」
小さく震える声がした。
「わたくしは嘘をついておりました……自身の、本当の心の内を明かすことができませんでした。こうして、苦しさと後悔で夜半にも関わらずこちらへ訪れてしまった事を、どうかお許しください」
「――神の、許しを請うならば」
努めて冷静に聞こえるよう、ローゼスはいつも通りの台詞を述べた。
「――この場にて偽りなき事実を述べなさい」
「……はい。
わたくしは、妹の事を深く愛しております。彼女の望むものを全て与え、願いを叶えてやりたいと思っても、病床の日々に本当の彩りを与えてやることはできずにおりました。
ですから、彼女に好きな人ができたと知り、それはそれは嬉しかったのです。恋の喜びを知り、日生きる希望が湧けばと願いました。
けれど、本当は、そのお相手の方を……わたくしは……わたしくは……」
衝立の向こうが、しばし静かになる。
「――お慕いしております……」
ローゼスは強く拳を握った。
神の代理として聞き届けるのが今の自分の役目である。
ここにいるのはローゼス・ブラッジという男であってはならない。
「……愚かな望みを持って、こちらに参りました」
緊張のあまり喉がひりつくのだろう、掠れた声は途切れがちだ。
「一度だけ……あ、愛して、いただきたいのです……」
小さな室内に息苦しい程の静寂が訪れた。
ローゼスは燭台の火を消した。立ち上がり、衝立から腕を伸ばして小窓のカーテンを引く。月光が遮られ、懺悔室は濃い闇に包まれた。
衝立をずらし、向かい側に踏み込む。
そっと手を伸ばして探ると、柔らかな長い髪に触れた。
理性を保つためそのままの距離で膝をつき、ローゼスは椅子に座る相手の手を取り、ゆっくりと諭すべく語りかけた。
「迷いは如何なる時でも起これど、正しき道は一つではありません。
貴女が選ぶ先に光が訪れるよう、日々を共に祈り、進みましょう。
一時の感情に流されてはなりません。
後々で後悔されぬよう、よくお考えなさい」
ガタンという音の後、抱き付いてきたのは甘やかな香りと柔らかな温もりだった。
「こ、後悔なんて、しません……」
胸に伝わる鼓動音が、自分のものか相手が押し付けているものなのか分からない。
「お願い……叶えて……」
嗚咽混じりの懇願は、今にも消えそうに小さかった。
ローゼスは手を伸ばすと、その小さな顎を探り当てた。
引き寄せると、わななく唇に顔を寄せ、そっと触れるように口付ける。
優しく慰めるようについばんでいくうちに、少しずつ彼女の強張った身体から力が抜け落ちていった。
やがて、ためらいがちに差し出された舌先をローゼスはゆっくりと絡め取り、味わった。
互いを抱く指に力が込もり、くぐもった熱い吐息を漏らして酔いしれる。
「……すき……」
「すきなんです……ローゼス様……」
男の頭が首筋から下に落ちていくにつれ、うわ言が吐息に混じる。
その想いに言葉で応えてやれぬもどかしさが熱となりローゼスを突き動かす。
――今、このひと時が永遠であればいいのに。
床に敷かれた服の上で、女は甘くとろけそうな声で鳴いた。